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 途端、足をキャットウォーク上で滑らせ、しこたま、踏み出した右膝を痛打した。

 プラットホームは水平だったが、キャットウォークは、避雷針のある最高部に向け斜めに何%かは、わからないが登っていたのだ。

 しかも、ここは、屋根はない。びしょびしょに濡れていた。

 ウォーターハイドロプレーン現象。

 そんなことすら頭に入っていなかった。

 骨折や打撲といったものではないだろうが、おとなになると、どっかに打ち付けたりとか怪我をする機会が極端に減るだけ、体にも心にも衝撃が凄まじい。

 一挙に心拍数があがった。

 手をキャットウォークにつけて、顔を痛打しなかっただけでも、幸運だったかもしれない。

 幼児のように、手をつき、ゆっくり立ち上がると、前の避雷針だけ見据えた。

「下は見ない」声に出して、言った。

 右側にある、サイドバーの安全フックを右手で軽く引っ張り滑らせながら、歩いて行く。 小さな一歩でもいい。ゆっくりと、着実に。

 一歩、また、一歩。

 高さのことは考えない。前の避雷針だけ見る。

 安全帯のフックを架けている、サイドバー支えるための縦の支柱は3メートルごとぐらいにやってきた。

 そこだけは、フックはどうしても通過できない。

 そのたびに、フックを次の区間に合わせるため、外し、次の区間に架け直す。

 そして、一歩、一歩。

 リードをつけた犬を散歩させるように、安全帯に結ばれた、テザーをすべらせて行く。サーという音。と暴風雨のビューという風切音。雨がヘルメットに打ち付ける音しかしない。

 一歩。一歩。

 ゆっくり、ゆっくりキャットウォークは登っている。慣れるということはない。心臓は口から飛び出そうなほど、バクバク言っている。

 その時、遠くの方だが

 キィイイインと、金属の擦れる音がした。矢吹の後ろの遠くである。

 えっ、矢吹は、不審に思い、単純に音がする方に振り返った。

 その時、雷鳴がとどろき、あたりが一瞬光りあかるくなった、たった一瞬だった。

 今まで居た、プラットホームの更に後方になにかが滑り込もうとしていた。

 <バイパー毒蛇>だ。

 それも、おかしい、普通、ジェットコースターは、プラットホームに入ってくるときは、自身の運動エネルギーを相当消費しており、ゆっくりのはずだ。

 その<バイパー>は相当なスピードでプラットホームに入っていった。減速する様子がない。

 まるで、田舎の駅を通過する私鉄の特急のようだ。

 <バイパー>は、減速することなく、プラットホームを通過した。矢吹がいる、最高部への上昇区間に入る。

 恐れることはない、矢吹が、いるのはコース横の点検用キャットウォーク。<バイパー>が走るコースでは決してない。

 しかし、怖い。

 それは、<バイパー>の速度が尋常ではないからだ。

 カクンと、<バイパー>の車体の下部の爪がコースの駆動部分にひかかった。

 ここからは、ゆっくりと登る筈だ、と思ったら、

 カクン、カクンではなかった。

 ギュワーンと連続した。今まで、聞いたことのない音がしていた。

 サイドバーにかけている、安全帯のフックが振動でカタカタカタと揺れる。

 こんなことってあるのだろうか?。

 心からの単純な発露で矢吹は、自然とキャットウォークを今までの倍ぐらいの速度で駆け上り始めた。

 それが、<バイパー>から逃れるいや、距離が取れる一番の自然な行動だった。

 <バイパー>は、最高部への上昇区間をカクンカクンといいながら、ゆっくりでなく、なにかモーター駆動やベルトコンベアーのような、雰囲気で登ってきた。

 矢吹はこの動き、どこかで見たことがあった。そう社会科の授業での記録フィルム。

 そうだ、炭鉱での石炭を掘り出したあと外へ運び出す、ベルトコンベアの動きだ。

 <バイパー>はどんどんコースを駆け上ってくる。

 駆け上がっていた矢吹は、突然、ぐっと下へ躰ごと引っ張られた。見ると、テザーが定規のように一直線になっている。

 安全帯のフックが、矢吹の今居る位置の遥か下のサイドバーつなぎ目で引っかかり止まっている。

 動き出した、<バイパー>に見とれている間に、安全帯のフックをつなぎ目で一旦離しもう一度、高い部分のサイドバーに引っ掛け直すのを忘れていたのだ。

 しかし、フックを外しに下に戻りたくない。

 <バイパー>はどんどん登ってくる。

 矢吹は、命綱に文字どうり縛られて、動けない。

「大丈夫だ、コースとキャットウォークは違う、違う、違う、違う」

 矢吹は、心を落ち着かせるため何度も、実際に口にした。

 心臓が早鐘のように鳴り響く。

 <バイパー>がフックがサイドバーの継ぎ目で、ひかかっているあたりを通過した。

 その時、恐ろしい稲光いなびかりが矢吹の後ろ、今は、進むべき避雷針の方向だが光った。矢吹の躰の影とともに、<バイパー>が映し出された。

 矢吹は、無人の<バイパー>を想像していたが、違った。


 人が乗っていた。

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