【企画参加】とある夫婦のお茶漬けの話

柿木まめ太

お茶漬けは永谷園で

 秋雄は重い足取りで、開いたエレベータから一歩を踏み出した。上昇するハコの重力を感じ取っているだけ、ただ突っ立っているだけで、どれほど疲労が積み重なっているかを嫌でも思い出させる時間がようやく終わった。

 現在の階数を教える表示板の点灯、その切り替わりに意識を集中させる事で無理やりに重力を無視してきた。まだ気付いてしまわぬようにとの、ささやかな努力だ。

 気付いたが最後、そのまま行き倒れてしまうのではないかと毎日思う。


 エレベータを降りて二つ目の玄関、そこが秋雄のマイホームで身重な妻の美香が彼の帰りを待ってくれているはずだった。

 玄関ドアの開閉だけで聡い美香はそれが誰だか当ててしまう。鍵を持っていて自力で開けるのは秋雄さんだけ、と以前に笑って答えたものだ。

 少々癪だったがなるほど鍵を差し込めば、ガチリと派手な音がしてからロックは外れる。長い廊下の向こうの居間にも届きそうな大きな音だった。

「おかえりー。」

 玄関に一歩、足を踏み入れると軽い調子の美香の声だけが秋雄を出迎える。もう6ヶ月に入ったことだし、身体が重たいのも承知だが、彼女は少しルーズになった。

「なにか食べるー?」

 また声だけが優しく秋雄をいたわって、独り玄関先で靴を脱ぎ、くつ下をポイと廊下に捨てた秋雄の頭上を跨いでいった。


「うんー。すぐ食べられるもの、用意してくれるー?」

「わかったー。」

 間延びした会話の応酬。廊下の距離なんてたかだか数メートル。二人は互いの姿が見えないその距離で、思いやりをプラスしたゆっくりめな大きい声を行き交わせる。

 遠いリビングの磨りガラスに、美香の影が横切るのが見えた。


 秋雄は大きな溜め息を吐き出した。ボヤけたガラスに映る妻のシルエットはたぬきのようで、突き出た大きなお腹をポンポコ叩いて歩いていそうだった。だから、これは疲労の吐き出す息ではなしに、安堵の吐き出す息なのだ。自分の意識に麻酔をかけて、秋雄はもうひとふんばり、長いながい廊下を裸足で前進した。

 磨りガラスのドアを開くと、明るいリビングではついさっきまで妻が見ていたアニメ番組がクライマックスを迎えていた。ビデオに撮ってあるヤツで、何度も観たシーンだ。胎教の二文字が浮かび上がるところを必死に沈めた。


 アニメの主人公が両手に花でいるのを横目に、秋雄はネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを一つ外してスラックスを脱いだ。ボクサーパンツにワイシャツとネクタイ、ほとんど変態チックなこの状況への文句も最近は止んでいる。それがリアルの幸せというものだ。


 妻の美香は機嫌が良いようだった。機嫌が悪ければ、つわりを理由にソファから一歩も動かない。だから今日は機嫌が良いのだ。彼女はキッチンで鼻歌のアニメソングをデタラメに編曲し、ドラム代わりの夫のお茶碗を箸で叩いていた。その隣で、先週買ったティファールの湯沸かし器がシュンシュンと蒸気を上げ始めている。まっさらな湯沸かし器で沸かすお湯がまた格別なのだ。


 お湯待ちの彼女を眺めながら、秋雄はリビングのソファに腰を下ろした。ローテーブルの上に散乱する薄い本を片付ける。また得体の知れないCD盤が増えている。

 美香が台所からリビングに戻ってきた。お茶漬けを作ってきてくれた。

「うん、食べやすくていいよ。」

 リップサービスだ。

 妻の機嫌が良くて、家に何事もなくて、お茶漬けが永谷園なら文句はない。


 少しだけ、秋雄はお茶漬けを眺めた。去来する想いに言及することはない。胃の中に入れば何でも同じだ。おしんこくらいは欲しかったという言葉も一緒に飲み込む。妻は身重だ。6ヶ月だ。幸せを噛み締めた満足げな微笑みで、美香は秋雄の前に頬杖を付いている。少女趣味なピンクのハート型ラグ、赤い可愛いソファ。

 ガラスのローテーブル。うさぎ柄のカーテン。本棚いっぱいの薄い本。得体の知れないCDが詰まったオーディオ台。ワンエルディーケー、彼女の居城。隣の小さな畳の間には秋雄の両親から贈られたベビーベッド。隣り合わせに敷いた二組の布団。


 なにはともあれ、二人は幸せだった。

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