8.約束の日
――――そして、約束の日。
昼休み、文芸部部室に向かうと机の上に一枚の置き手紙が残されていた。
『先に屋上に行っています』
細く、綺麗な字で書かれたその手紙は、白石が書き置いたものだろう。
「一人で屋上行かせて大丈夫か⁉」もし早まって飛び降りたりしたら、と俺は想像する。
「大丈夫」しかし真由子は冷静に、そう呟く。
「和葉は契約を破ったりはしない」
行こう、と真由子は言う。昇降口で靴に履き替えて、非常階段へ向かう。
屋上へ続く階段を遮る鉄柵へと辿り着く。鍵は外されている。
真由子は手をかけて、柵を開く。この先には、白石が待っている。
階段を登りきる。屋上には、ぽつりと佇む一人の少女がいた。
その短い髪を風になびかせながら、空を見上げている。
「え……あれ、おい、あれって白石だよな?」
「うん、そうだよ」
「え、なんで、髪、あんなに短く……」
目の前に小さく見える白石は、それはもうバッサリ、といった感じで髪を切っていた。
「私と一緒に切りに行ったの。昨日の日曜日に」
「え……」
「本当は土曜日に切るつもりだったけど、和葉、美容院の前で怖気づいちゃって。その日は一旦帰って、次の日改めて」
俺たちは彼女に近づいていく。ざっくりとしたショートヘアーの白石は、こちらの存在に気づき、顔を動かす。
「あ……真由子ちゃん……待ってた、よ……」
そうして、青空の下、この学校で最も空に近いこの場所で、二人の少女は向かい合う。
「やっぱり似合ってるよ、その髪型」真由子は言う。
「…………そう、かな……」
「うん、やっぱり、美人だよ、和葉。嫉妬する」
髪が短くなったからだろうか、どことなく表情も明るく見える。短くなった髪を気にしているのか、時折自らの髪に触れつつ、視線もどこか定まらない――のはいつものことかもしれないけれど、なんというか俺たちに見られていることに対する恥ずかしさのようなものが、窺えた。
「……ナオ」
真由子は小さな声で俺に言う。
「ここからは私一人でやる。ナオは見ていて。もし……もしもダメだった時には、力を貸してね」
「……おう、分かった」
――それは昨日の夜のこと。真由子からメールが届いた。
『明日、ナオも一緒に屋上に来てほしい』
もしも自分の作戦が成功しなかった時には彼女がどうなるか分からないから。その時は私一人じゃ止められない可能性もあるから。
――つまり俺は「男」として、必要とされここに来ている。
もしものことがあった時は。
そんなことがあるとは思いたくない。俺は真由子を信じている。それでも万が一、その時は、白石の教室の前で何もできなかった俺は今度こそ、ちゃんと動こうと心に決めている。
俺は何歩か後ろに下がる。校舎側の人間から見られることのない位置まで後退して、黙って二人を見守る。
静かな時間が流れる。青空を、街並みを、水平線を背景にして対峙する二人の少女は、どことなく絵になった。
「……約束の日だね」
先に言葉を発したのは真由子だった。
「手紙、ちゃんと書いてきた?」
「うん……書いて、きたよ……」
白石はブレザーの内ポケットから、丸めた白い紙を取り出した。
真由子は頷いて、彼女もまた同じように、胸の内ポケットから手紙を取り出す。
「私たちは今から、世界に向けて言葉を放つ」
真由子は言う。淡々と、演劇部で手に入れたほんの僅かな技術を駆使して、言葉を継ぐ。
「それらは全て、ありのままの自分自身。一言一言に、魂が宿ってる。言葉たちは空に昇っていく。全ての言葉を空に還し終えた時、私は五文字の言葉をあなたに伝える。その言葉にあなたが頷けば、私の勝ち」
いつから勝ち負けの話になったのだろう。というか負けてしまった場合はどうするのか。いろいろと疑問はあったけれど、その真剣な空気に挟む言葉は何もない。白石も、その空気に飲まれるように、惹き込まれるようにして聞いていた。
「……じゃあまずは、私からやるね。少し長いけど、ちゃんと全部聴いて。全部受け止めて。これが私だから。ありのままの、剥き出しの、私自身だから」
真由子は一瞬だけ、俺の方を見た。そして、手紙を開く。
目を閉じて、息を吸う。
そして。
いつも何かが足りないと思っていた。満たされないと思っていた。クラスのみんなが見ているバラエティ番組なんて微塵も面白くなくて、流行りのお笑い芸人の真似事だけしている教室の人気者を見下していた。本人にはセンスの欠片もないのに、どうしてあんなのが人気者なの。絶対に私の方が面白いのに。そう思っていた。でも、私の行動が評価されることなんて一度もなかった。小さい頃から本が好きだった。女手ひとりで私と弟を育てている母はいつも忙しそうで、子ども心ながらにそんな母に気を使っていたのか、私は何かを願ったりねだったりすることはあまりしなくて、唯一、本だけを求めた。母も本だけはいつだって買い与えてくれた。あまり裕福な家ではないと思うけれど、育った環境は自分にとって当たり前のものになってしまうから、不満があっても結局受け入れざるを得ない。もっと裕福だったなら、確かにそう思う。高校生にもなって弟と同じ部屋なんて、これはもう本当に最悪。今も後ろで弟が寝ている中、これを書いている。この家の、そんなところは嫌い。弟は生意気だし、お母さんは一人部屋がほしいとどれだけ言っても、取り合ってくれない。でも、母や弟がいなくなってほしいかって言われたら、絶対に違う。父親にはもう十年くらい会っていないけれど、この家が嫌だからって父親の元に行きたいだなんて微塵も思わない。私はお母さんが好き。弟が好き。不満があっても、何があっても、それは変わらない。私には友達がいなかった。小学校くらいの時は、分け隔てなく誰もが友達、みたいな空気があって、私もそれに漏れずになんとかやっていたような気もするけれど、小学校高学年くらいから徐々に自分の中の考え方とかができ始めて、それからは基本的に一人だった。誰かと一緒にいたとしても、その人のことを友達とは思いたくなかった。好きなものが同じ人たちだって、物事の評価は上辺ばっかり。あなたたちの「好き」って、そんなものなの。誰だって本質なんて理解しようとはしないんだ。話の合う人なんていなかった。だから私は本に向かった。ずっと図書室にいた。中学生になってそれは顕著になった。人を選別した。明るくて社交性があって楽しそうな人たちを妬んだ。つまらない人たちを見下した。そんな態度を取っていたから私は嫌われた。孤立した。でも、そんな人たちに私のことなんて理解できるはずがないんだって思って納得してた。ちょうどそんな頃だったと思う。私は涼宮ハルヒに出会って、何よりもハマった。私も彼女みたいになりたいと思った。それはもう恥ずかしいくらいにそう思った。同一化した。彼女の真似をすれば、退屈だと思っている世界から抜け出して、非日常がやってくるかもしれないと思ったから。面白い誰かが私を見つけてくれて、大好きな空想の世界にももしかしたら本当に行けるのかもしれないって思ったから。私は宇宙人も未来人も超能力も幽霊も信じている。だって見たことがないものは無いと否定できないから。そっちの方が絶対絶対面白いから。夢があるから。地球があって、動物や植物が生きているのなら、例えそれが奇跡的な確率で成立したのだとしても、同じような環境が他にもできる可能性がある。だからこの宇宙のどこかには、本当に知的生命体がいて、ただ単に今の私たちが知り得ないだけ、そう思っている。そんな考えを馬鹿にする人はたくさんいる。夢がないって思う。そんな私はハルヒの真似をしたまま高校に入った。高校に入ったらSOS団を作ろうって本気で思ってた。絶対に上手くいくんだって根拠のない自信があった。振り返れば結局失敗してるんだけど、その原因は自分にあった。って、今では認めることができる。認めざるを得ない。これは全てを剥き出しにして語る文章だ。だから全てを包み隠さずに言う。私は一人の男の子と出会った。入学したての席順で番号がひとつ前の男の子。それは言ってしまえばキョンの席だ。彼は私の自己紹介の後、まるでキョンみたいに振り返った。それから彼は、どうしてか知らないけど私に突っかかってきた。最初は馬鹿にされているのかと思っていたけど、どうしてかいつも関わってくれた。彼は入学当初俺もハルヒが好きだと言っていた。もしかしたら彼なら、そう思って誘ってみた。SSS団。退屈な世界の憂鬱を吹き飛ばす超革命的高校生集団。彼はそれに入ってくれた。彼の言葉にはいつも棘がある。それはあまりにも正論で、それは言わない約束でしょって言葉を容赦なく投げつけてくる。彼は私にお前が変われ、と言った。私は誰かを変えたかった。私が正しいって思わせたかった。でも、どうやら逆だったらしい。私が変わらないといけなかったらしい。それは今振り返ってようやく理解できるものだけど、最初は意味が分からなかった。彼は「俺がお前のキョンになる」って言った。何それ。私が言うのもなんだけどめちゃくちゃイタい。全然意味分かんない。でも、説得力があった。多分その時にはもう、好きだったと思う、彼のこと。それから、演劇部の先輩たちに出会った。それは本当に偶然だったと思うけど、彼や先輩たちに出会えたことは多分、奇跡だって言っていいんだと思う。そう思ってる。私には今まで先輩という存在がいなかった。中学も部活とかやってなかったし。初めて出会った先輩は、何故か優しくしてくれた。SSS団のことをいいね、と言ってくれた。男の先輩、女の先輩、ひとりずつ。演劇部。彼らは芝居がとても上手だった。そして何より、聞かせてもらう演劇部の思い出話が、嘘みたいにきらきらしてた。憧れた。どうして私はこうなれないんだろうって悔しく思った。文化祭がやってきて、私は見せつけられてしまった。もうどうしていいか分からなくて、単純で短絡的な考え方だけど、じゃあ私も演劇部に入ったらいいんじゃないかって思った。演劇部に仮入部した。想像していたのとは違った。でもそれはやっぱり結局自分が悪かった。彼に指摘された。私の強がりは全部、彼に見透かされている。私は彼に勝てない。どんなことをしたって、私の行動原理なんて全部バレバレで、きっと哀れにしか映ってない。でも、それでも彼は私の隣にいてくれた。今までそんな人に出会えたことはなかった。彼もまた剥き出しで、私に言葉をくれた。嬉しかった。ムカついたけど、勝てないって思った。私はそんな彼のことが好き。大好き。嫌われたくない。けど、恋愛の仕方とかよく分からないし、今も多分自分勝手に振り回してる。でもついてきてくれる。彼は優しいんだ。私は素直に生きようと決めた。今更奇抜な自分を演じたって全部見透かされちゃうから。所詮私は平凡でしかないから。でも、平凡であることがすごく苦しいことだとは、今は昔ほど思わない。夏休みの演劇部の毎日もすごく楽しかったし、それは平凡かどうかなんて関係のないものだった。高校入ってよかったと思えた。生きててよかったって思えた。私だってかつて、死にたいとか、自分になんて価値はないとか、思ったことがある。でも、今は、死ななくてよかったって、思う。そして私は今、一人の女の子の魂と契約を交わしている。契約、一度交わしてみたかった。でもそれはとても重い。私にこなせるものじゃないかもしれない。だって命が懸かっている。でも、私は逃げちゃいけないと思った。だってあの子は、私に似ているから。これまでの自分自身そのものだったから。退屈な世界に見限りをつけたいと思ったことは私だって何度もあったけど、私は彼に出会って、見限らなくてよかったって心の底から思った。だから彼女と契約を交わした。私は彼女にハッタリをかましている。強がって威勢を張っている。こんなハリボテ、すぐに崩れる。でも、私も一緒に変わりたいと思った。彼女に革命を与えることができたらその時は、この薄っぺらなハリボテも少しは本物になるかもしれないと思った。彼は私を変えてくれた。「お前が変われば世界は変わるんだ」って言ってくれた彼を私は信じたい。だから次は、私の番。彼から教わったやり方で、私もやってみる。これはとても自分勝手な契約だ。私が私を変えようとしているんだ。私が変わったってことを、過去の私に突きつけたいだけなんだ。そんなワガママも全部ひっくるめて、どうか彼女に伝わってほしい。
反則だろ、と思った。お前、それは禁じ手だろ、と思った。
あの田中真由子が、こんな言葉を連ねるだなんて、入学当初の俺に想像ができただろうか。
書き殴ったかのような、行き当たりばったりで、散らかった言葉たち。でも、それは多分、今まで出会ってきたどんな言葉よりも、剥き出して、鋭くて、脆くて、切実だった。
衝撃で、身体が動かない。指一本すら動かせない。甘く、鋭く、全身を伝う痺れ。浮遊感、感動、そして切なくこの胸を締め上げるのは多分きっと、溢れんばかりの――――
真由子は手紙を閉じる。
目を閉じて、呼吸を整えるように、大きく息を吸い込む。
静かな時間が屋上に流れる。
「……じゃあ、次は、和葉の番だよ」
真由子は、真っ直ぐに白石を見据える。白石は目を逸らして、けひ、と笑う。
「…………」
しばらく視線を泳がせながら、手紙を構えることなく時間が過ぎる。
「ぁ…………ぇと……」
「大丈夫、ゆっくりでいい、途切れ途切れでもいいから、聴かせて」
真由子は優しく、語りかけるように言う。白石はこくり、こくりと小さく何度も頷いて、ようやく手紙を両手に構えて、胸の高さあたりまで持ち上げた。
「あ……と……」
もう後戻りはできないと覚悟したのか、白石は自らの手紙を読み上げ始める。
「わたしは前世……今は遙か、太平洋の底に沈んだ、巨大な大陸……アトランティスの、戦士、でした……わたしはそこで、多くの仲間、と、出会い、時空戦争が始まる前の世界に跋扈していた、《混沌》、たちとの……戦いを、続けて……いました……」
「……それ、違う」
真由子が鋭く、白石の言葉を切った。
「それ、本音じゃない。本気の言葉じゃない。本物かもしれないけど、本音じゃない」
真由子はじっと、刺すように白石を見つめる。その瞳は全てを暴くかのように、鋭い。
「……それしか用意してないの?」
低いトーンの声。その質問に白石は言葉を詰まらせる。
「……じゃあ、今から、少しずつでいいから、全部話して。私が先に言ったような内容でいいから、和葉の心の内、思ってること、好きなもの嫌いなもの、全部話して。つっかえつっかえでもいい、話の内容があっちこっち飛んでもいい。とにかく全部、私に曝け出して」
真由子が黙れば、世界も黙る。それくらいに、この屋上は、世界から隔絶されていて、全ての音は遠く、風景も、空も、遠く、俺たちはちっぽけで、その中心で、真由子はしっかりと、揺らぐことなく、その二本の両足で立って。
「今日だけは、土曜日みたいに先延ばしたりしないから。私いつまでも待つからね。何時間でも、何日でも。ここから返さないから。和葉が全部しゃべり尽くすまで、私絶対、ここから動かないから」
「…………」
真由子の揺らがない意志に屈したのか、白石はブレザーの内ポケットから、躊躇いがちにゆっくりと、もう一枚の丸めた紙を取り出した。
「……あるじゃん、ちゃんと」
真由子が表情を和らげる。
「……恥ず、かしい、よ……」
「うん、知ってる。そういうものだから」
真由子は両手を前に広げて、優しく、力強く、白石に言った。
「さあ、聴かせて。和葉の本当。私、全部受け止めるから」
白石は大きく目を見開く。短い髪が風になびく。
震えながら、手紙を構える。そうして――
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