9.空に還す

 友達がいません。上手くお喋りすることができません。人と関わるのが恐いです。自分の気持ちを上手く伝えることができません。爆弾を作りたいと思う時があります。人がたくさんいる場所でそれを爆発させたいと思う時があります。人を殺したいと思う時があります。死んでしまいたいと思う時があります。私を嘲笑う女子を、男子を、電波で発狂させたいと思う時ばかりです。私は父、母、兄の四人家族です。両親は共に寡黙で、あまり兄と私に干渉してくるような人たちではありません。家族団欒を大切にするような信条もなく、それぞれの仕事の関係もあり、家族で食卓を囲むことは珍しいことです。たまに集う夕食も、空気はあまりよくありませんでした。そんな中で、明るい性格の兄の存在は潤滑油のように働くことが多かったと思います。小学生の私が作文で賞を取った時、普段あまり表情を変えない両親が、その時だけは確かに笑顔で、私のことを褒めてくれました。私は嬉しかったです。文章ならば、家族に認めてもらえるのだと、そこから文章を書くことが好きになりました。両親は欲しいものはなんでも買ってくれましたが、そこにあまり愛のようなものが見えたことはありません。私は本を読むことが好きだったので、たくさん本を買ってもらいました。三つ上の兄が大学生になり家を出てから、家の中はますます暗くなりました。私は寂しいのです。私のことを理解してもらいたいのです。それは我儘でしょうか。人と上手く接することができず、それなのに何かを求めてしまう。他人の気を引こうとして、いつも裏目に出る。気持ち悪いと陰で罵られる。けれど私には、それ以外のやり方が分からない。分からない。分からないのです。手首を傷つけたって、本当は何も変わりはしないのに。気休め。気休めにもならない。愚かな行為。死んでしまいたい。私なんてこの世界には必要ない。そんな私の目の前に一人の女の子が現れました。考えていることがよく分からない。でも、なんだか不思議な気持ちになる。契約。契約を持ちかけられました。賭けてもいいかと思えました。何故でしょう。彼女が本気だったからだと思います。人生で初めて向けられた本気でした。もしかしたら彼女が、私の魂を導いてくれるかもしれない。私をリバース・デイから救ってくれるのかもしれない。だから、全てを曝け出して私は言います。助けてください。助けてください。


「どうかわたしを、救ってください」

 手紙を持った震える両腕を、ゆっくりと下ろす。俯いたまま、黙り込む。


 泣いていた。ぼろぼろと大粒の涙を流して、泣きじゃくっていた。


 ――真由子の方が。


 真由子は両手をぎゅっと強く握りしめて、歯を食いしばるような表情で泣いていた。肩で息をする。顔を上げて、白石を見据える。視線に気づいたのか、白石も少しだけ顔を上げる。

「…………あ、ぇ……その――――」

 白石の言葉を遮って、吹っ切れたように真由子が彼女に飛びついた。

 勢いに押され、いつかみたいに華奢な白石はよろめいて、二人は崩れ落ちるように倒れ込んだ。言葉もなく、真由子はただただ強く、白石を抱きしめている。

 真由子の肩口から顔を突き出すようにして抱きかかえられている白石は、困惑の表情を浮かべながら、戸惑うようにか細い声を漏らしている。両腕はどこに落ち着くこともなく宙を泳ぐ。

 その言葉たちは、文章の流れも曖昧で、唐突な部分もあった。だけど、確かに剥き出して、切実な、「SOS」だった。どうにか聞き取れるくらいの声量で、それを読み切った白石。

「和葉……和葉っ……」

 ようやく真由子が口を開く。白石の名前を呼ぶ。目の前で抱きしめていることを確かめるかのように、何度も何度も呼ぶ。

「な、に、真由子、ちゃん……」


「死なないで」


「……ぁ」

 たった五文字。それだけで。――白石の涙腺は、決壊した。

「あ…………ぅァ…………あ……」

 大きく見開かれた目から、涙がぽろぽろと頬を伝っていく。真由子のブレザーに、あっという間に大きな染みを描く。

 白石は、何度も何度も、頷く。真由子の肩にその顎を食い込ませるように、強く強く頷く。

「ねえ、ねえ、和葉」

 だらしなく鼻をすすりながら、溺れているかのように途切れ途切れに、真由子は言う。

「別の世界に行ったって、自分は自分のままなんだよ。こっちの世界で変われないなら、どこに行ったって私たちは変われないんだよ」


 日常。俺たちの目の前にどこまでも広がっている、平凡な毎日。

 例えばそれは、淡い空のような平坦さ。


「……でもそれって、あきらめとかじゃ、ないから。どうしようもない日常は、私たちの影みたいに、どこまでだって憑いてくる。時に飲み込まれちゃう夜だってあるかもしれない。……でもね、でも、自分自身を少しだけ、ほんの少しでも、世界に向けて拓いたら、見え方だって、感じ方だって、変わるんだよ」


 ――だけどそれを平坦だと思い続けるかどうか、毎日ほんの少しの違いを見つけて楽しめるかどうかは、それぞれの気持ち次第なんだ。本当は、そんな簡単なことなんだ。それに気づいている誰かはとっくに、意識なんてしないでも実践しているのだろう。一生気づけないまま、他人を羨んで老いていく誰かもいるのだろう。


 嗚咽混じりに、どうにかこうにか言葉を繋げていく真由子。

「あなたが変われば世界は変わる……って、私は、大好きな人にそう教えてもらったんだ。綺麗事だと思ってた。でもね、違った。本当だったんだよ、嘘じゃない。だから私は和葉に言う。私がいるから、一緒に変わろうって。変えてみよう。世界の終わりも、毒電波も、全部信じたままでいいから、爆弾は、抱えたままでもいいから、ちょっとだけ、拓いてみよう。最初は、私に、それから次は、じゃあ、そこにいるナオでいい、ナオなら受け入れてくれる、だってあいつも、私たちと似たようなものだから。それから、クラスメイトとか、家族とか……。私もまだまだなんだ、だから、一緒に、やっていこう」

「真由……子ちゃ、なん、なんで、わた、わたし……そんな、わたし……」

「和葉は私と似てると思ったから。私があなたといたいと思ったから。私にない素晴らしい才能を持ってると思ったから。――好きだから。そんな理由じゃ、駄目かな」

「でも……だって、それだけで……」

 真由子は、抱き留めていた白石から、身体を離す。その両肩に手を添えて、ぼろぼろに濡れた頬も拭わないまま、堂々と、自慢げに、笑いながら、言ってのける。


「だって私は、SSS団退屈な世界の憂鬱を吹き飛ばす超革命的高校生集団の団長だもん。退屈な世界の憂鬱は全部ぶっ飛ばすって、決めたんだから、私」



「……じゃあ、空に還そうか」

 二人、涙を拭い落ち着いて、しばらくして。立ち上がった真由子がぽつりと、そう言った。

「え……」

 白石は困惑する。俺もまた、困惑する。

 空に還したのは、先ほど読み上げた言葉たちのことじゃなかったのか。

「私たち自身を、空に向けて飛ばそう」

「それ、どういう……」

 そろそろ俺も背景から抜け出していいだろう。近寄りつつ尋ねる。

「そのままの意味だよ」

「お前! まさか一緒に飛ぶとか……」

「そんなわけないじゃん」

 真由子は手に持った手紙を掲げる。

「紙飛行機」

「紙……飛行機?」

「この手紙は、私たち自身。それを紙飛行機にして、空に向けて飛ばすの」

「あ…………」

 腫れぼったい顔を呆けさせて、白石は小さく声を漏らす。

「空に還るよ。ここでお別れできる、今までの自分と」

 真由子は座り込んで、楽しそうに手紙を折り始めた。

 座ったままの白石も、それを見ながら一緒に紙飛行機を折り出す。

「世界の終わりは必ず来るよ」

 紙飛行機の形を整えながら、真由子は言う。

「でもそれは、今じゃない。今来られたら、ちょっと困る」

 変に堂々と、そう続ける。その言葉を聞いて白石は、少しだけ笑う。


 ああ、これは、この情景は。

 この二人の間にある、関係性。それは、悠歩先輩の言葉を借りるのならば――共犯者。

 青春の共犯者。仲間とも味方とも違う関係性。それは特別で、掛け替えのないもの。


 真由子は立ち上がる。白石も立ち上がる。

 二人は屋上の縁に歩み寄る。遠い街並みを見つめる。

「この景色を教えてくれて、ありがとう」

「え……」

「私、屋上ってずっと憧れてた。でも、この高校って立ち入り禁止でしょ」

「ぁ……そう、だね……」

「かなりショックだった、私。この高校、景色良いから余計に。でも、まさかこんな抜け道があるなんて思わなかった。――運命の鍵。出会うべくして出会った。その通りだよ」

 真由子は言う。小さな背中、以前よりほんのちょっとだけ短くなったスカート、ハルヒの真似をした髪型。その髪が、優しい風にふわりと揺れる。

 そんな真由子の方に、白石が向き直る。真由子の右隣に立つ白石は、もじもじと、言い出しにくそうに言葉をつかえさせる。何かを言おうとしていることに気づいたらしい真由子も彼女の方に向き直る。

「ふひ……あ、あの、けい、契約……」

「契約?」

 真由子が首を傾げる。契約はさっき、解消したはずだけれど。

「うん……そう、契約、新しい、契約……」

 白石は、新しい契約を持ちかけたいらしい。俯いていた顔を上げ、彼女は言う。

「わたしと契約して、くひ、とも、友達、友達に……なってよ……」

 その言葉に面食らったように目を見開いて、ほんの少しだけ仰け反る真由子。

「何言ってるの」

 真由子は街並みに視線を戻しながら、なんでもないかのように呟く。


「私たちもう、友達じゃない」


 ……完璧な返しだった。

 多分これ、狙ってない。こいつがこんなこと、狙って言えるはずがない。

 でも、それは、完全に、決め台詞だった。

 突き放されたかと思ったらしい白石は、きょとんとした表情をにやりと緩め、控えめに一歩、真由子の傍に寄る。

「さ、飛ばそ。あの水平線まで届くように」

「……うん」


 ふたりは、屋上の縁に横並びになって、紙飛行機を飛ばす。

 その白は、すーっと、青い空に吸い込まれるみたいに、高く舞い上がっていく。

 真由子は、白石の細い左手をそっと握る。それに気づいて、左を向く白石。

 真由子は笑いかける。

 それに応えるように白石は、ぎこちなく、ありのままに、微笑んだ。

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