第2話 中学生の時の話

 「おは、雫さん。新しい朝ですね」


 美優はそう言って、寝起きの私に笑いかけた。


 「おはよ…ふわ…わ…」


 寝起きを見られたくない、と思った。「…ちょっと出といてよ、美優」


 「そうはいかないよ。また寝る気でしょう」


 むむ、っと美優は私の肩を掴んだ。


 「…ちゃんと行くってば」


 信用がないなあ、と思う反面、過去にそんなことがあったからある程度は仕方がないかなとも思う。


 「……」


 そんなことより、美優に触れられている肩が熱い。動悸もやや早くなっている。


 「…どうしたの?」


 私の気持ちなんか一ミリも気付いていなさそうな美優は、首を傾げる。そんな仕草にさえ、ドキドキするようになっていた。


 ああ、いつからこんなになったんだっけ。そう思い返してみると、やっぱり、小学校の時、美優が私にしか見えないと分かった日、美優が「いる」と分かった日、からのような気がした。


 その日からいつにも増して美優が大切になって、美優にどんどん惹かれていったように思う。


 「…起きるか」


 ほど良く温まってくれた布団を投げ捨て、美優と対峙する。


 最初に目を逸らしたのは私だった。


 「美優は学校行かないの?」


 誤魔化すように訊いた。


 「行っても仕方がないからね」


 「……」


 即答が少し堪えた。


****



 小学校の時と、概ね同じようなことを言われた。もう大人だとか、責任がどうとか。


 大人、なんて、働いていない私たちにはそぐわない言葉だと思った。


 『あなた達はまだ子供だから、保護者の方々のためにも責任をもって生活しましょう』とか言われた方がまだピンとくるものがある。


 中学のクラスは、小学校より少し多い。四十人クラスだった。だからなんだというわけでも無いが、狭苦しいのかもしれない。

 だって、この中で気の合う同級生なんて、多分一人としていないのだから。


 教師のうだうだした叱咤激励が終わって、自己紹介にフェーズが移る。解ってはいるけれど、憂鬱である。


 「…よろしくお願いします」


 前の生徒の締めの言葉を聞いて、私は彼女に拍手を送った。名前の部分は聞いていなかった。


 「次はえっと…高崎さん、お願いします」


 教師がそうアナウンスした。私は何も言わずに立ち上がる。


 「高崎雫です。趣味は読書、特技は料理。好きな芸能人は特にいません。誕生日は三月二十日。…よろしくお願いします」


 そうやって自己紹介する間に、ひそひそという雑音が耳に入ってくる。


 小学校と同じ地域だからか、そのまま上がってきて顔が知れている同級生も多かった。

 そのため、私が私にしか見えない友人を持っていることが知れている。


 そしてそれを、あろうことが同級生に紹介しようとしたことも。


 「…へえ、可哀想」


 嘲笑混じりのそんな声が聞こえて来た。目だけでそちらを見ると、私が美優を紹介してしまった子が、後ろの女子に話していた。たぶん私の話題だろう。

 可哀想、ってどっちのことだろ。私の頭がか、それとも、紹介されたその子がか。


 まあ、もうどちらでも良い。私の番は終わった。


 音を立てずに座って、窓の外を眺める。


 「…早く帰って、美優と話したい」


 ぼそり、と一つ呟いた。

 誰も聞いちゃいない。

 私の話なんか、誰も。


****



 部活動申し込みの紙が配られて、帰りのホームルームが終わった。まあ、帰りの、といっても今日は始業式だけだったから、大して帰り感がないけれど。


 「……」


 部活動の紙に目を通して、ため息を吐いた。運動系と文化系に分かれて項目があり、各部活動名の隣には印をつけるためのマスが設けてある。


 その最後に、米印で『尚、無所属は認めないこととする』という何とも高圧的な一文が添えられていて、私はそれについて落胆していた。


 部活動など、入るつもりは無かった。美優との時間を削ってまで打ち込める何かを、私はまだ見つけていなかったからだ。ホームルームが終われば誰よりも早く帰宅しようと、そう思い描いていたのに。


 まあ、私みたいなやつがいるから、こんな条件があるのだろうけれど。


 「…帰宅部でも作るか」


 なんて、独り言を呟いた。そんな気力もないし、活動理由が思いつかないから申請したところで突っぱねられることは解っている。


 既存の部活に入るしかないのだろうな、とざっと上から順に見ていく。


 こういうのって、たぶん自分の好きな分野とか、得意な分野の部活動に入るんだよね。野球が好きな子なら野球部に、絵が好きな子なら漫研か絵画部に、って具合で。


 私の好きなものってなんだろ。


 美優のことが浮かんだ。そういう好きじゃない、とぶんぶん頭を振る。


 「私が熱中しているものか…」


 さっきは趣味で読書と言ったけれど、そこまで熱心な読書家では無い。月二冊くらいのペースだし、ライトノベルしか読まないから、月十冊くらい読む人から言わせれば読書じゃないのかもしれない。だから、文芸部とかは敷居が高い。


 考えながら、靴を履き替える。正面玄関から出たところで、校庭が目に入った。体操着で、何やら器具を使って練習している。

 これは…陸上部か。



 「……」


 走ったりとか、そこまで好きじゃない。苦しいし、次の日筋肉痛になるし、良い思い出はないけれど。


 「…ねえ、もしかして、陸上興味ある?」


 出入り口に突っ立っている私に、知らない女の子が話しかけてきた。驚いて、ばっと身を引いた。


 「ご、ごめん、邪魔だったね」

 「それは良いんだけどさ。陸上部入る?」

 「えっと…」


 その女の子は見たところ、先輩のようだった。学年ごとに違うバッジを付けることになっているのだが、それが三年生用だったからだ。


 「…考え中です。走るのが、特別好きなわけではないですし」

 「そっか」少し残念そうにしてから、「体験入部だけでもやってかない?」

 「あー…」


 逡巡した。確実にいつもより帰りが遅くなるはずだし、美優も家で待っている。あまり乗り気では無い。


 けれども、と考えなおす。どのみち、部活には入らないといけない。それが陸上部でなくともいいのだけれど、せっかく陸上部員と思しき人と会ったことだし、体験入部くらいしても良いかもしれない。


 うん。今日のうちに体験入部を済ませて、無理そうならすっぱり諦めよう。そして文芸部に入ろう。なんとなく文化系なら幽霊部員とかできそうな気がするし。


 「じゃあ、はい」

 「よーし。新入生かくほー」

 「まだ入るとは決めていませんけれど」


****



 「まず、百メートル走ってみよー」


 さっき会った女の子はそう言った。驚いたことに彼女は陸上部の部長だった。これも何かの縁だな、と感じざるを得ない。


 準備運動をした後、彼女の指示で、各新入生に一人、部員が割り当てられた。その結果私は部長に当たったというわけだ。

 運がいい、ということになるのだろうか。


 「はあ」


 私は軽く屈伸をしてから、部長の掛け声と共にスタートした。


 だだだだだ。


 いや、どたどたって感じか。思った以上に膝や足首、股関節に負担がかかる。取れるんじゃないかと思うほどに痛かった。


 数十秒で走り切ると、息は盛大に切れていた。汗も凄い。


 あ、むりかもしんない。


 そう思った。


 「おつかれー。さてはあなた、普段まったく運動していないね?」

 「自慢じゃありませんが、体育も週一くらいで見学します」

 「根性あるなー」


 皮肉なのか本当に感心しているのか分かりづらい口調だった。


 「問題点が二つ」そう、部長は指を二本立てた。「まずは、走っているときは前を向きなさいな。あなた、地面をむいて走っているから、転ばないか心配だったよ」

 「はあ」

 「それから、太ももをもっと上げて、足首は衝撃を受け流す気持ちで動かしなさい」

 「はあ」

 「そんだけ。ちょっと休んだら、また走ってみ」

 「いえ、もう大丈夫です」

 「…それは走りたくないってこと?」

 「いえ。もう休むのはいいって話です」


 そういって、私はトラックのスタートラインに立った。部長がヨーイドンと合図する。


 言われたとおりに、地面をけるように足首を動かして、背筋を伸ばしてみた。これだけで結構楽に走れた。ついでに歩幅を広げてみると、案外スピードが出る。


 ゴールラインに到達した時、先ほど走った時より疲れていないことに気付いた。


 それから、清涼感があった。何かを成し遂げたときのような気持ちになる。実際にやったことといえば百メートルを走っただけなのだけれど、いつになく気持ちがよかった。


 「いんじゃない? 様になってるね」

 「…なんか、思っていたのと違っていました」

 「…?」

 「楽しかったです」

 「おお…そうかいそうかい」


 部長はじわじわ笑顔になって、私の頭を撫でてくる。


 「おお…なんか感動だな…」

 「何でですか」

 「いや、体験入部で楽しかったって言われたの初めてだなと思って」

 「まあ…楽しいの知ってて入る人が大多数でしょうからね」

 「それはそれでいいんだけど、やっぱり面と向かって言われると、来るものがあるねえ、うん」

 「ですか」

 「ですです」


 部長は何度か頷いた。それを見てなんとなく、入部を決めた。


****


 「ただいま」


 言いながら、家の扉を後ろ手に閉めた。そのまま施錠もする。


 「おーかーえーりー」


 テンション高めにそうやって美優がかけてくる。足音が玄関に響いた。


 「ちょっとまって。今はだめ。抱き付いて来ないで」

 「え…!? ええ…!?」美優は悲壮感をにじませた。

 「あ、違う。そうじゃ無くて。あれ…今、汗臭いから」

 「…? ああ、そう言えば今日遅かったね」

 「そーそー。ちょっと陸上部に入部してきた」

 「おー。走るんだー」

 「だからさ…先に風呂入っとくよ」

 「まだお湯入れてないけどね」

 「とりあえず…とりあえず私にあまり近づかないでよ」

 「なんで?」

 「なんでって…」


 あなたのことを意識しているからだよ。気になる子に、汗臭いとか思われたくないんだよ。


 とは、言えないけれども。


 「…顔赤いよ?」

 「とにかく! ちょっとシャワー入ってくるから! 食卓で待っていなさい!」

 「わかったよ」薄く微笑んで、リビングの方へ消えて行った。

 「……」


 本当はもっと話したかったけれど、まあ、上がってからでもいいさ。そう納得して、脱衣所で服を脱ぐ。

 洗濯機に入れて、もう回してしまえとスイッチを入れた。


 ばかっという音が浴室に反響した。次いで、シャワーの音が占拠する。

 体中をお湯が伝う。汗と共に疲れも流れていくようだった。

 いつも以上に走ったためか、脚がじんじんする。


 「…こんなに頑張ったのは久しぶりだ」


 なんて、好きなことをしてきただけなのだけれど。


 好きなこと。


 私の中で走ることは、既に好きなことに入っていた。たぶんあの、桐原という部長の影響が強い。

 家の方向が一緒だった。だから、途中まで一緒に帰って色々な話をした。


 あんなに話したのも、思えば久しぶりだった。いやまあ、美優とはいつも、もっと話しているけれど、そうじゃないのだ。学校というコミュニティの中で親しくするのが、私にとって重要だった。

 やっぱり、出来るなら友達が欲しかった。


 「まあ、桐原さんは友達じゃ無くて先輩だけれど」


 桐原さんは良い人だった。いや、本当はみんな良い人だけれど、私に見えない友達がいるから、寄ってこないだけだ。美優が友達だからって誰も寄ってこないのなら、それはそれで良い。でも、折角出来た親しい人を失いたくないのも事実だった。


 人と関わるのって結構いいものだな。なんて、今まで関わってなかったわけでは無いけれど、そう思った。


 だからこそ、美優のことは、私の好きな人のことは誰にも言えない。


 「…雫。なんか良いことあった?」


 食卓で待っていてと言ったのに、美優が浴室の扉の向こうから話しかけてきた。


 「え…うん。まあね」


 シャワーの水圧を緩めて、そう応える。そこで湯船にお湯を入れていないことに気付いたが、まあいいか、とそのままにした。

 体を洗うため、タオルに石鹸をこすりつける。


 「楽しかった?」

 「うん、まあね」

 「どこがどのように?」

 「作文ですか」

 「なんか、雫が楽しいって言うの久しぶりに聞いたと思ってさ」

 「ああ、そうかもね」


 言いながら、腕から順番に洗っていった。このわしゃわしゃという音がややうるさかったけれど、会話にさしたる問題は無かった。

 楽しい。それは確かに、あの時以来、言っていない。


 「…いつだって、楽しいんだけどね」

 「ん?」

 「いや、なんでもないよ」


 あなたがいるから、毎日楽しいよ。恥ずかしいから面と向かって言うわけにはいかないけれど、心の中でそう唱えた。


 「ねえ、雫?」

 「ん」

 「これからも、もしかして遅くなる?」


 「うん、たぶん」私は応えてから、「あ、寂しい?」と冗談交じりに訊いた。


 「寂しいよ」


 と、思いがけずそんな風に返ってきた。きゅう、と胸を締め付けられる感覚に襲われた。それから、口から何かがこぼれそうになった。


 寂しいのは、そりゃ、美優が私としか話せないことを考えると当たり前だとは思うけれど、素直にそう言われると、どうしたって顔がにやける。


 「そ、そうなんだ」


 声が上ずって、なぜか泣きそうになった。


 「まあでも、雫がしたいことなら、私は応援するよぉー」


 そんな私をよそに、鼓舞するかのような声を出す美優が、可愛く思えて仕方がなかった。


 「…ありがとう」


 これはもう、取り返しがつかないかもなあ、と漫然と思う。「漫然と」でないと、すぐにでも好きだと言ってしまいそうだった。頭を空っぽにしていないと、余計なことを考えてしまう。


 「……」


 声にならない声が、浴室を支配する。


 私の頭が美優で埋め尽くされていく感じがした。


****


 美優とは、浴室の扉越しで話すことが日課となった。それで、結構話す時間が取れたので、前のように話せなくなるとかはなかった。


 一まず安心するけれど、このまま親友をやっていていいのかというわだかまりは、私の中にあった。どう足掻いても、私は美優のことが好きなのだ。こんな邪念のようなものを持ちつつ、彼女と話すのはいけないことにも感じた。


 「…はあ」


 美優が帰った後は(どこに帰っているかは知らないが)、美優に思いを馳せてため息を吐くことが多くなった。


 美優のことは好きだ。


 でも彼女は、女の子で、私以外に見えない。まず女の子ってところで引っ掛かりを覚える。同性なんて、恋愛感情を抱く対象だとは思っていなかった。誰かに恋をして結婚するのだろう、と漠然と想像していた。しかし、恋をするのが美優になるとまでは予測できるはずもない。どうしたものかなあ、と悩める日々が続いた。


 「私は、どうなりたいんだろ…」


 美優のことが好きだということだけは確実だった。それが、私の中から出かかってしまっているということも解る。


 しかしその先は?


 仮に、好きだと美優に言って、それで私はどうしたいんだ?


 受け入れてもらえれば、きっと今まで通りの生活が待っている。


 そうでなければ、美優と私はどうなるんだろう。


 「…もしも、かわってしまうなら」


 もしそうなら、もう、このまま何も言わないのも一つの手かもしれない。


 それで、この関係が維持できるなら、それでいいのかもしれない。


 「…好き。好きだよ、美優。大好き。私のものに、なってよ。お願いだからさ。ずっとそばにいてよ」


 そう呟いて、一人昇華する。  


***

 

 桐原先輩とは、毎日登下校を共にしていた。同じ部活に入っているのだから、当たり前ではある。私にとっては、それが結構嬉しくて、甘えてしまうこともあった。

 

 「あの、先輩、手、繋いでもいいですか」

 

 とか、そんなことを言うこともあって、ちょっとだめだなあ、と自分で反省するほどである。


 「あのさ、雫」


 入部から数週間経った頃の帰り、桐原先輩は少し真面目な口調で言う。

 少し嫌な予感がしつつ、返答する。


 「はい」

 「最近、なんか悩んでることある?」

 「悩んでいること…」


 真っ先に美優のことが頭をかすめた。表に出てしまっていたか、と少し恥ずかしくなる。それから、美優にも心配させてしまっていたらどうしよう、と申し訳なくなる。


 「あ、言いにくいことだったらいいんだけどさ…部員の子に聞いちゃって」


 桐原先輩は深刻な表情で言った。


 「聞いたって」

 「雫、クラスで浮いてるって」ごめんね、と桐原先輩は言う。

 「…私が変なこと言うって、自分にしか見えない友達がいるってことは聞きましたか」


 できれば知らないでほしかったが、それは多分無理だろう。私が孤立していることを聞いたというのなら、その理由について桐原先輩は尋ねたはずだ。その場合、大概は答えられないだろうが、私に限っては理由がはっきりしている。


 美優がいるから、私に誰も近寄らない。


 「まあうん、聞いた」

 「ですか」私は項垂れるように頷いてから、「気持ち悪いですよね」

 「そんなことは」

 「…先輩に嘘を吐いてほしくないです」

 「……」桐原先輩は黙ってしまった。


 ああ、もっと気の利いたことが言えればよかったのだけれど、と申し訳なくなった。


 なんて。


 それすらも傷つかないための誤魔化しである。


 本当は、桐原先輩に気持ち悪いとか思って欲しくなかった。


 「…私はでも、よくわからないんです。私にはその子はばっちり見えていて、毎日話もしていて、他の人には見えないって言われても、いないって言われても、そんなわけないんですよ。その子のおかげで楽しいし、寂しくないし、その子がいないと、私、こんなに元気じゃないんですよ」


 なにも考えず、成り行きに任せて言葉をこぼす。独り言のようでもあった。桐原先輩がどう思ったのか気になった。普段お喋りでもないやつが、急にこんなに喋ったら、普通に困惑するだろうか。


 「…雫はさ、その子が好きなわけ?」

 「え…えっと」


 条件反射の要領で、顔が赤くなる。友達として、という意味で桐原先輩は言ったのだろう。


 美優が好きかなんて、毎日確認していることである。彼女が笑えば私は嬉しくなるし、彼女が抱き付いて来れば鼓動が早くなる。美優のせいで離れて行くようなら、友達なんていらない。美優だけがいれば満足だと、毎日思う。


 「好きですよ、大好きです」



 私は誤魔化さずに、なるべく聞きとりやすい声を意識して言った。


 「一時たりとも、嫌いになったことはありません」

 「…強いね、雫は」桐原先輩は微笑んで言う。「気持ち悪いなんて、本当に思わないよ。ただ、少しびっくりしたのは否めない。私の周りには、自分だけの友達いる人なんていないからさ」

 

 言ってないだけかもしれないけど、と桐原先輩は続ける。


 そういえば、と小学生の頃に会った女の子のことを思い出した。あの子も私のように自分にしか見えない友達がいたと言っていた。それが嘘か本当か分からないけれど、あれで結構元気づけられたことを憶えていた。


 あの子はもうすっかり見えなくなってしまったと言っていたけれど、やっぱり見えていたことは周りには言っていないのだろうな。まあ、まずもって話題に上らないのだろうが。


 「私はさ、雫がどう思っているかは解らないけれど、それで良いと思うな」

 「それで…?」

 「うん。その子だって、雫の構成要素の一つでしょ? 私の最近の性格の一端を雫が担っているみたいに、その子は根本から雫の一部なんだと思う。だからさ、その子がいることを、気持ち悪い、なんていう輩とはたぶん一緒に居ても無意味だよ。まあ、現実問題そう上手く割り切れはしないんだろうけれど、ほら、少なくとも私は、雫から離れようなんて思わないし」

 「…そうなんですか?」

 「うん。だって、私が会ったのは、その友達がいること前提の雫だもん。もしもその友達がいなかったら今の雫じゃないかもしれないし、その子の存在を否定するのは、ちょっと気が引ける。雫の友達には何の思い入れもないけれど、雫が今の雫だってことは、私にとって結構重要なんだよね」


 そんな風に肯定してもらったのは初めてで、どう反応していいか分からなかった。代わりに、桐原先輩の言ったことを反芻する。


 私は、美優を含めての私なのか。美優がいたから、今の私がいて、美優の影響を受けていない私は、全然違うやつになっていたかもしれない。


 確かに、その通りだと思う。


 友達もいないし、家族との関係も希薄な私は、美優がいなければ絶対に一人ぼっちだった。そうならなかったということは、案外、重要なことだったのかもしれない。意識したことは無かったが、美優のおかげで頑張れたことも少なくない。結果として失敗に終わったけれど、美優を紹介したあの日、同級生と仲良くなろうとして、家にまで呼んだことは紛れもなく美優が関係していた。


 私にとって美優は、原動力なんだ。


 生きる理由といったら大袈裟だけれど。


 生きれた理由ではあるのかもしれない。


 そう思うと、なんだか。


 「…だからさ、あんまりそのことで悩まない方が良いよ。私は絶対、雫のそばから離れたりしないからさ」


 先輩は優しい口調で言う。


 「それは、何でですか?」

 「さて、なんででしょうね」


****


 「雫、朝練です」


 今日も今日とて、そんな声が私の目を覚ます。心地良い起床だった。

 毎朝起き抜けに、好きな人の顔が見れるのだから、良くないはずがない。


 「ふあ…おはー…」

 「おはおは」


 しばらくぼーっとしてから、やがて覚醒してくると、昨日のことが頭を過る。


 私は、美優前提の私。


 当たり前である。殆ど美優としか話していない私が、誰から影響を受けて私となりえるだろう。美優と友達でない私は、私じゃない。


 美優のいない私は、私じゃない。


 熱に浮かされた様にぼーっとした頭のまま学校へ行く準備をして、玄関で美優に見送られる。


 「ねえ、大丈夫、雫?」

 「ん、大丈夫って」

 「心ここにあらずって感じだから…具合悪いんじゃない?休んだ方が良いんじゃ」

 「ああ、いや、大丈夫。体調が悪いわけじゃないんだけど、色々考えていて」

 「考え事?」

 「そんな感じ」私は頷いてから、決心して言う。「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど、良いかな」

 「うん。どうぞどうぞ」美優はいつもの調子で言った。

 「私ね、ずっと考えていることがあって。本当は、いけないことだって思うんだよ。一般的でないし、自己完結気味の思いだって、思う」

 「一般的でなく、自己完結気味」

 「そう。考えなきゃいけないことはいっぱいあって、それは解決しなきゃいけないことなんだと思うけれど、やっぱりそれ以上に気持ちが抑えられない気がして」

 「ほお」


 美優は間延びした返事をする。それが何となく可笑しかった。


 「…驚かないでね」


 それは無理かと思いつつ、私は言う。


 「好き。大好き。友達とか言われたら悲しくなるくらい、美優が好き」


 私は美優と視線を合わせていう。誤解を生まないように、目を逸らさない。これで真剣さが伝わればいいのだけれど、と返答を待った。


 期待と、恐怖が入り混じる。


 美優が顔歪ませる。はあ、と長い溜息を吐いた。気持ち悪い、と罵倒する。そんな目で見てたんだ、と声を荒らげた。

 そんな想像が止まらなかった。


 「えっと…」


 美優は困惑した表情をしたあと、ぼっと顔を赤くした。うぇ、うぉ、いぇ、とかいう声にならない声を漏らしている。


 あー…これは失敗したかな、とあきらめかけた。


 そんな矢先。


 「えっとね…ちょっと、えっと」はっきりしない返答の後、美優は私へ近付いて来る。


 その距離が、ゼロになった。


 唇にふにっと柔い感触があった。


 「…家に一人だと、寂しいので」美優は言う。顔を赤らめながら、そう言った。「早く帰ってきてね、雫」

 「…あ、と」私は曖昧な声を出してから、「好きって言って」

 「…私、言葉にするの苦手なんだけど」

 「初めて聞いた」

 「初めて言ったからね」美優は言ってから手持ち無沙汰にくねくねした。


 「…好き」


 「え?」


 私は悪戯心で聞き返した。


 「聞こえてたくせに…!」

 

 「うん」私は悪戯っぽく笑って見せた。「言ってきます、美優」

 

 「いってらっしゃい、雫」


 美優は照れたように笑って、そう見送った。

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