第4症例 高所病

「君は山羊みたいだね」


 子供の頃、木登りが得意だった私に、先生は微笑みながらそう言った。


「山羊? どうして?」


 あんな怖い目をした、不気味な鳴き声の動物に似ているなんて、可愛いものに憧れる多感な少女には喜べない例えだった。


「知らないのかい。山羊はどんな高くて険しい崖でもすいすいと昇っていけるんだ。天敵にも追い付かれないほどの脚力は素晴らしいし、何よりとても美しい脚の形をした、神聖な生き物だよ。まるで君のようじゃないか」


 それまで感じていた疑念が嘘のように晴れ渡り、喜びに満ち溢れると共に、先生のセンスを疑った自分を恥じた。

 それ以来私は何かと山羊を愛でるようになった。怖いと思っていたあの縦長の瞳も良く見れば可愛いものだったし、不気味に思えていた鳴き声も慣れてしまえばどうってことなかった。

 先生は私の脚を愛でてくれた。生まれつき、歪んでいた私の醜い脚。治療の為に不格好なボルトを何本も仕込んでおかないとまともに歩けやしない、この無様な脚を、先生は美しいと褒めてくれた。「たくさん運動をするといい」と言ってくれた先生の言葉を信じ、私は痛みを堪えながら歩き続けた。

 ある時先生が転んで泣いていた私を軽々と肩車してくれて、私は世界が自分の見ているものだけじゃないと知った。それ以来木登りが大好きになり、高い所はもっと大好きになった。

 本当は先生の目線を知ることが出来たことが、何よりも嬉しかったのだけど。


 私の脚からボルトが消え、完全に歪みは取れなかったものの、普通に歩けるようになった頃、先生が、亡くなった。

 先生が病魔に冒されていたことなんて、私はちっとも知らなかった。窶れた姿を見せないようにと私を避けていたことを後から聞かされ、悲しみの余りに私は一週間ほど高熱に魘され寝込んだ。

 朦朧とした意識の中で先生は、かつての優しい笑顔を浮かべながら、少しずつ遠ざかっていった。淋しくて、悲しくて、引きちぎられてしまいそうな心の内側が、血を流しているように思えた。


 一匹の山羊の夢を見た。孤独に打ちひしがれたりせず、立派な角は空へ向かい、柔らかくも素晴らしい髭は風にそよぎながら、切り立った崖の天辺に君臨している彼の姿は、しっかりと私の瞼の裏に焼き付けられた。


 目が覚めると、あれほどの高熱が嘘のように引き、私の体はすっかり軽くなっていた。が、何だか無性にざわついていた。体を起こす。ベッドの淵から足を下ろす。床に触れた足がビリリと痺れたように感じ、そしてそれは恐怖として私の体と頭を支配した。

 怖い。怖い怖い怖い……!!

 ベッドと床の段差が、足を下ろすというたったこれだけの動作が、怖くて堪らない。震える指でナースコールを連打した。私はもう何年も病院の外へは出たことがない。


***


「高所病ですね」

「高所病、ですか」


 あっさりとそう告げた医師にオウム返しのように問いかける。


「高い所にいないと不安で堪らないという奇病です。残念ですが、完治したケースは未だありません」


 なんていうことだろう。このままベッドに寝たきりの生活しか私には残されていないのだろうか。


「今はベッドに座れば緩和される程度で済んでいますが、恐らくこれから徐々に高低差を求め始めます。症状の悪化に伴い、病室の移動も必要になるでしょう。そのうちもっと高い所を求めるようになると思いますが」


 先生。私、あなたと一緒にあちらへ逝けた方が良いのではないでしょうか。

 床に触れる恐怖は少しずつ顕著になり、そしてそれは恐ろしいスピードで私を蝕んでいく。

 元の病室は移動のし易さを考慮し一階だったのに、症状が悪化するにつれ、一ヶ月後には二階へ、二ヶ月後には三階へと、一月毎に一階上昇せざるを得なかった。

 少しずつ地上から遠ざかっていくことで、床に触れる恐怖は少しずつ薄れたものの、それでもやはりベッドから降りるのは痛みにも似た恐怖を伴うので、車椅子での生活が始まった。自立し一人でも歩行出来るようになる為に頑張った先生との思い出が、汚されていくように思えた。

 屈辱に染まる日常。遠く小さくなる世界。

 私はより高層を求めていく。発作のように、禁断症状のように、より天に近い場所を求めていく。


 先生は私がこうなることを見越していたのだろうか。高層マンションの上層階を買い占めてくれていた。先生のご厚意に甘えている自分がとても醜くどうしようもない人間のように思えた。今はその最上階で暮らしている。だがきっと来月にはもうここすら怖くて堪らなくなるのだろう。また更に高所を求めてしまうのだろう。

 一ヶ月の間に少しだけ症状が緩和する期間がある。その間ならば自分の足で歩くことも不可能ではなかった。けれど、あんなに特訓したのにそれも無意味になってしまったほど、筋力は衰えてしまった。今は這うように腕の力を使って移動する方が早いほどになってしまった。

 先生。私は今、無様なのではないでしょうか。こんなに惨めったらしく生にしがみついて、先生の財産を食い潰している。何の意味があるでしょう。何の未来も無いくせに。

 ベランダの手摺りに掴まり、どうにかこうにか立ち上がると、厚い雲の間から光が幾筋も差している光景が広がっていた。思い出したのはやはり先生の声。


「ご覧。あれは天使の梯子というんだ」

「天使の梯子?」

「そう。あの下には天上へと昇る美しい純粋な魂が集まって、天使がそれを導くのだと言うよ。天へ召される為の梯子があんなに美しいのなら、死ぬのはきっと悪いことではないのだろうね」


 ああ、先生。そういうことですか。あなたがお迎えに来てくださっているのですね。

 高所を求めていたのはきっとこの為。より近い場所であなたのお迎えを待っていたのでしょう。確実にあなたの元へいけるように。


「待っていてください、先生」


 私は山羊が力強いその脚で、跳ぶように崖を駆け下りるように、翔ぶように、空を墜ちていく。


***


『高所病』という深刻な病にかかっています。常に高いところにいないと不安になる病です。この症状は毎月発症します。悪化すると徐々に歩けなくなります。

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