第3症例 水中病

 沈む。沈む。深く。揺れる。

 歪んだ視界の中で涙を浮かべても誰にも気付かれることはなく、泡となり水面へと昇っていく。美しい水が私の檻であり、同時に唯一安らげる場所だった。

 揺蕩う髪が視界いっぱいに広がる。艶めいていたはずのそれは、いつの間にか見る影もないくらいに痩せ細っていたはずだが、水の中ではとても美しく思えた。

 掌を眺める。皮が水を吸って、皮が醜くふやけて膨らんでいる。それもそうだ。もうかれこれ二ヶ月、この水槽に沈んでいるのだから。


***


 それは突然のことだった。ある朝、息苦しさで目が覚めた。首を絞められているかのように上手く酸素が取り込めない。まだ辛うじて息は吸えていたが、それも時間の問題のように思えた。思わず首に両手を添える。ぎゅ、と自らの首を絞めると少し楽になったように思えた。

 どうしたのだろう。ひゅー、ひゅー、と喉が鳴る。急激な吐き気に襲われ、嘔吐する。胃の中には何もなかったようで酸っぱいものが口の中を占め、肺の方がごぼごぼと痛んだ。なに、これは。パニックの頭の中、私は医者へかかろうと思い立ち、シャワーを浴びることにした。衣服を脱いでいる間も、手足が震えた。蛇口を捻る。溢れ出た優しい雨に似た水の集団が体を濡らしていく。頭の天辺から浴びると少し呼吸が楽になった気がする。顔面で受ける。息が、出来る。目蓋を開ける。刺激的なだけで痛みはない。まさか。思い付きを確信へ変える為に、私は浴槽に湯を張ることにした。

 溜まっていく湯水に足を浸す。足湯では息苦しさに変化はない。腰くらいまで浸かってみる。少しだけだが和らいだ。肩まで浸かると随分楽になり、頭まで浸かってみたら完全に息苦しさは消え、寧ろ呼吸が出来ることに気が付いた。驚く一方で、喜びも感じでいた。私は昔から人魚になりたかったのだ。


***


 それからの三ヶ月はほとんど湯船の中で生活をした。冷水でも息苦しさに変化はなかったので、湯を沸かすことはなくなった。時々息を止めて水の入れ替えをしたが、その間は苦しくて堪らなかった。

 食欲はほとんど消え失せ、時々キッチンへ走ってビスケットやクッキーを取ってきては、湯船の中でふやかしながら食べた。もさもさして味は感じなかった。排泄はついでなので、風呂場の排水口で処理をした。水の中で暮らしているからか、喉の渇きは感じなかった。

 大した問題は感じられなかったが、それは自分だけだったようで、連絡の取れなさを心配した彼が様子を見に来て、腰を抜かしていた。水の中以外で息の出来ない私は、まるで人魚姫のように口をぱくぱくと動かすだけで、そんな私を見て彼は逃げ出してしまった。

 幸いだったのは、私の様子を近所に言い触らしたことだ。噂の種になるのは勘弁して欲しかったが、それが町医者の耳に入り、診察を受けることになったのだ。そこで病名を知り、特性を知り、改めて事の重大さを知ったのだ。


***


「おはよう、私の人魚」


 何処かのお金持ちの道楽に私は買われた。浴槽みたいな狭い場所に身を沈めなくていい代わりに、檻と呼んで過言ではない水槽で飼い殺されている。鑑賞され、干渉される。自由もプライバシーも奪われた。

 三ヶ月毎に私は陸へ戻る。その時はこの金持ちから解放されるが、途端に自分の価値が喪われたように心細くなってしまう。永遠に水の中にいられたらいいのに、と願い始めた自分を、重症だと客観的な自分が罵っている。


「おはようございます、旦那様」


 心にもない呼び方でもご満悦らしい。嫌味なほど煌びやかで太ったその男には最早何の憎しみも抱いてはいない。ただ解放されたくて堪らなかった。

 水から上がれば貧相でみすぼらしい自分なんか、切り捨ててしまいたかった。


「おや、もう三ヶ月経ったかね。では一旦休暇にするとしよう。また症状が出たら帰って来なさい」

「はい、旦那様」


 お暇を貰った私は、その足で海へと向かう。前回の発症から三ヶ月が経った今、水は安らぎの場所ではなくなっている。が、拠り所は水の中にしか残っていないのだ。

 一歩一歩、前へと進む。水中症の患者が入水自殺だなんて、笑えるわね。息苦しさが戻ってくる。陸にいたら良かったのに。煩い、黙れ。これでいい。これが正しいのよ。



『水中病』という深刻な病にかかっています。水中以外では呼吸ができなくなる病です。この症状は3ヵ月周期できます。悪化すると徐々に嘔吐することが多くなります。

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