あの人が好き。ずっと前から。

 お姉ちゃんが生きていたときから、ずっと。

 帰り道、時本美穂は自分につぶやく。

 一目ぼれだった。お姉ちゃんがいきなり彼氏を家に連れてきてうちの親に紹介したとき、わたしもその席にいた。そのときにはじめて会った。背が高くて、顔が爽やかだった。言葉遣いもやわらかで、品があった。

 あの人の笑い声が好きだ。笑ったときの顔が好きだ。狂おしいくらい好き。

 お姉ちゃんが死んだあと、わたしに笑いかけてくれることもないなあ。

 プラットホームで列車を待つ間、彼女はそんなことを考えている。

 まだまだ傷は癒えない。あの人も、わたしも。

 いつしか彼女はそうした悲しみの中に溶け込むことに心地よさを覚えていた。悲しみには昔から馴染んでいたが、彼女の姉が死んでからいっそう親しみ深くなっていた。自分にとって大切な人がいなくなる。その重みに今にもつぶされそうだ。

 あの人は、この重みに耐えられるのだろうか。いつか自殺してしまうのではないか。

 お姉ちゃんの葬式であの人に会ったとき、はじめてこの恐ろしい予感がした。わたしも、わたしの家族もおいおい泣いている中、彼だけは泣いていなかった。じっと、まっすぐ、なにもない空間を見つめていた。そこには表情がなかった。お姉ちゃん以上に、彼のほうが死んでしまったように思えた。家族に向ける一言一言もまるで機械が話してでもいるかのように、棒読みだった。

 なぜ彼は本当の言葉で話してくれないのだろう。怖さを感じた。無表情な顔の裏に隠されている混沌とした感情。彼自身も内に秘める心の波をどのように表していいのかわからないのではないか。感情を吐き出す前に、彼が破滅してしまうのではないか。

 彼の悩み、失望、運命に対する恨み。すべてを彼女は受け止めたかった。救えるのは自分しかいない。彼女はたった一人の彼と同じ境遇の人間なのだ。彼を救うことで、自分も救われたかった。

 彼女は彼の姿を借りて自分を愛していた。悲しみに暮れる彼の姿を見て、そこから自分を感じていた。

 わたしには、あの人を幸せにする責任がある。あの人とともに生きていく使命がある。あの人の中に自分を見出し、あの人と同じになりたい。

 彼女はあの日のことを思い出す。この気持ちは姉の気持ちそのものだ。すべてが順風満帆に進んでいた結婚当初の願望だ。そして彼女は姉の意思を継ぐ存在だった。姉が果たせなかったあらゆる幸福への道を、姉が亡くなったことで途切れたその道の延長線上を、時本美穂は歩みたかった。

 わたしは姉なのだ。姉という存在そのものなのだ。彼女は姉を愛していた。その母のように自分を包みこむ大らかさを愛していた。だからうれしかった。彼女にはじめて頼みごとをされたとき。姉のために生きると決心したあの瞬間。


「美穂。ここに座って。」

病床で横たわる時本夏帆が彼女を呼んでいる。その顔は晴れやかだった。しかしその明るい声はどこか諦めの感情を含んでいた。

「はい。」

彼女が夏帆のそばまで来て座ると夏帆は微笑んでいた。

「美穂。わたしね、フラれちゃったんだ。あの人に。わたしの大好きなあの人に。」

夏帆は彼女の方をみた。その顔は依然として静かで穏やかな明るさに満ちていた。

「あの人に、わたしの夫に、一緒に死んでくれないかって言ったの。そんなこと言ってもわたしもあの人も辛いぐらいわかってはいたのよ。でもわたしは馬鹿だから。自分の感情ばかり優先してしまうのよ。わたし、そういう性格だから。思ったことをつい口に出してしまうから。」

彼女はただ聞くことしかできなかった。

「でもあの人、そんなこと言うもんじゃないって励ますだけだったの。たぶん怖かったんだと思う。わたしと一緒に死ぬにしても、自分がこの世から消えるというのが。彼は永遠にわたしと一緒にいることよりも、わたしと別れて生きることを選んだ。別にそのことを裏切りだとは思っていないわ。わたしは死んだとしてもあの人の中にはずっといると思うから。

 わたしは彼を信頼している。彼なら、わたしがいなくても生きていけると思うし、また新たに出会った人と家庭を築いていけると思うの。でももし彼が不安な毎日に生きがいを求めず、わたしの影ばかり追って死ぬように生きているのだったら。どこかで自分の選択に後悔をしているのだったら。」

そのとき時本夏帆は小さく深呼吸をして、まっすぐに自分の妹を見つめていた。その表情には確かな決断の色彩があった。

「あなたがそばにいてほしいの。わたしは彼をあなたに任せる。彼のこと好きでしょ?」

「はい。」

美穂は気がつかないうちに赤面していた。それは姉が自分の心の内を知っていたことに対する恥の気持ちではなく、尊敬する姉から大切な頼みごとをされたことに対する興奮した気持ちからであった。

 

 あの言葉が、彼女を勇気づける。わたしが彼を守らなくてはいけない。かつてわたしが姉に守られていたように。

 小学生のとき、いじめからわたしをかばってくれた姉。男友達と一緒にスポーツをして、活発でいつも元気だった姉。病弱だったわたしの看病をしてくれた姉。強くて、勝ち気で、やさしい姉。その姉がわたしの中にいまも息づいている。

 列車が到着する。車内に乗りこむ彼女の表情は険しかった。自分が生きていく目的を悟った彼女は、できるだけ早くあの人と仲良くならなくてはいけなかった。あの人の支えにならなくてはいけなかった。

 列車の窓から見渡せる夜のビル街は目まぐるしい速さで彼女の目の前を通り過ぎていく。列車の走る音。隣にいる大声で話す女子高生。向かいで本を読む中年男性。なぜだか見るもの、聞こえるものすべてが新鮮だった。

 生きる意味なんてなにもなかった。ただただ、弱いながらもひっそりと生きてきた自分。でもいまは、はっきりとした存在の価値がある。生きていく理由がある。そのことにひたすら彼女は感動していた。生きる希望で、彼女の目に世界は見たこともないほど新しく、変化に富んだ不思議な空間に映った。

 また近いうちに、会いたいな。また一緒にカレーライスを食べたい。

 次第に彼女は静かで穏やかな明るさを持ち始めていた。

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化身 ましろ @bokutokimi

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