影
一年経って、彼女がいなくても世界は少しも変わらないことがわかった。
彼は平穏な時間の中に生きていた。なにも感情を表すこともなく、なにも答えを見つけるわけでもなく。世界はあきれるほど平和だった。まるで彼女がいなくなったことなんか忘れるくらいに。
単調な日常の繰り返しが、彼がもつ心の痛みを奪い去る。どうしようもないほど愚かな発想が頭に浮かぶ。しかしそれはなぜか確信のようなものに変わってしまうのだ。
彼女は、どこかに生きているのではないか。
彼女はいる。この世界に生きている。そうじゃなくてはおかしいではないか。なにも変わらない世界に彼女だけが消える理由などないではないか。
街行く人々の中に彼女の姿が混じっている気がする。自分の姿を見てかけてきそうな予感がする。肩まである黒くて長い髪がゆれる。額にたくさん汗をかいて。
「ごめん、ごめん、待った?」
「待ったもなにも、待ちくたびれたよ。」
「怒らないで。大事な用事があったの。それで今まで会えなかったの。許して。」
顔の前で両手を合わせ、いかにもすまなそうにしている彼女を見ると、なんだか意地悪でもしたくなってくる。
「許さない。ずっと一人ぼっちで、寂しかったんだよ。僕の気持ちも知らないで。」
そして言葉とは裏腹に、彼女の手に自分の手を重ね合わせるのだ。彼女がうれしさ半分に恥ずかしがるのを確認しながら。
たとえ姿が見えなくても、声が聞こえなくても、キスができなくても、彼女のにおいを感じなくても、柔らかな体に触れなくても、彼女はここにいる。いつまでも僕と一緒に。
街角の菓子店で大好きだったシュークリームを買う。きっと喜ぶだろうな。少し笑顔を浮かべて家に着く。
帰宅すると暗闇の中で沈黙を守る家具たちがひしめきあって生息している。電気をつけて、彼は仏壇にシュークリームをお供えした。
そのとき、玄関からチャイムの音がする。
「大丈夫。僕が出るから。」
写真に閉じ込められた彼女の笑顔にほほえみかえすと、彼は玄関のドアを開けた。
「あの。夜分遅くすみません。」
見ると、少女のような顔立ちの女性が伏し目がちに立っている。どこか考え事をしているような表情で遠慮がちに彼を見ている。肩まである黒い髪が揺れている。
「いえいえ。どうぞ入って。」
つとめて明るい声色でそう言うと、彼女は小さくうなずいた。音もなく靴を脱ぎ、廊下を歩き、気がついたころには仏壇の前で手を合わせている。
静かなときが流れる。すべてが動きを止める。二人は世界から遠くかけ離れ、時本夏帆の中に浸っている。
「もう一年、なんですね。」
だいぶ時間がたってから、彼女がぽつりと言う。彼は黙っている。
「あ、シュークリーム。」
仏壇に置かれたシュークリームを彼女はじっと見つめる。
「お姉ちゃん、好きだったなあ。」
会社から帰ってくるたびに夏帆はシュークリームを買ってきていた。彼女はお酒が嫌いだったが、甘いものは大好物だった。
目の前でビールを飲む彼をいぶかしげに見ながら、彼女はよく信じられないとでもいうように、こういったものだった。
「よくそんな苦いもの飲めるね。」
彼は缶ビールを一飲みしてから言い返す。
「お前こそ、よくそんな甘いものばかり食べられるものだ。」
何かにつけ、彼女は子供だった。すべての言動が、幼さに包まれていた。そうすることによって、自らの内に秘める葛藤の数々を自然に浄化しているのではないかと思われた。
「最近、会社の方は大丈夫なんですか。」
思い出の中で我を忘れていると、いつのまにか黒髪の女性が話しかけていた。
「ああ、まあ順調ってとこかな。」
突然の質問に困惑して、つい生返事のような形になってしまう。
「あの。椅子に座ってもよろしいですか。」
か細いが透き通る声で彼女は彼に言う。二人はテーブルの上で向かい合った。まるで初対面のように押し黙ったままじっとしている。
「以前会ったのは、三月くらいだっけ?」
「はい。あのときは、いきなりですみませんでした。」
いきなりだ。彼女はいつも突然だった。彼は心の中でつぶやいた。
あの…、ご飯食べに行きませんか。
三月の中頃であろうか、そんな内容のメールが加藤のもとに届いた。
どういうつもりだろうか。
彼は困惑した。
時本美穂。
宛先欄にその名前が見える。彼の妻の妹だった。
彼は彼女が嫌いだった。別に何かされたわけではなかったが、なんとなく好きにはなれなかった。
おそらく、自分の中で夏帆の存在と重ねてみてしまうからかもしれない。この世界で見えなくなってしまったものと似たものが、いまここにいることがどうしても受け入れられなかったからかもしれない。
重ねてみてしまう理由も思いつかなかった。
夏帆と美穂はちがう。二人は顔立ちも似ていない。性格も全然似ていなかった。夏帆は活発で、思ったことをずけずけと言うタイプだったが、美穂は寡黙で何を考えているのかわからない不気味な雰囲気があった。
できるなら断りたかったが、これといって断る理由も思いつかなかった。それと、幼いころからずっと夏帆の近くにいた美穂の話を聞いてみたい気もした。
しかしいざ一緒に食べに行くと、どことなく憂鬱になった。美穂は何も言わず、黙々と箸を進めていた。彼は時折話題を切り出すのだが、彼女がそれに対してさして興味を示す様子もなかった。結局、話は夏帆に落ち着くのだ。その話題もまた、彼を暗く陰鬱に変えていくだけだった。
彼女はなぜ僕を食事に誘ったのだろう。
今にしてみても全然彼女の考えがわからない。仏壇の前で夏帆に会いたいとメールで知らせてきた彼女の今回の訪問も、筋が通っているとはいえなぜ一人で来たのか、わけがわからなかった。
「カレーライス。」
「うん?」
声が小さくて聞こえなかった。
「カレーライス作りましょう。」
彼女は少しだけ声を大きくしてそういった。これもまた唐突だ。しかしあえて断る理由も思いつかない。
「いいですね。食材、買いに行きましょう。」
できるだけ笑顔でそう答えると、彼女も幾分うれしそうにうなずいた。
スーパーマーケットでありきたりの食材を買う。家に戻って二人で野菜を切ったり、鍋に火を通してぐつぐつ煮込んだり。いつも通りの手順で、いつも通りのカレーができる。
ふと得体のしれない感情が押し寄せてくる。
誰かとこうして同じ作業をするのは久しぶりだった。
「おいしいですね。」
彼女はスプーンを口に運びながら彼に言う。
「そうだね。」
彼はただそう言うだけだった。
しかしなんだか、幸せな気がした。美穂の何気ない一つ一つの言葉が、自分に対する気遣いを感じさせた。
彼女は僕を心配しているのだ。
彼には彼女の気持ちがわかるような気がした。確かに、彼女と同じ境遇の人間は彼をおいてほかにありえなかった。妙な親近感を覚えるのも無理はない。
彼女を見てイライラする理由もはっきりした。
時本美穂と加藤文男は似ている。
無口で繊細なところ。その癖に、心の内ではものすごい戦いが繰り広げられている。言いたくても言えない。
一つ一つのできごとに、妙に意味を持たせようとするところ。そしてそれらの意味は、たいていの場合感傷的な色合いを含んでいる。
発言が突飛で、行動も唐突。自分の中では考えに考え抜いた上での答えなのに、他人の目にはその過程が見えないから、必然的にそう思われてしまう。
まるで自分自身を見ているようだ。
彼は心の中でそうつぶやいた。なんだか、微笑ましい。
時本美穂は、僕に施しを与えることで彼女自身を確認している。
夏帆がこの世界から見えなくなったいま、彼女には自分自身を確かめる手段が、僕しかありえない。その源が憐れみにしろ同情にしろ、そうして僕と関わっていくことでしか、安心できないのだ。
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