時本夏帆、彼の妻が死んでから、ちょうど一年になる。

 今日は彼女の誕生日だった。

 なにか仏壇に持って行ってやろう。

 そう思い立ったのは、雨が小降りになってしばらくしてからだった。ようやく建物から出て、彼は夜の街を重い足取りで歩きはじめた。

 最初の三か月は、何も考えられなかった。葬式の準備や親戚との打ち合わせでずいぶん忙しかったからだ。自分の愛する妻がこの世界からいなくなったことを認めようとしたくなかったからかもしれない。

 半年ほど経ってから、なんとなく実感として人を亡くしたということを知りはじめた。自分のそばに妻がいないということがわかりはじめてきた。家事全般は、一人暮らしのときのように自分ですべてやった。洗濯も、皿洗いも、料理も。妻のように三角巾とエプロンをして。

「なんか小学校のころの給食当番みたい。」

彼がそう言って茶化すのを妻は手元の包丁に目を落としながら笑って言った。

「ばかね。髪の毛が落ちないからこれが一番いいのよ。」

一人暮らしの生活にも慣れてきて、最初はまずかった弁当もずいぶんおいしくなったある日、ふとある言葉が口をついて出てきた。

 自分の中から、あの人の姿が消えてなくなる。

 半年の間は、楽しかったのだ。不器用な自分の姿を見ているのが。自分が妻を必要としていることがうれしかった。日常の失敗のひとつひとつが、妻の存在を思い起こさせてくれた。

 でも。いつしかなにもかもが順調に進んでいることに気づいていた。何食わぬ顔で、職場に復帰してバリバリ働いていた。明るくふるまわないと周りに気を使わせてしまうと思って、毎日のように職場の連中と酒を飲んでいた。

 だれかが、うしろから彼の肩をたたく。

 振り向くと、もう一人の彼が立っている。意地悪い笑みを浮かべて。

「どうだい、最近は。いやに元気そうじゃないか。」

「おかげさまでうまくやっているよ。天国の妻に悲しんでほしくないから、できるだけ快活に生きているつもりだよ。」

「へえ、、、。」

にたりと笑う自分。見ているだけで気分が悪くなってくる。

「なにか言いたげだな?」

「いや、君にとって時本夏帆という存在は、その程度だったんだなと思って。彼女が死んでから、君は一度も泣いていないじゃないか。いつもいつもヘラヘラ笑ってばかりいて、なかなか幸せそうじゃないか。まるで彼女なんてはじめからいなかったみたいに日々を過ごしている。」

「………。」

もう一人の自分が、胸倉をつかんで耳元で小さく、しかしはっきりとした言葉でささやく。

「なにもかもなかったことにしようとするなんて俺が許さねえぞ。お前が犯した罪は、お前が、ほかでもないお前が、一生をもって償わなければならない。お前の臆病さが、お前の傲慢さが、お前を生かしている。俺が、お前の中の醜く意地汚い部分を根こそぎ奪い取ってやる。そして必ず、死に追いやってやるからな。」

「僕の、僕の何が悪かったというんだ。僕は彼女に、すべてをささげたというのに。僕の持ちうるありったけの愛情を彼女に与えたというのに。き、君は、なんでもかんでも僕が悪いというのか?彼女の心も、体も僕のせいでなくなったとでもいうのか。」

「なぜあのとき、死ななかったんだ!一緒に死んであげなかった?加藤文男は、なぜあの瞬間、時本夏帆と心中しなかったんだ?」

怒りをこめて、もう一人の自分は叫んでいた。

「どうして、どうして死ねなかった?すべてが、彼女だったんじゃないのか。彼女になにもかもをささげるんじゃなかったのか?なら、どうして……」

 真っ暗な病室の隅のベッドに小さな明かりが灯っている。彼が病室に入ると、透き通った声が呼んでいる。見ると、彼女はベッドから体を起こして彼の名前をうれしそうにつぶやいている。

「フミちゃん…。」

「ごめん、仕事で遅くなってしまって…。具合は大丈夫?体起こしちゃだめだよ、安静にしていないと。」

「うん。」

弱弱しく笑う彼女が、どことなく美しくなった。病気が進行してから、彼女は前にもましてきれいになっていた。そのことが、彼にはたまらなくつらかった。

 顔は明かりに照らされて白く光っている。やせこけた体。ほっそりとした腕。

「本、読んだの。昼来たお母さんが小説の新刊買ってきてくれたの。」

「そうか。面白かった?」

「正直、あまり面白くない…。」

「そっか。」

にやりと笑った彼の表情につられて、彼女の顔もほころぶ。

 雨のにおいがしみこんだ風が、すぐそばの窓から流れてくる。窓の方に目を転じると、昼間は直線状の並木道が見える風景が、黒い闇に塗りつぶされている。

「もう、梅雨なんだね……。」

「そう、みたいだね。」

二人は言葉少なだった。いろいろな感情がごちゃまぜになった思いが今にもあふれそうなのに、何も言うことはできなかった。

 ずいぶん長い沈黙があった。ふと彼女が真剣な面持ちで彼を見つめていた。

「わたし、わかるの。もう長いこと生きられないだろうって。でも、幸せだったの。病気になっても、毎日が楽しくてしようがなかった。あなたのことを思うだけで、自分が死ぬことなんてどうでもよかったの。

 でも。人間なんてどうしようもない生き物ね。こんなに幸せなのに、あなたがわたしを裏切るんじゃないかって。そんなことばかり考えてしまうわ。本当は、わたしなんて早く死んでほしいんじゃないかって思ってしまうのよ。あなたにとってわたしは邪魔ものなんじゃないかって。自分のことばかり考えていやになりそうだけど、わたしが死んだ後にあなたがだれかと結ばれることを思うと、悲しくて仕方ないの。」

「何を言ってるんだい?そんなバカなことを言ってないで、病気が少しでも快方に向かうように安静にしないと。興奮したら、体に良くないよ。大丈夫、ずっとそばにいるから。今は体を休めるんだ。」

彼は彼女を安心させようと、そのしなやかな手のひらを取ろうとした。しかし次の瞬間、彼女は差し出した彼の手のひらを強くひっぱたいていた。

「気休めはいいの!全部わかっているんだから!もう時間がないの。お願い、わたしの思いを一つだけ聞いてほしいの。わがままなのはわかっている。でも、言ってしまわないと後悔すると思うから。」

彼女は口をつぐんだ。恐怖と緊張から、顔は奇妙なほど青白かった。

「わたしと、死んでほしいの。」

息をのんだ。彼女の真剣な表情が彼の視界を埋めつくす。すべてを知り尽くし、その上で時を超えて彼と一緒にいることを望む彼女。ああ、生と、そして死さえも乗り越えていこうとする彼女の決意。そのときの顔はいまでも彼の脳裏にこびりついて離れない。おそらく一生、彼はあのときと向き合っていかなければならないのだ。あのときの答えを探して、生きていかなければならないのだ。

 なにも言えなかった。手のひらからこぼれ落ちていく砂のように、言葉が指先をすり抜けて下に落ちていく。手のひらには、なにもなかった。

 どんなに夢に見ていたことだろう。自分自身が彼女になることを。彼女のように病気になり、彼女と同じ苦しみを共にし、そして二人で破滅していくことをどんなに願っていたことだろう。しかし結局、自分にはそんな度胸がなかったのだ。自分は自分にしかなれない。死ぬのが怖かった。生きていたかった。同情と、哀れと、偽善で覆いつくされた嘘だらけの汚い心。

 逃げた。考えたくなくて、彼は感覚で確かめるように彼女のいまにも壊れそうな体を抱きしめてキスをした。イエスも、ノーも言えなかった。なんの解決にもならないのに、彼は今だけを満足したかったのだ。

 彼女は彼の肩に顔を押し付けて音もなく泣いていた。彼は、泣けもしなかった。ただただ、彼女の背中をさすっているだけだった。

「幸せになってね。」

彼女が小声で言うのを、彼は黙って聞くことしかできなかった。

 それから一か月後、彼女は息を引き取った。

 

 



 

 

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