化身
ましろ
雨
空一面を覆う雲から、幾粒もの水滴がこぼれ落ちていた。はるか山の向こうの方から、地響きのような雷の音が聞こえてくる。加藤文男は屋根がついた屋外スペースに一人、たたずんでいた。多くの人々が、彼の後方から前方へと通り過ぎて行く。みな疲れた体を無理やりにでも前に進ませながら家路をたどっていた。しかし彼だけはその場所から離れることができなかった。
辺りは、すっかり暗くなっていた。昨日のこの時間帯、彼は建物の間を縫って落ちていく美しい夕日の姿を見ていた。しかし今日は幾層にも重なった厚い雲が、すっかり太陽の存在を隠していた。街は暗闇に包まれ、ところどころに点々と灯る明かりがかえってもの悲しさを際立たせているように思えた。
彼は建物の前に立っていた。その中で朝から晩までデスクワークをして、仕事を終えて今から家に帰ろうとしているところだった。しかし彼の場合、体というより心が、帰ろうとするのを必死になって妨げていた。
帰ろうと思えば帰れるのだ。
彼は自分自身にゆっくり言い聞かせるように心の中でつぶやいた。実際、雨が止むのを待ってここに立ちすくんでいるわけではなかった。今日の朝天気予報を確認して、傘はきちんと持ってきていた。そういうところは、以前のふ抜けた自分と比べてずいぶんしっかりしてきたように思える。家に帰ろうと思えばいつでも帰れた。前に進もうと思えばいつでも前に進めた。
しかし帰ったところで何になるというのだろう。
ふと彼は一人、小さくつぶやいていた。心の奥にひた隠しにしてきた思いが、すきを見て唇からこぼれ落ちる。どうしようもなさ、得体のしれない悔恨だけが、次第次第に自分の心をむしばんでいく。自分が壊れ、ばらばらになっていくような感覚だけが、心の中に広がっていく。
彼はじっと三角屋根の端から滴り落ちる雨を見ていた。その屋根は透明なガラスでできていたから、屋根の表面を上から下へ落ちていく雨の流れをはっきりと見て取ることができた。おびただしく並ぶ何本もの雨の通った跡は下に進むにしたがって、そのうちのいくつかが合流し、それらの合流した雨の足跡たちがさらにまた合流し…。幅を大きくした足跡の列は屋根の下端で一つにつながる。そこからきれいに風景を映す球形の水の塊が現れる。それは徐々に大きくなり、やがて自らの重力に身をまかせて落下する。
以前はくだらないと思っていた、何ということもないそうしたできごとの連続が、最近は妙に気になって仕方なかった。生きる喜びのなにもかもを失いそうな気がしたから、心が無意識に目に見える確かなものを少しでも愛そうとしているのかもしれなかった。
「やあ、お帰りですか。」
後ろから声をかけられて振り向くと、上司が目の前で手を振っていた。仕事を務めてかれこれ三十年にもなる、大ベテランが笑顔でそこに立っていた。
「ええ。帰りたいんですけれど、なんだか自分の中で納得がついていないんです。」
彼の正直な言葉を、上司は一音一音かみしめるようにして聞いていた。他人の話を聞くとき、この男は温和な顔で微笑をしながら、小さくうなずく癖があった。
「わかります。わたしにも少し足を止めて周りを見渡したくなるときが、あるものです。」
上司の言葉が、彼の心をとらえて離さなかった。その言葉は、最近になって幾度も幾度も浴びせられてきた薄っぺらい同情の言葉でもなければ、憐みと憂いを浮かべているように見えてその実自分の幸せを確認するためだけに発せられたような独りよがりの言葉ではありえなかった。純粋に相手のことを理解しようとするまっすぐな思いがそこにはあった。
「平塚部長も、そのように思われることがあるのですか。」
「ありますとも。理由がわかっている落胆は、いいんですよ。頭の中で整理して修正していけばよい。でも。」
上司は言葉を切って、じっと彼の眼を見すえた。それは、親が子供に大事なことを教えようとするかのような、慈愛の視線だった。実際、二人には親子ほどの年の差がある。
「人の心なんて、よくわからないものですよ。情けない話ですが、この年になってもわかることなんて少しもない。自分の感情さえ、ほとんど理解できないことのほうが多い。
そういうときは、気晴らしに雲のしわでも数えています。そしたら、ごくたまにですが、心のうちに渦巻いているわだかまりが解けて、しっかりとした形になることがあるんですよ。」
「雲のしわ、ですか?」
上司は微笑みながらゆっくりとうなずいた。
「雲にも、顔があるんですよ。だからしわもある。本当はそう見えるだけなんですけどね。上を向いてみてください。ほら、雲の色もすべて一緒ではないでしょう。濃い灰色の部分もあれば、薄い部分もある。そうかと思えば、真っ黒なところもあったりする。表面も、どうやら平らではないようです。でこぼこしている。よく見ると、はっきりと雲の層が分かれている場所があったり、反対に曖昧になっている場所もある。
そういった雲の表情をまっさらな気持ちで見つめていると、今まで自分を満たしていた感情の荒波が静まっていくように思えるのです。まるでわたしの中のすべてが『景色』になったような心地がします。そのとき、状況を打開する新しいアイディアがふっと浮かんでくることがあります。」
上司が誇らしげに話す言葉を、彼は静かに聞いていた。
この人は、とても強い人だ。
彼は上司の顔を注視した。はげた頭や、使い古されて傷だらけの眼鏡や、表面に刻まれている多くのしわをじっと見つめていた。人によっては、醜いとしか思えないありとあらゆる特徴が、彼の目には美しく映った。言い表せない感動が心の奥から押し寄せていくのを感じた。上司に感謝を伝えたかったが、なんといっていいかわからなかった。
彼は知っていた。上司の温厚でめったに怒らない性格が、心ない人々からは弱々しく臆病に見られ、部下にも頼りなく見られていること。こうした先入観が、上司に対する不信感となって職場に蔓延していること。
しかし、上司はそんな男ではありえなかった。長年の苦悩や葛藤が、やさしくあたたかな外見からは想像もつかないような、どっしりとした芯のある人間性を心の奥深くに生み出していた。彼は上司の何気ない言葉の中から、そうした揺るがない信念を感じていた。
今の自分は、とてもこうはなれない。
人間は、この世に生まれてから死ぬまでどれほどの不幸と苦痛と、災難に見舞われるのだろうか。一体、それらに何の意味があるというのだろう。自分は人よりも多くの不幸を背負っているのではないのか。なぜこんな苦痛を受けねばならないのか。光もない、音もない洞窟のような暗闇の中を彼女の名前を叫びながら今日もさまよっている。
運命よ、できるなら自分の不幸だけは見逃して欲しかった。
誰も悪くはなかった。誰のせいでもありえなかった。でも、ときどき思う。自分がいけなかったのではないかと。自分がここにいるのが悪いのではないかと。自分じゃなくて彼女が、ここにいればよかったのではないかと。
わけのわからない感情であるのは分かっていた。しかし、やりきれなさだけが残る。自分にはなにか他に選択肢があったように思える。いや、ちがう。そう思わないと生きていけないのだ。
「では、わたしはこれで。」
上司は少し上に手を上げてにこりと微笑した後、雨の降る街へ消えていった。彼は傘の下でかすかに揺れる上司の背中が雨の中に溶け込むのを見送っていた。
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