遺跡の町マーガナ2

フレゼ山脈の中腹に流れる小川のそばを一人の少女が歩いていた。小川には新鮮な雪解け水が流れ、少女が息を吸うたびに清涼な空気が肺に満ちた。

 フレゼ山脈の頂上は一年中永久凍土に覆われている。そこから溶け出した水は地上へと流れて多くの人々の喉を潤していた。

 少女が現在歩いている道はもう少し暖かい季節になれば水かさが増して、川の一部になってしまう場所だ。急激な水量の変化があれば危険な場所だが、道には背の低い草がちらほら見えるだけで、入り組んだ森の中を歩くより疲れずに済んだ。


(この辺のはずなんだけど)


 少女はときおり立ち止まって、木に付けられた目印を確認している。木の表面をナイフで削った傷は目的地までの目印であり、その種類から目的地までのおおまかな距離と方角を知ることができるのだ。少女は背負っている大きめのナップザックを再び担ぎなおし、歩みを進めていった。

 少女は体に密着するように作られたインナーに、獣の皮を重ねて圧縮して作られたレザーアーマーを体の要所に身に付けている。レザーアーマーは一人で山に入るようになってから父に贈ってもらった自慢の一品だ。腰から下は足首まで伸びるインナーにショートパンツを重ね着している。女性の冒険者らしく実用性とオシャレを両立した服装だった。髪は肩口まで伸ばされ、後方でポニーテールに纏められている。腰に巻いたベルトには腰袋と数種類のナイフ、そして剣を差してあった。


(あと少し、もう少し頑張るのよタリー)


 ポニーテールを揺らしながら早歩きで進んでいく。自分のことを名前で呼んでしまう癖は子供っぽいと思いつつもなかなか止められない。ただ最近では注意して心の中だけで留めるようにはしている。

 ここまで気持が焦っていたために、ろくに休憩も取らずに歩いていた。荷物が重いこともあって体には確実に疲労が溜まっている。しかし心だけは軽く弾んでいた。それは先週、偶然見つけた洞窟に金脈を発見したからだ。

 それは氷の中にあったために、これまで一週間の準備が必要だった。準備のために泣く泣く貯金を切り崩して、何度も道具屋に足を運んでやっと用意することができた。他の誰かに先を越されるかもという不安が常に付きまとい、少女タリーを焦らせていた。

 タリーがその洞窟を発見したのはまさに神の恩恵といっても過言ではない。今年の積雪は例年に比べて格段に少なかった。町で治療院を営む中年の女性、ベアトリクスおばさんもここまで雪がない山は初めて見たと言っていた。フレゼ山脈の冬は長いため、雪が残りやすい。例年通りの雪が降れば、この辺りも立ち入ることのできない土地だった。

 一週間前に山の様子を心配した町長からギルドに、様子を見てきてほしいというひどく曖昧な依頼が出され、それをタリーが受領したのだ。洞窟はその過程で発見した。自分は運がいいと、タリーはときおりニヤニヤとした笑みを浮かべながら歩いている。ギルドには洞窟の話はせずに、問題なしと報告している。氷に閉じ込められた彼は害になるようなものではない。それどころかタリーに恩恵を与えてくれる神の使者なのだ。

 タリーの顔は本格的に緩んでいる。頭の中ではすでに儲けたお金を何に使うかを考えているのだ。


 さらに小川の道を登っていくと、また気になる目印を見つけた。しかしそれを近付いて確認してみると、目印は自分の付けたものではなかった。それは昨日今日付けられた傷のようで真新しい。タリーの身長より二回りほど高い場所に、四本の傷が付いている。なによりその傷は表面をナイフで削ったようなものではなく、木の三分の一ほどまで深く切り裂かれているのだ。そして傷跡は黒く焦げていた。


(こっ、これってもしかして)


 タリーの顔は段々と青ざめてくる。タリーにはこの傷に心当たりがあったからだ。それはタリーが昔、父と山の麓を歩いているときだった。タリーは山に入るようになってまだ日が浅く、父と一緒でなければならなかった。父はタリーに薬草や動物の習性を事細かに説明し、タリーもそれを熱心に聴いていた。

 ある日、いつもの同じように山へ入ると父が木に付いている傷跡を見つけた。それは四本の焦げた傷跡で、父の顔は今のタリーと同じくらい青ざめていた。父はすぐさま必要最低限の荷物以外を捨て、タリーを脇に抱えると一目散に下山に向けて走り出した。タリーはそのときの危機迫る父の顔をよく覚えている。

 父はそれを村長に報告すると、山は一切の出入りが禁止された。ギルドを通じて湖畔の高位冒険者パーティーがやってくるまでそれは続いた。父はその間にタリーに何度も何度も繰り返し忠告した。


「いいかタリー。あれを見たら絶対にそれ以上入るな。いいか、絶対だぞ」


 父の顔は恐怖に怯えていて、それは見たタリーをも怯えさせた。


「タリーあれは――」


 ザッ、ザザザと小川の向こう岸から音がした。草むらの中に潜むなにかを想像したタリーの顔はすでに青を通り越して、白っぽくなってしまっている。体は痺れたように動かない。全身の汗腺から汗が滲みだして、体を伝っていく。体は動かないのに、手足は自分のものではないかのように小刻みに震えていた。

 ウサギやシカであればいいのにとタリーは思った。何にせよ確認しなくてはと、ゆっくりと顔を音の鳴った茂みに向ける。

 それを見たタリーはまず大きいと思った。その大きさはタリーの五人分はあるだろうか。洞窟で見た氷の塊と同じくらいの大きさがある。姿は熊そのものだ。しかし口からは真っ黒な煙を吐き、体毛はところどころ赤く染まっている。赤くなっている部分は高温になっているようで、周辺の草木に火が付いていた。


「タリーあれは炎熊の縄張りの印だ」


記憶の彼方から父の声が聞こえた。炎を纏う熊、炎熊。熊が火結晶を取り込んで派生したと言われている。性格は攻撃的で、縄張りに入った者は捕食され骨まで残さずに燃やし尽くす。その性質上フレゼ山脈に生息している数は少ないが、人が登れる標高においては最強の一角を担う魔物だ。

出会ったら普通の人間はまず助からない。父も縄張りを見たら逃げ出せとは教えてくれたが、実際に出会ったときの対処法を教えてはくれなかった。父は知らなかったのか、もしくはそんな術はないのかもしれない。

 雪に閉ざされるフレゼ山脈において、火を扱う魔物は少ない。火の魔素が少ない土地柄なのだ。多くは氷の魔素や石の魔素を体に含むことによって、寒さに影響されずに動けるように進化している。それ故に炎熊の数は少なく、冬には冬眠する必要があるのだ。


(ああ、きっとお腹空いてるんだろうな)


極度の緊張がタリーの生存本能を刺激して、思考は高速で回転する。しかし炎熊の生態についての情報は浮かんでくるものの、解決方法になると全くもって思い浮かばなかった。タリーの頭は考えることがなくなったのか、冬眠明けの熊を想像して馬鹿げたことを思い浮かべた。


(食べられるくらいなら、いっそのこと戦ってみようかしら)


 タリーは開き直って腰の剣の柄を強く握る。残っている意思の力を総動員し、体を動かした。私はあの日の幼い自分ではない。山に入るために厳しい修業をしてきたのだ。そして事実積極的に山へ行き、麓付近の魔物は問題ないくらいに成長している。剣術の腕でいえばすでに父をも超えていることが自信となり、タリーに勇気をもたらした。


「――――――」


 それは音の衝撃だった。タリーの全身を貫き、体を後方まで吹き飛ばす。タリーがそれを炎熊の咆哮だと判断できたとは、直前まで口が開くのを目撃していたからだ。これまで斑点模様に赤くなっていた体毛が、すべて赤くなるのと同時に衝撃が襲ってきた。炎熊の周りは山火事のように全てが燃えている。タリーから川を挟んだ向こう岸は全て真っ赤に染められており、その熱波がタリーを包んだ。

 タリーの意識は朦朧としていた。吹き飛ばされた衝撃で、視線は宙を彷徨っていた。よく見れば離れた場所にいるためか、怪我の程度は軽い。無意識に上半身を起して、炎熊がいる方角に意識を向けていた。気を失わずに済んだのは、タリーが日頃から鍛錬をしていた成果である。しかし精神は根本から恐怖で支配されてしまった。

 怯えるタリーにはすでに考える力はない。本能だけが生き残る術を探していた。本能は幼い頃の少女タリーの記憶を辿るように、背負ったナップザックを捨てさせ、タリーの足を動かした。少しでも距離を取るようにと足に命じる。脳から足の神経に向かって強い信号を出す。タリーは天敵に出会った小動物のように森の中へと走り去って行った。

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