水を弾く人

ある時、水槽の割れ目からピシッと鋭い音がした。あっ、割れる、と思った。

青色や赤色の小さな魚が入った水の塊は、薄い緑色の藻に囲まれ、さらにその周りを薄い、薄いガラス面で覆われていた。その境界線が今、まさに壊れようとしていた。

無意識に手を伸ばし、音の元に近づけ、閉じようとする。

パキッとさらに音がして、ガラス面の一部、壁面の真ん中が崩れようとした時に。

伸ばした手の先、さらにまっすぐに伸びた指先が、崩れる瞬間のガラス面に触れそうになる。

「触れたら切れるかもしれない」というイメージが頭の中に広がる。青色、赤色、さらに赤色。

指先がガラス面に触れる前に止まる。その距離わずかに1cm。透明なガラスの破片がいくつか、剥がれて落ちる。

あぁ、いけない、こぼれてしまう。

そう思った時、不思議なことが起こった。水がこぼれない。

ガラス面は、確かに割れている。縦横数cmの平行四辺形の形をした穴が、白く鋭い切り口の断面に囲まれて開いている。

本来その穴から外に飛び出すはずの水は、断面の内側でぬるりとうねる。

わたしはしばらく、伸ばした腕の先の、手の先の指を動かすことができずにいた。

割れた水槽からこぼれない水を、じっと見つめていた。

呼吸をすることすら忘れていたかもしれない。起きたことを頭の中で再生し、少しずつ追いつこうとする。


土曜の午後の日差しが天窓から差し込み、水槽の中で反射し、その一部は割れた穴からわたしの指先にも届いていた。

水と空気と光が調和し、絶妙のバランスで支え合っている。少しでも動かせば、崩れる。

そう思ってふと息をつくと、ドポンと水が飛び出て小さな滝が生まれ、飛沫を飛ばしながら無垢の床を濡らした。


それから何度か、意識的に実験を行ってみた。

ガラスの水槽を何度も割ることはできないので、プラスチック容器にカッターで穴を開けて、水を入れていく。

そうして、あっ、こぼれる、というタイミングで、手を伸ばす。

はじめは当然のように水がこぼれる。真四角の穴から、ズルリと水がこぼれてプラスチック表面をうねり、落ちる。

当然の結果に、肩の力が抜ける。バカらしい、それはそうだとため息がでる。

それでも、何度か容器をひっくり返して水を捨てては、水道からまっすぐに流れる水を受け止める。

そうして何度目かに手を伸ばした時、真四角の穴からふくれ上がる水が、奇妙に歪む。

本来落ちるべき方向から、何かの力を受けて押し戻されるように。

抜けた肩の力が急に戻ってくる。目が覚め、頭の中であ意識が広がっていく。青いプラスチック容器のふたと、少し赤いわたしの指先の感覚。

ざわざわと全身に鳥肌が立つ。何ということだろう。

この瞬間を覚えてしまえばよいのだ、と確信する。


雨を弾くと、跳ね返りがまた弾ける。

わたしの指先は、水に対して反発する何かの力を出しているようだった。

小学生の時の、磁石の実験を思い出す。

S極とN極の反発する不思議な力が、わたしの指先にも確かにあるのだ。

はじめは偶発的に、徐々に集中することで、その反発力は発揮された。

そうして指先が100発100中、常に水を弾くことができるようになった頃にふと気づく。

きっと指先だけではない、反発力は体から出ている。他の部分でも弾くことができるはずだ、と。

お風呂でシャワーを浴びる前、蛇口から流れる冷水が温水に変わるまでの間。タイルにあたって広がる水に足を近づける。

左足の親指に力を入れながら、そろりと近づけてみる。

スッと不自然に、親指の周りのタイルが水を弾き、島が出来上がる。

そうしてお風呂場は、わたしの実験場になった。


毎日、色々な力の入れ方を試してみる。でも筋力ではなくて、結局は気持ちの持ち方次第。

水槽の割れ目に手を近づけて指先に力を込める、その時の心持ちでシャワーから流れ散る水滴の中に入っていく。

ザザザザ、パチパチ。一瞬、体に当たるはずの水が弾けて気持ちのよい反射音が聞こえる。

次の瞬間には弾けたはずの水がわっと落ちてきて、全身が濡れる。

でもこの調子。この感覚。少しずつわかり始めている。


しばらくすると、シャワーの水は体に当たらず、水の弾ける音だけが聞こえ続けるようになった。

水はわたしを避けて通る。わたしは水の中をくぐる。水が弾ける音だけが届く。

それは起こるべき当然の結果となった。


ある日曜日の朝、鈍い灰色の光が天窓から差し込み、いつの間にか雨が降っていることに気がつく。

そうだ、と思い、窓を少し開けて手を伸ばす。3、2、1で手を伸ばす。

雨は、シャワーの水と同じようにわたしの手に届く前に弾けて落ちる。

こうしてわたしは雨を弾くことにした。

わたしに届かず弾けた雨は、その一部がまた落ちてきて、また弾けてより小さなしぶきを上げる。

小さなしぶきが、手の上で弾け続ける。線香花火みたいだね、と誰に言うでもなくつぶやく。


雨の音で目が覚めると、散歩に出かけることにしている。

雨の朝が、憂鬱ではなくなった。

乾かした髪が雨に濡れることがなくなった。

低血圧を理由にしていた目覚めの悪さがなくなっていた。

雨が地面にぶつかる音で目を覚ますと、さぁ、散歩に出かけようと起き上がる。

遠出をした時のおみやげとして、マグカップの代わりに傘を買い集めるようになって、色とりどりの傘が玄関周りに居座っている。

最近使っていなかった、内側に青空が描かれた折り畳み傘を選んで、サンダルに足をつっこみ、その勢いでドアを開ける。

細かい湿気が押し寄せてくるが、気にしない。

傘を広げず、くるくる回しながら雨の中へ飛び込んでいく。パチパチと、雨粒が弾ける音は拍手に聞こえる。

鳴り止まない控えめな拍手の中を、堤防沿いに歩いていく。

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屋根裏のホームシック・エイリアン 中野中々 @nakano_in

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