悲恋建築服飾店

@Motoki_Sho

短編

「今度こそ、背広を着れるようになるからな」

男はそう、服飾店の若い娘に告げると、作業着のまま店を後にした。

男は、父と生き別れ、母も高校時に病死。天涯孤独の彼だが、へこたれるほどヤワでなかった。

土方のみんなは、粗削りで遠慮がない分、兄や父にたいする親しみを覚えた。

男の夢は、家族を持つことだった。

「今度こそ、背広を着れるようになるからな」

アルバイトで働き始めた初日に客から言われた言葉が、それだった。

女は短大を卒業し、特にやりたいこともないためそのまま正社員に繰り上がった。

以来、最初のお客は懇意に変わり、たまの休日に会うまでになっていた。

女は、男の背広を仕立てることを夢見た。

「今度こそ、背広を着れるようになるからな」

男は昨日の発言を反芻しながら、今日も鉄骨を運ぶ。

思えば、あの店に行ったのは、建築現場の向かいにあったからだった。

今日、この現場が終わったら、採用面接だ。

今の仲間とも離れてしまうが、絆は確かだ。

今の給料より下がってしまうが、あの店に背広を買いに行ける。

男は、遠い日に自分そっくりの男が、背広を来て出かけた日を思い起こしていた。

「今度こそ、背広を着れるようになるからな」

女は、それを聞くのが最後になることを願いながら、男を送り出した。

これが通れば、男はサラリーマンになれる。

サラリーマンになる男に、自分の背広を着せる日を、何度も夢見た。

女は、立派になった男が、再度自分を、生涯の相手として選んでくれることを夢見た。

「今度こそ、背広を着れるようになるからな」

男は、朦朧とする意識の中で、そうつぶやいた。

なぜだか、足の感覚がなく、目の前のマスクの人間たちが慌てふためいている。

しゃべろうと思い、唇を動かそうと思うも、実行されない。

それどころか、目も動かせない。体がベツモノになってしまったようだ。

男は、自分にかかる不織布が、最後の背広だった、と悟った。

男はその運命のいたずらに驚き、笑い、少し泣いた。

「今度こそ、背広を着れるようになるからな」

女は、もう聞けないそのセリフを反芻する。

鉄骨落下事故。

自分が駆け付けたときには、もう遅かった。

火葬場の煙突から、煙が上がるのが見える。

きっと魂が物質なら、あの煙のどこかに彼がいるのだろう。

彼は、静かに空を上り、薄くなり、そして消えていった。

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