3.藤本彩里2

 私には止める権利はなかった。それをよく覚えている。私は両親に棄てられて孤児院で育った。やはり親という存在は子供にとっては大きいものだ。いくら代わりの親がいても、本来の親とは違うものだというその事実は変わらない。


「お母さん、ですよね」

 息を整えながら私は立ち去ろうとするその背中に呼びかけた。びしょ濡れの体育服は重みを増してシャツにべっとりとくっついている。赤い傘を揺らして白いコートに身を包んだ長い黒髪の女性はゆっくりと足を止めた。

 その姿はいままでも運動会や授業参観で何度も見たことがあった。だから私は確信を持っていた。

「お母さんですよね、私こんなに大きくなりましたよ、別に私を捨てたお母さんを恨んでるとかないし、わた......」

「あの!」

 澄んだアルトの声が雨の中に響いた。

「......人違いじゃ!ないですか」

 掠れた声から説得力は消え失せていた。私は大きく一歩近付いた。勢いを失くした雨はそれでも降り止む気配は無かった。なんとなくだけど、ここで私がなにか動かなければ変わらない、と子供ながらに 真剣に焦った。何かを足掻くように私は必死に手を伸ばす。

「......おかあさ......」

「お母さんじゃ!ないんですよね......」

 その刹那だけは雨が止まった気がした。いや雨だけじゃない。空間自体が動きを止めていた。

「私は、お母さんになり損ねたんですよね......色々頑張ってみたんですけど」

 雨が強まったせいか、泥のついた体育服が身体にぐっしょりとのしかかる。

「好きな人が居たんです」


 ずっと憧れの人で、先輩だったんですけどね。よく私の面倒を見てくれたし私のことを目にかけてくれた。そりゃあイケメンだったし、高身長でスポーツ万能で。ちょっとドジなところもあったけれど。それでも私はあの人の、人の良さに惹かれたんです。


 傘はくるりと回った。雲の間から光が一筋差し込んだ。光とは雲なんかに遮られるものなのか。案外光は弱いんだな。そんなことを考えた。


 何度も何度も繰り返し会っていくうちに。そう、私はいつしか健太さんを愛していたんです。愛してはいけない人なのに。

 健太、というのか。少しだけ親という存在が現実味を帯びた気がした。


 でも、駄目だった。健太さんは私とは見ている先が違ったって言えばいいのかな。今まで私と住む世界が違いすぎたんです。全然駄目でした。必死に追いかけてもあの人はどんどん遠くへ行く。好きな人だからこそ追いかけていたけれど私は無責任にも諦めてしまったのです。私が、諦めてしまったのです。

 話の終わりが近付いてきたのがわかった。拳を強く握りしめる。爪は手の平にくいこんでいた。

 でもね、とその人は私と目線をあわせた。顔には雨で濡れていたわけではなかったけれど滴がのこっている。それでも目の奥は和やかに笑っていた。

 フッたのは私なんだけどね。朗らかな声に後悔はなかった。むしろ、少女の茶目っ気を帯びていた。

 その時涙が出ていたのは健太さんには秘密のこと。そんなこともつらつらと言ってたような覚えがある。まるで女子の恋バナのように、私によく似た目鼻立ちの女性はたくさんのことを私に語りかけていた。

「あなたが誰か私は知らないけど、でもこれも縁よね。私からのアドバイス」

 その人は途中からは私に半身を向けて雨を降らす雲に言っていた。その姿は視線の先にいるんだろう言うことの聞かない園児を優しくたしなめる姿にそっくりだった。

「今まででもたくさん辛いことはあったんだと思う。あなたの力じゃどうしようもできないことが原因のこともたくさんあったと思う。そんな時は、怒りの矛先をどこに向ければいいのか路頭に迷ったでしょ?それでも──私が言うのもなんだけどね──前を向いてほしい。例えどれだけそれが行く手を阻んでも必ずや道は開けているから。あなたは親のせいで人より自由はないのかなと思う。それでも、あなたを生んだ親を恨まないでいて。親の都合なのかもしれないけれど、あなたにはそんな人にはなってほしくないから。せめて、悪の連鎖は私の世代で終わらせなきゃ」


 そう、私の母は語っていたのだ。私の為に、負い目だけじゃない更なる気を遣って。

 真実は高校に入学してから知った。送り先のない長い長い手紙だった。

 字を見ただけで誰かはわかった。決して字などは見たことはないはずなのに。封筒の字が自ら名を語っていたのかもしれない。

「私は本当のことを告白するために筆を執っています」

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