2.藤本彩里1

 私は深い溜め息をひとつついて、ソファに深く寄り掛かる。立ち上がろうという気力がもうない。身体にどっと疲れが押し寄せていた。全身に重しを付けているみたいだ。学生の頃、風刺画で見たような状況に口の端と乾いた声で笑う。

 アパートの扉は由紀によって開かれたままだった。エアコンがついたままだから電気代がもったいない。とりあえず閉めようとは決意して重たい身体を扉まで運ぶ。外から入り込む風は冷えきっていた。

 少し視線をあげれば、夜空には綺麗な月が浮いていた。今日は月の海もはっきり見える。兎が餅をついている様子、か。中国では蟹に見立てるんだっけ。誰かがそんなことを自慢していた気がする。あれはいつの事だったろう。多分私が大学一年生の時だ。

 ヨーロッパじゃ、金髪の長い髪をしたヴィーナスに例える。ヴィーナスは美しい女性の代名詞でもあるだろう?そう、まるで君のように。今宵だけじゃない。君は僕のヴィーナスだから。

 あぁ思い出した。横浜の結構高級なレストランだ。やっぱり私が大学1年の時。まだテニスサークルに入っていた頃だから、六月くらいだろうか。テニスサークルの先輩にデートに誘われて言われた告白の言葉だ。黒髪で切れ長の目をした人だったっけ。チャラ男が頑張ってつくろいましたという感じがまるまる出ていた覚えがある。誰だったかなんていうどうでもいい事は思い出そうとしても思い出せない。まぁ思い出す気もないけれど。

 もう一度月を見上げる。

 月が綺麗、か。文字を追って呟いてみる。かの夏目漱石がどうI love youを訳していようが今宵の私にはどれもしっくりこなさそうだった。

 それでも月を見つめる。月の海を目でなぞって形を追う。うさぎの餅つきを思い描いて力なく笑う。やっぱり、私にはヴィーナスになんて見えない。滑稽にうさぎが餅をつくだけだ。多分、これからもずっと。

 誰にも見られることのない形通りの苦笑は私の顔を階下に向けさせた。ちょうどカップルが目下を通り過ぎていくところだった。ゆったりとじゃれあいながら歩いていく。彼女が肉まん返してと言って手を伸ばす。彼氏はいやだと言いながら肉まんを高く持ち上げる。二人とも笑顔だった。その様子を私はカップルが角を曲がって見えなくなるまで目で追いかけていた。あぁなれたら。私もあぁなれたらどんなに楽だったろうに。

 夜の空気の冷たさを思い出して、私が部屋の扉を閉める頃には月はもう雲に隠れて見えなかった。


 冷蔵庫から缶ビールを取り出して今後の由紀の行動を考えてみる。散々飲み歩いて深夜までハシゴするんだろう。始発に近い時間まで。いや、あの子のことだ。始発までには帰途につく。電車はない。歩いて家に帰るんだろう。でも由紀は方向音痴だ。

 ......泣いて電話をかけてくる。

 私はプルタブに掛けていた指を外すと無言で缶ビールを冷蔵庫に戻した。


 私は元々レズじゃない。というか、世の女性で同性愛の子は大抵そうだろう。私は勝手にそう思っている。高校の同級生にも一人いたけれど、男に散々酷いフラれ方をした挙げ句だと聞いた。そんなものだろう。LGBTと言えば偏見が強く見られるものだが、そのきっかけは多分どれも小さなものなはずだ。まぁ私のような例外も少なからず、いる気はするけれど。

 私が由紀をふった理由はさして大きな理由があるわけではなかった。


 アパートに鍵をかけて階段を降り、車のエンジンを掛ける。小雨はずっとブラインドを濡らしていた。

 あぁ、そうか。公道で車を思いっきり走らせながら私は考えた。そうか、ずっと引っかかっていた。あの時だ。記憶がまざまざと甦る。あの時もこんな小雨だったな。

 あの時のことはよく覚えている。小学校の運動会。赤いハチマキをしたあの時の自分はなかなか忘れられないのかもしれない。台風が来ていて、午後からひどいどしゃ降りになった時だ。

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