ほろ酔いcendrillon

北見 柊吾

1.穂村由紀

 雲が空を覆う隙間から、星が麗しい輝きを放つ月夜だった。

 去年の誕生日に彩里から貰った黒の腕時計は二十三時を十二分過ぎたところを示していた。まだ飲み足りない私はほろ酔いのまま西麻布の歓楽街を練り歩く。私は家に帰る気もなく、ふらふらとあてもなく次の店を探していた。

 できることなら静かなお店が良かった。マスターが1人でシェイカーを振っているような、こじんまりとした大人な雰囲気のお店。いつもは彩里が自分の知っているお店に連れていってくれていたし、ましてや超がさらにふたつくらいつくほど方向音痴な私がそんな店なんぞ、今のほろ酔いの状態で辿り着けるはずも無かった。月夜を掻き消すようなネオンの明かりと喧騒の中で、私は顔を歪めてイヤフォンを耳に勢いよく差し込む。ウォークマンからゆったりとしたバラードが流れ出す。七年前くらいに流行って、今でも人気の女性シンガーの曲。眼前に流れてゆく光景と噛み合わないリズムに思わず足を止めて目を強く閉じる。

 彩里ならこういう時どうしていただろう。目は閉じたままゆっくりと思い出してみる。

「じゃあ由紀の好きな歌、歌う?何歌いたい?」

 私の隣で。私と手を繋いで。笑いながらあやすように。すぐに具体的過ぎるような光景が脳裏に浮かぶ。閑散とした深夜によく響いたソプラノの歌声が自然と脳内再生される。

 由紀──────

 ふと後ろから彩里に呼ばれたような気がして振り返る。自分の背後には未だに喧騒しかなかった。長年見慣れたポニーテールの背が高い美女がいる隙はそこにはなかった。

 空耳か。そう強く自分を納得させる。イヤフォンからはまたさらにゆったりとしたバラードが続けて流れていた。目の前を流れる光景とのちぐはぐ具合に慣れてきた私は純粋な愛を歌った歌詞を小さく口ずさむ。

 愛してる~そんな愛を〜♪唄いながら僕等また進む〜♪

 そんなに有名でもない知る人ぞ知るようなグループの曲だ。なんとなく声が好きでよく聴いているだけの歌。別に心に響くようなことを歌っているわけでもなかった。

 あの日から〜この誓いを〜♪刻み込んで貴方また想う♪

 ほんの数時間前まで彩里とは一緒にいた。何度時計を見ても、その事実はなかなか変わってくれなかった。こういう時に限って時はゆっくりとしか流れない。時間を潰そうにもイイ店が見つからない。独りとはこんなに辛いものであったのか。改めて私は、隣に誰かが居るということの大切さを認識した気がした。


 リビングのソファで寛いでいた私はそのいきなりの話にまさしく目を見開いた。午後九時過ぎ。私達が付き合って三年という記念の日を青山の高級レストランで祝った帰り。ロゼワインを一人で二本丸々開けた私は酔いを醒ますためにもソファーに寝転びながら机の上にあったパンフレットで顔を仰いでいた。彩里の会社の関連だろうか。仰ぐのをやめて軽く目を通す。明るい配色のパンフレットには株式会社博愛カンパニーという緑色の文字が目立って見えた。寄付やボランティアの支援を積極的に行なっている会社らしい。博愛か。彩里の性格にはぴったりな言葉だ。見た目に似つかず真面目で堅実な彩里は都立病院で看護師として働いている。結構評判も高いそうだ。患者から人気だとかいう話を聞く度にいつも身体の何処かに棘が刺さるようなチクチクとした痛みが走った。

「由紀、お酒強いっていっても飲みすぎだよ?程々にしないと」

 あーい、と軽く肯定の返事をして、やる?と誘ってみる。いつもはのってくる彩里もその日は軽い笑みを浮かべて私の頭を撫でて遠慮しとくと優しい声で呟いた。あとから思えば、この時の返事に感じた違和感を軽く受け流したことが間違いだったのかもしれない。それでもこの時の私はそんなことを知る由もない。大抵の後悔は日常の違和感にどれだけ敏感に反応しているかだろう。


 やっとのことで見つけた店は思い描いていたイメージとは違ったけれど独特な雰囲気を漂わせていた。バーカウンターに腰掛けてジントニックとナッツを頼む。私以外に客は数人しかいなかった。ふたつしかないボックス席で愚痴を肴に飲んでいる会社員二人。明るい色のドレスで着飾った挙式の帰りらしき30代前半くらいの女子会3人組。バーカウンターの端で煙草を吸いながらカクテルのグラスを傾ける男性。そして静かに流れるBGMに耳を傾けるように、目を閉じてマドラーを回す穏和な雰囲気を醸し出す初老くらいのバーテン。そしてこの場に映える丁度いい暗さ。雰囲気も状況も凄く良かった。先に出てきたナッツを齧ると私は女子会3人組の話に耳を傾けた。他愛もない話ばかりだった。どこどこの部署の誰々がイケメンだとか誰々が彼氏といい感じだとか別れそうとか。つまらないくだらないと心で毒づきながらどこか私は心の底でこういう話を待ち侘びていたような気もした。そこにある会話の数々は私が高校の時くらいから何処かに忘れてきたものだった。

 ちょっとだけ平均より偏差値が高い高校をまぁまぁ無難な成績で卒業して東京の大学に進学した。サークルにも入らずふらふらしていた私をどこで知ったのか、当時大学の2年生だった彩里に声を掛けられた。

「ねぇねぇ同棲しない?」

 金があまりない大学生にとって魅力的な話だったし、私は初めて彩里と逢った時に一も二もなく賛成してほぼその日のうちに荷物を引っ越した。

 あれももう7年前くらいになるのか。どうしても感慨深く感じてしまう。涙がこぼれそうになって少し上を向く。

 シェイカーを振っているバーテンがぼやけて見えた。今まで酒の勢いで忘れようとしていた事がまざまざと私の中で蘇った。


 あのね。別れてほしいの。

 重要な話があると切り出されて唐突に言われた言葉。その言葉を数秒間掛けて理解した私は頭を何発も殴られた気分でしかなかった。

 ─えっなんで?

 必死に喉から絞り出した言葉はそれしかなかった。数分考えても上手い言葉は出てこなかった。彩里だったり、テレビのお笑い芸人だったら上手く切り返しているんだろう。私の頭の中は多分混乱というか、混沌のような状態だったんだと思う。もうわかんなくなった。吐き気がした。

 ─いやぁ由紀を嫌いになったとか、そういう事じゃないんだけどね、なんか。なんて言うのかなぁ。

 ─なんか何よ、言ってよ。え、なんで?なんで別れたいの?私に飽きたの?私達はそりゃあ色んな事出来ないけど、でも愛し合っていたじゃない!

 ─────────うん。

 彩里がそのうん、というたった一言を出すまでに長い長い沈黙があった。私にはその沈黙をどうすることも出来なかった。何故彩里が唐突に別れ話を突きつけてきたのか。まず自分の非を指折り数えてみた。そして数秒で両手の総ての指を折って、考えるのをやめた。考えないでもわかることではあった。基本的に私は人間が出来上がってないというか、なんと言うか、簡潔に言えば彩里に頼りっぱなしだった。なんで?とよく訊いたと今度は逆に自分に感心した。彩里は下唇を噛んで俯いていた。私にはどうすればいいのか分からなかった。自分が今何を考えればいいのかさえ。何も分からないけど、ソファに先刻投げ出した鞄を咄嗟に掴んだ。そのまま玄関を飛び出した。彩里は一瞬止めようと立ち上がりかけたけどまた俯いたのが横目で見えた。

 玄関を飛び出して夜風に吹かれながら少しだけ涙を拭った。冷たいはずの風がなぜか冷たく感じられなかった。

 未だにプロポーズの言葉は覚えている。さっきはあの時の言葉を少し引用したつもりだった。場所は麻布かどこかの夜景の綺麗な美味しいレストラン。私達では子作りも結婚もできないけれど、愛しあうことならできる。そう言って金銀のペアリングを渡した。晴れた夜空にたくさんの星が見えたことは覚えている。なによりも大切な思い出の日なのに、なんていうレストランだったかを思い出せない。そんな自分にまた一段とげんなりする。


「お嬢さん、ご注文なさったジントニックです」

 バーテンに軽く呼び掛けられて私は起きた。どうやら机に突っ伏して寝ていたらしい。時計を見ると10分くらい経っていた。見渡すともう客は私だけだった。

 目が合った。柔らかな笑顔で微笑んだバーテンはおもむろに口を開いた。

「是非召し上がってください」

 いわゆるイケボ、という声だった。よく通る澄んだ声。私は操られるようにジントニックを喉に通す。少しフルーティな味がした。

 バーテンは岸和田と名乗った。私は総ての経緯を語った。男なんて生き物は基本信用していない質なのだが、この岸和田という男は見た目と風格で信用できる人だということを私の本能が悟っていた。

 要所要所、話の途中で岸和田は相槌を打ってくれた。同性愛を差別するような素振りもなかった。ところどころ白くなっている柔らかそうな顎鬚がたまに揺れた。年齢も顎鬚もあるのだろう、そのバーテンから私の頭の中ではサンタが連想されていた。

「私達は愛し合っていたの」

 延々話しているのもはばかられたからそう話を締めくくった。そして2杯目のジントニックを飲み干した。

「私は、今まで沢山の愛や恋愛を見てきました」

 バーテンサンタは優しく話しはじめた。

 こんな仕事ですからね。よく目にするしよく話を聞くのです。独りでいらっしゃった男のお客様から奥様の愚痴を聞かされたり、カップルでいらっしゃったお客様からは惚気話を聞いたり。何を仰るんですか、別に面倒などとは思いませんよ。この仕事はただ酒を提供する訳ではありませんから。

 えぇ、そりゃあなたのように女性同士の恋愛だなんてよくある話です。なにせ私もここのバーテンを30年以上やってますからね。でもね、お嬢さん。どれだけ訊かれようとも私なんぞが毎回正しいアドバイスなんか出来ません。私もしてあげたいのはやまやまなんですが、私も人間ですし。たった1人の私を受け入れてくれた女性と共に同じ道を歩むのでさえ何十年もかかったのですから。皆様にも言うんです。お客様の好きな方愛した方ではない方を人生掛けてたかだか1人一緒になることが出来ただけですよ、と。分かりますか?そうですね。

 私はただグラスを見つめて耳を傾けていた。今日飲むお酒は最後にしようと岸和田に適当に一杯と注文して作ってもらった桃ベースのフルーツカクテルは透き通った桃色をしていた。


 しかしね、私も30年ただ聞いてきた訳でもありません。私はたくさんの方を見てきました。あくまでも、私個人の見解ですよ。貴方も含めたくさんの方々に共通している事があります。わかりますよね、愛です。自分が愛した人は信じる。信じて更に愛せばいい。どんな形であれちゃんと自分にいい形で愛したぶんは返ってきます。

 お嬢さん貴方の場合は愛していたけど自分に落ち度があったから別れ話を突きつけられた、そうでしたね。自分の落ち度なんてものに愛は負けたのでしょうか。天秤にかけた時、揺れ動いて一瞬向こうに傾いただけでしょう。本来重い愛の方にちゃんと天秤は帰ってきます。そんなものですよ。人生は天秤です。自分が上手くいく方に傾けば、しばらくすると逆側に反動で傾く。少しずつ将来私やそれ以上の年になって、やっと少しずつ揺れが小さくなって安定していくんです。きちんと正しい方向に、ね。


 私はいつの間にか涙を流していた。多分涙と話に酔っていたんだと思う。例え違っていても、そう思い込むことにした。酔いを酒のせいにする気はなんとなくだけど、違う気がした。


 いやぁバーテン冥利に尽きると言いましょうか。話で涙してもらえるとは。どうですか。少しは落ち着きましたか。参考になるような話を出来たでしょうかね。年の功も馬鹿にしたものではなかったでしょう。

 ほら、もう2時です。

 そう言って最後に穏やかに微笑んだ岸和田の顔は何故か凄くいつしか博物館で見たホープダイヤのように輝いて見えた。

「今日、3年の記念日だったんですよ」

 席を立ちながら、口に出す。

「青山のなんとかっていう結構高級なレストランでフレンチを食べて、お酒飲んで」

 自分にもお酒にも酔っていた訳じゃない。ただ喋り出すと止まらなくなった。バーカウンターの掃除をはじめた岸和田は黙っていた。

「気をつけてくださいね。重い感情は身を壊しますから」

 涙は自然と溢れるものだという事を今日何度思ったろう。私は上手くお礼も口に出せずに頭を下げた。

 店を出て取り敢えず私は家に向かって走った。まわりの店も殆どが閉まって人通りもだいぶん少なく、閑散としていた。完全に家までの道が分かるわけではないけどなんとなく家の方向は分かっていた。まだ考えはまとまってはいなかった。むしろ彩里を目の前にしても考えがまとまるとは思えなかったし、というか総て消えていく気もした。自分でもなんで走り出したかは分からないし定かじゃない。夜の風に強く吹かれたかったのかもしれない。深く考える事でもないし、別にどうでもいいのかもしれない。そんな事が頭によぎっては風に流されていった。私の気持ちは少し晴れていた。先刻から空を覆っていた雨雲からところどころ切れて星がまた出ていた。

 何度も何度も息が切れて足が止まった。長年の運動不足は凄絶なものだった。それでも何度も何度も誓い直した。

 息が切れて頭が回らない中で思った。ちゃんと話す。話し合う。もう、覚悟はできていた。


 結局のところ、私が彩里と会ったのはそれから1時間以上後のどこかもわからない駅であった。家に向かって進んでいたはずの私の足はいつの間にやら違う方向に向かっていたらしい。そもそも自分の方向音痴を何故こういう時に限って自分が過信したのかという事自体も謎だった。まあいくら悔やんでも何も変わらない。車内は気まずいままで、私が半泣きになって電話した事実は変わる気配すら見えなかった。隣で黙々と運転する彩里を私は見ることが出来なかった。怖かった。

 駅を背にして半泣きになって電話した時、彩里は電話に出た瞬間、私が何も言う前に「分かった、今行く」と言ってすぐに切った。私はその声でまた泣いてしまった。今日だけで何度泣いたろう。そして今日だけで何度泣いた回数を数え直したろう。目がもう赤く腫れあがっていることは目の痛みから容易に想像できた。

 次の信号はまた赤で、彩里がブレーキをかける。長く感じる沈黙の時間。一時振りやんだ雨はまた強く降っていて、ワイパーが拭き取った跡をすぐ見えなくした。

 信号が青に変わって車はまた走り出す。

「私は、怒ってないよ」

 横から声が聞こえた。恐る恐る顔を見る。前を向いて、表情は変わっていなかったけど先刻までと少し雰囲気が違うように感じた。

 色々な言葉が頭に浮かびあがった。それでも、どの言葉もうまく言えなかった。すべての思いをとりあえず無理やり四文字にまとめた。

「ごめんね」

 彩里はやっぱり表情を変えなかった。前を向いたまま、もう一回言った。

「私は怒ってないよ」


「帰るよ、私達の家に」

 多分まだ彩里の表情は変わっていなかったと思う。でも、その声は少し笑ったように聞こえた。

 ゆっくりとアパートの駐車場に彩里の軽が入っていく。バック一発で綺麗に止めて彩里は扉を開けた。

 たった数時間見ていなかっただけでアパートの橙色の明かりは暖かく懐かしいものに変わっていた。

 車を降りればすぐに彩里は鍵を掛けた。そしていつものように私よりも早く階段を駆け上がる。私は何故か、アパートの光の明るさに圧倒されて立ち尽くしていた。彩里は3階から下に顔を出す。

「由紀、はやくはやく」

 上から彩里に急かされて我に返る。身体は疲れきってあまり言う事を聞かない。少しふらつきながら階段をのぼる。他の部屋は静かだった。明かりもついてない。3階に辿り着いた時、廊下は光り輝いていた。

 305号室からの光。綺麗だった。私は一瞬で天に召されたような気持ちにもなれた。この世の光とは思えない麗しさだった。

 金髪の長身の美女が光の中に立っていた。光が出ているようにさえ思えた。私好みの顔と性格を持ち合わせた最愛の人だ。ゆっくりと白く華奢な、看護師の仕事で鍛えられた腕が広がる。

 足は自然と何かに動かされるように前に出た。

「おかえり、由紀」

 光に照らされた天使は私に優しく微笑んだ。

 結局、未だ別れ話もなにも解決はしてない。私が飲み歩いていたのもまだ何にも活かされてない。それでも今はそんな事はどうでも良かった。ただそこには言葉にはうまく表現し切れないけれど、暖かいものがあった。別にそれで良かった。

 私達はゆっくりと抱き合った。

 まだ私達は大丈夫だ。これからも、一緒に歩んでいける。


 空は白く明るみはじめ、沢山の星が橙色の空のなかで輝きを放っていた。

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