第33話 おっそーい!

「おっそーい!」

 電車を降りる時、背後から小さく不機嫌な声が聞こえたと思ったら、肩にひどい衝撃を受けた。

 乗降客の多い駅で、平日の夕方から夜にかかる時間帯。当然混んでいる。

 見ると、OLと思しき女性。彼女が私の肩にぶつかった。開くドアのすぐ側に立っていた私は降りようと準備をしていたのだけれど、そんな私を押しのけてでも先に降りたかったらしい。彼女は呆然とした私を一瞥し、「フン」と鼻を鳴らして去っていった。

 さっきまで席に座っていた女性だった。目の前に杖をついたおばあさんが立っていたのに、無視してずっとスマホを操作していたから憶えていた。

(まあ、仕事で疲れたとか、生理痛がひどいとかかもね……)

 それならあのイライラはわからないでもない。

 けれど納得出来ないのは、乗り物にそれまで座れていた人が、立っている人を押しのけてまで我先にと降りようとすること。

(そんなに急いだって、あんまり変わらないと思うけど)

 トイレに行きたかったのかもしれない。そう思うことで、私は溜飲を下げた。


 ふと、妹のことを思い出した。

 私が四月生まれで、彼女は翌年三月に予定よりもかなり早く生まれた。つまり同じ学年。

 すごく気が強い子で、かけっこ、習っていたピアノの進み具合や九九を憶えること、塾でのドリルも、常に私よりも先に進まないと気が済まなかった。

 身長は私より早く伸び、初潮が来るのも、ボーイフレンドを作るのも早かった。

 先にそのステージに行って悠々と私を待ち受け、私がそこに追いついて彼女に並ぼうとすると、押しのけて先に行く。そして「私よりも早く生まれているのに、おっそーい!」と私を見下す。その「おっそーい!」がまた人を揶揄した言い方で、本当に嘲笑いながら言うものだから、なかなかくやしい。

 けれど反論しようにも、遅いのは事実。頭の回転も速くない私は、ただ黙るしかなかった。

 妹は私よりも早く就職先を決めた。私も行きたかった企業で、求人枠が少ないところを、先輩のコネを使ったと言っていた。

「お姉ちゃんもさっさと就職先決めればいいのに。おっそーい!」

 数年後、私が激務の日々を送っている間に彼女は医者と見合いをして、すぐに結婚した。それは元々私に来た見合い話だったらしい。

「お姉ちゃんも早く結婚すればいいのに。おっそーい!」

 その後私にも縁があって結婚したけれど、ほぼ同時に彼女は妊娠。

「お姉ちゃんも早く子ども産めばいいのに。おっそーい!」

 何を言われても私はマイペースを貫いてきていたけれど、なかなか子どもを授かることができず、そんな妹からの攻撃に疲弊した。

 ちょうど夫の海外転勤の話が出て疎遠になれたけれど、それでも嫌味な「おっそーい!」メールは、ことある事に届いていた。


 だけど、少し急いだからといっても大して変わらないし、却って痛い目に遭うこともある。

 電車から降りて、人の流れに沿って改札に向かった。すると改札を出てすぐそばの階段に人だかりが出来ていた。人垣から覗くと、階段下に女性が倒れている。おそらくは階段を降りる際に踏み外したのだろう。痛そうに顔を歪ませている。

(あ、さっきの……)

 私を押しのけて行った女性――。


 妹は高速道路を運転中に、自損事故を起こした。前の車を追い越そうとしてハンドル操作を誤ったのだ。ひとり娘は助かったけれど、妹と助手席にいた義弟は亡くなった。

 子どもができないままだった私は姪を養女に迎え、最近ようやっと「お母さん」と呼んでもらえるようになってきたところ。


「お姉ちゃんも早くこっちに来ればいいのに。おっそーい!」

 時々そんな声が聞こえる。

 こればかりは黙ってはいられない。


「いやよ。私はまだそんなところに行きたくなんかないわ」


 私に言い返されるとは夢にも思ってもいなかったであろう妹の、呆気にとられた表情が目に浮かんだ。

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