第32話 黄色信号
「くだらない」
夫はいつものようにそう言って切り捨てた。
「そんなことを教える前に、ユタカにはもっと勉強させるとかしろよ」
「でも」
「第一、黄色信号で止まるバカいるかよ。アイツがトロかっただけだろ。ケガもたいしたこと無いなら、もういいじゃないか」
そう言って夫はソファに座り、テレビにスイッチを入れた。もう私の話を聞くつもりは無いらしい。
この日、小学生の息子が車に轢かれかけた。
信号が黄色だったのに無理やり渡ってしまい、左折車と接触したのだという。警察から連絡が来た時は血の気が引いたけれど、幸いケガは膝小僧のかすり傷程度で済んだ。運転手からは丁重なお詫びをいただいたけれど、黄色信号を見てから渡り始めた息子にも非がある。
信号が黄色の時は、『歩行者は横断を始めてはいけない。横断しているときは速やかに横断を終わるか、横断をやめて引き返さなければならない』というのが定義らしい。私も言ったけれど、信号を守るように夫からも注意してもらおうと思って、帰宅した夫に話したのだった。
なのに、この態度。
いつしか私の夫への愛情に、黄色信号がともるようになっていた。
付き合っていた頃は好きで好きでたまらなくて、やがて結婚した。子どもが出来るまでは、青信号。それが永遠に続くと思っていた。
ところがそのあたりから、段々と彼の本性が見えてきた。子育てのために仕事を辞めた私への蔑みが言葉の端々に見える。暴力は無いものの暴言が増えた。「あれ? おかしくない?」と疑問に思った私の心は、黄色信号をともした。
『これ以上、夫を好きになってはダメ』
自分が傷つくことになるから。
専業主婦だし、子どもがいる以上はうかつに動けない。すぐに赤信号にしてしまっては、私が路頭に迷うことにもなりかねない。だからずっと心の信号は黄色いままで留めている。
彼が同僚の女性とプライベートで食事に行った時も、「別にホテルに行ったわけじゃないし」と黄色信号。
「お前、老けたな。やっぱり子どもを産んだ女とはヤル気しないな」と嘲笑された時も、私にキレイでいろと注意をしているだけだと黄色信号。
ふだん相手にしないから、息子も父親である彼には近づかない。父親としても黄色信号。
仕事や趣味ばかり没頭して家庭を一切顧みないところも、一家の長としては黄色信号。
ちゃんと興信所などに頼めば、不貞のひとつやふたつ出てきそうだし、そのくらいのヘソクリはある。そろそろ一気に赤信号にしてもいいような気もする。
けれど私の信号は黄色のまま。じっと我慢して、信号が青に変わるのを待っている――。
ソファに座った夫は、私には完全に背を向けている。ソファの背もたれから見える、薄くなってきた後頭部。思いっきりひっぱたいたら気持ちいいだろうな。けれどそんな小さな暴力にも黄色信号をともして、思いとどまる私。
やがて彼はいびきをかき始めた。気持ちよさそうな、大きないびき。いいご身分だこと。前に起こしたらすごく叱られたから、私はそのまま放置することにした。風邪でもひいてしまえばいいのよ。
「この度はご愁傷様です。まだお若いのに脳梗塞でなんて。あれほど注意しろって言われていたのに……。え、奥さん、ご存じなかった? 会社の健康診断では脂質やコレステロール値で、ずっと要注意が出ていたんですよ」
私は思い違いをしていた。黄色信号の次は必ず赤信号。青信号になることなんてない。
まさか、彼の体が一番先に赤信号になるなんて。
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