第30話 壁に耳あり

 壁は私の友だちだった。


 私の家は何代も続いている商家で、屋敷は広いが古かった。だけど柱や壁には我が家の歴史が刻まれていて、いい塩梅にくすんだ白い壁は、私のお気に入りだった。

 ある日、祖父が「お前の部屋にかわいい壁紙でも貼ってやろうか?」と言ってくれたけれど、私は断った。


「助かった。壁紙を貼られると、窮屈なのだ」


 その夜なかなか寝付けないでいたら、そんな声が聞こえてきた。誰かが隠れているのかと思ったけれど、そうではないらしい。

「おれの声が聞こえるのか。おれは、この壁に意識を住まわせる者だ」

 最初、その白い壁の中に死体が埋まっているのかと思った。実際は、彼(彼女かもしれないけれど)が死んだ後に長い年月を経て土に還り、そのあたりの土を原料にその壁が作られた結果なのだという。どうして意識が残っているのかは、彼にもわからないらしい。

 それ以来、壁は私の話し相手になってくれた。両親は継いだ家業に忙しく、また兄弟姉妹もいないので、私はひとりで過ごすことが多かった。それでも壁と話すことで、寂しさを紛らわせることができたのだ。

 壁は視覚を持ってはいなかったけれど、屋敷の中のありとあらゆる音を聴くことができた。たとえば不正を働いている従業員の声を聞いたり、家族が私に黙って決めた縁談の内容などをその“耳”で得て、あとで事細かに教えてくれたりもした。

 短大を出てすぐに、私は親の決めた相手と結婚した。

 相手が婿入りし、我が家で暮らし始めたのだけど、見合いの時は誠実に見えた夫の本性が、壁によって明らかになっていった。

 金庫や預金通帳などを他の家族がいない時に漁ったり、若い女性従業員にちょっかいを出したり。

 壁の話によると私と結婚したのも、私自身よりも家が魅力的だったかららしい。けれど私はそれらの情報を壁からもらうと、すべて事が大きくなる前にもみ消した。

 そんな男だけど、夫を愛していたからだった。

 やがてすべてを阻止する私におそれをなしたのか、夫はまじめに働くようになった。


 ところがしばらくして少し大きな地震があり、柱にヒビが入った。

 そこで家の安全性が問われ、ついに家を建て直しすることになってしまった。

 それを自分で聞いて知ったのだろう。「お前はこれからもたいへんだろうが、これでお別れだ」というのが、壁の最後の言葉だった。

 屋敷が建て直しされ、壁は物言わない無機物に変わった。

 私は壁を失った寂しさに呆然とした。

 そして情報屋の耳が無くなって私が動けなくなると、また夫が不穏な動きを見せ始めた。

 このままではいけない。寂しがっている場合じゃない。私は壁に代わる“耳”を探した――


 それからまもなく、また私は夫のしっぽを掴むことができるようになった。

「旦那さんは本当にしょうがないね。奥様が穏便に済ませていることを、そろそろ自覚しなきゃ」

「そういえばその奥様だけど、この間、障子に向かって何か話しかけていたのを見たんだけど……お疲れかしら?」

「は? なんて?」

「それが英語で話しかけていて、わからなかったわ」


 私の新しい話し相手。

 この度の建て替えで、すべての部屋に障子戸を設置した。その障子戸に、ある女性の意識が残っていた。死んで埋められた場所に生えていた木が、巡り巡って障子戸の木枠になったらしい。

 彼女は自分の名前をしっかりと覚えていた。その名で呼ぶと、すごく喜んでくれる。新しい私の友だち。

 ただし日本語は通じない。


 ある日、夫から謝罪を受けた。お前には敵わない。これからは心を入れ替えて、この家のために働くよ。それにしても、どうしておれの悪さが全部ばれていたんだ?と。

 私はそれには答えず、ニッコリと微笑んだ。


 壁に耳あり、障子に“メアリー”ってね。

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