第25話 イフタフ!
私には、年の離れた姉がいる。
「お姉ちゃん、今日はいい天気だよ」
「そうみたいね。気温は十八度まで上がるらしいわ」
窓から見える空には、雲ひとつ無かった。
私が物心ついた時には姉はすでに中学生で、共働きで忙しかった両親の代わりに、私の面倒を看てくれていた。
細面で色が白く、後ろに束ねていた長い黒髪がキレイ。「お姉ちゃん」と呼ぶと、「なあに?」とニッコリやさしく微笑む。その顔を見たくて何度も呼びかける。すると姉は私を抱きしめてくれるのだ。
姉は読書が好きで、博識でもある。よく本を読んでもらった。
中でも憶えているのは、「アリババと四十人の盗賊」。
「お姉ちゃん。『ひらけゴマ』って、なんでゴマなの?」
そう尋ねたことがあった。
「ゴマはね、花が咲いたあとにこんな実がなるの」
そう言いながら、姉は両手を合わせて膨らませてみせた。そしてそれを突然ぱかっと開くと、
「こんな風に開いて、種が飛び出してくるのよ。だから、ゴマみたいにひらけってことなのね」
「へ~」
姉の話はジェスチャー付きでおもしろく、かつわかりやすい。
そこで私はふと疑問に思ったことを口にした。
「この人たちも、『ひらけゴマ』って言うの? にほんご話すの?」
絵本の登場人物たちは、頭にターバンを巻いていた。
当時、近所にターバンを巻いた外国人が住んでおり、彼らが私には理解できない言葉で話していたのを思い出したのだ。
「アラビア語で確か……あ、そうそう。『イフタフ、ヤーシムシム』っていうのよ」
「いふたふ……」
「“イフタフ”は“開け”っていう意味。“シムシム”はゴマのこと。開け、ゴマ!って言ってるのよ」
「ね、それじゃ“やー”は?」
「“むにゃむにゃ~”って感じかな?」
そう言うと、姉は両手を自分の顔の高さまで上げ、ひらひらとさせた。魔法使いが呪文を唱えているかのように。
私はおもしろくなって、真似し始めた。
「イフタフ、ヤ~、シムシムー!」
「イフタフ、ヤ~、シムシムー!」
アラビア語に訳しただけの言葉が、私たち姉妹の仲良しの呪文になった。
そうして私たちは、飽きるまで呪文をかけ合っていたのだった。
「お姉ちゃん。今日ね、桜が咲いてたよ」
私は再び姉に話しかけた。すると姉は激しく動揺した。
「うそ! まだ桜前線はこのあたりまで来ていないはずよ?」
「四丁目の角の、タナカさんちの桜。ひとつだけ、花つけていたのよ」
私の言葉に返事はなく、ただひたすらキーボードを打つ音をさせていた。現在の姉の情報源は、本ではなくインターネットだ。
「お姉ちゃん」
私は返事を待たずに立ち上がった。そして姉と私を隔てているドアに向かった。
「お願い、外に出てきて。桜前線が来ていなくても、タナカさんちの桜は咲いているのよ」
私が小学校にあがる頃、姉の学校でいじめがあった。姉は自分を傷つけ、死こそ免れたものの、部屋から出てこなくなってしまったのだ。
けれど部屋の前を通ると、毎日キーボードを叩く音が聞こえてくる。話しかけると「なあに?」という返事。声は大好きな姉のまま、昔となんら変わりはしない。
でも。
「……い、イフタフ、ヤー、シムシム!」
私は扉に向かって呪文をかけた。
「イフタフ、ヤー、シムシム!」
ひらけ、ドア。ひらけ、心。
私は大人になった。明日、結婚して家を出てゆく。
もう一度、姉に抱きしめてもらいたい。姉の体温は、パソコンなんかではわからない。
「イフタフ、ヤー、シムシム!」
そして私の呪文に泣き声が混ざり始めた頃――ドアノブがカチリと鳴った。
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