第24話 胎教
「おまえ、やめろ! やめてくれ!」
「あんたなんか死んじまえ!」
この会話は、私が母の胎内にいた時の記憶。
物心ついた頃には、すでに父は鬼籍に入っていた。私が生まれる前に事故で亡くなったのだ。自宅のある団地の階段を、酔っぱらって転げ落ちたのだという。
父は大酒飲みで仕事も続かず、女癖が悪く、暴力もふるう。飲む、打つ、買うの三拍子揃ったロクデナシだったらしい。周囲から聞かされた父の醜聞は、自分の血の半分を呪いたくなるようなものばかりだった。
一方母は、私のことを大事に育ててくれた。母ひとり子ひとりの生活は裕福ではなかったものの、笑顔あふれる温かい家庭だった。
けれど私は憶えている。
私がまだ母の中にいた頃、父がいつも母を殴っていたこと。母がいつも泣いていたこと。そして、母が父に対して「あんたなんか死んじまえ!」と呪いの言葉をつぶやいていたことを。
あの会話……今でもハッキリ憶えているあの怒鳴り合いは、母が父を突き飛ばした時のものではないだろうか?
父が死んだ時、母はかなり疑われたらしい。ふだん殴られているし、父の怒鳴り声は近所中が聞いている。
耐え切れなくなった母は、酔っぱらった父を事故と見せかけて、突き落としたのかもしれない。結局父のことは事故として処理され、母は無罪放免となって私を生んだのだけれども。
私は確信している。
母は父を殺したのだと。
父に対する恨み言、それを胎教代わりに聞いていた私は、母がそうすることで私を守ってくれたのだと思っている。だからこのことは、母が亡くなった今も他言するつもりはない。
尊敬する母ではあったけれど、好きな男のタイプを私は受け継いでしまったらしい。
やさしく誠実な人だと思っていたのに、結婚した後から夫は変わった。仕事がうまくいかなくなるにつれてさぼるようになり、酒の量も増えた。咎めると、怒鳴られたり叩かれたりもした。当然彼に対する愛情など枯れてしまい、憎むようになった。
そんな中、私は妊娠してしまった。
私の母がそうであったのと同じように、無条件に私はこの子を愛し、守ろうと誓った。
けれど、いずれ夫はこの子にまでこぶしを振り上げるだろう。
そしてこの子は父親に絶望する……そんなことは絶対に避けたい。
私は毎日夫を殺めることばかりを考えるようになった。母がそうしたように、そのチャンスが来るのを虎視眈々と待っていた。
ただし、私は腹の子には嘘を話しかけた。このどす黒い感情を、この子に悟られるわけにはいかない。母が父を手に掛けたという悲劇は、この先も……多分一生私を苦しめることになる。この子にそんな思いをさせたくないのだ。
「あなたのパパは、本当はすごい人なのよ」
「パパはあなたとママのことを愛しているのよ」
私は夫に死んでもらう方法を考えながら、自分の腹に向かって話しかけた。
「パパはね、本当は頭もいいし、やさしい人なのよ」
「あなたのパパは、やればできる人なの」
棒読みでも何でもいい。生まれてくるこの子の中で、父親がすばらしい存在になってくれれば。そして私は、そ知らぬ顔で、夫を亡き者にすればいい――。
それから数年後。私はふたり目を身ごもった。
「いもうと? おとうと?」
幼い娘は、うれしそうに私の腹を撫でる。そばで晩酌をしていた夫は、満面に笑みを浮かべてこう言った。
「おれももっとがんばって、稼がなきゃな!」
あれから徐々に物事がよくなってきた。
夫は仕事をするようになり、今では酒もたしなむ程度。
どうやら私が腹に話しかけているのを、聞かれていたらしい。生まれてきた娘を溺愛し、ずいぶんといい父親、夫になった。生まれてきた娘は胎教の甲斐あって、パパが大好きな子に育っている。
けれど……どうやら私も一緒に育ってしまったらしい。
いつの間にか私は、夫を心から愛するようになっていたのだった。
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