第19話 匂い

 隣町の実家に久しぶりに立ち寄ると、誰かに愚痴を言いたかったのであろう母に捕まった。

「ひどい匂いでしょ? これ、ヤマダさんちなのよ」

 確かに、風にのってすえたような匂いがしてきていた。

 この匂いは嗅いだことがある。犬や猫が粗相したあの匂いだ。犬を飼っていたことがあるから、すぐにわかった。

「あのおじいちゃん犬のかしら?」

 ヤマダさんの家は、実家の二軒隣だ。昔から犬を飼っていた。

「もうあまり散歩もさせていないみたい。庭でさせたらさせっぱなしで、掃除も何もしてないみたいなのよ。それでこの暑さでしょ。うちはまだいいけど、隣のタナカさんちは大変よ」

 そのタナカさんと一緒に、苦情を言いに行ったのだという。しかし私も憶えているが、ヤマダのおじさんはすでに老齢ではあるものの、昔から頑固ですぐ怒鳴る。だから近所から嫌われているのだ。

 先日も聞く耳持たずで、母たちは追い返されたのだという。

「おばさんから言ってもらえば?」

 奥さんはまだマシだ。おっとりしていて、優しかった。

「それがね、最近見ないのよ。実家に帰ったんだって噂なの」

「へえ」


 私は自宅に戻ろうと実家を出た。

 そこへ、例の匂いが漂ってきた。

(確かにひどいわね。……あれ?)

 あることに気がついた。

 犬の糞尿の匂いに、他の匂いが紛れている。

 私はこの匂いも知っている。


 その後、再度苦情で訪れたタナカさんを殴ったとかで、警察がヤマダさん宅に立ち入った。

 すると奥の部屋に敷かれた蒲団の中で、実家に帰ったという噂の奥さんが亡くなっているのが見つかった。おじさんが殴っているうちに死んでしまったのだという。

 困惑したおじさんはとりあえず寝かしておいたらしいが、日増しに匂いがひどくなってくる。だから犬にわざと庭で排泄させ、その匂いでごまかしていたらしい。

 そんなあらましを、あとで母から聞かされた。


 自宅マンションに戻ると、見計らっていたように出てきた隣人に呼び止められた。

「あのー……お宅、香水の匂いがひどくないですか?」

 確かにそう。玄関先で大きな香水の瓶を割ってしまったので、うちの前の廊下を通ると匂いがきつい。

 私は精一杯の笑顔を作り、申し訳なさを演じた声で言った。

「すみません。ハウスクリーニングの業者を呼んでいるんですけど、予約が来週しか取れなくて……あ、これ、よかったら」  

 実家近所にある有名な和菓子屋で買ってきた大福を箱ごと渡すと、隣人は「あら、却って申し訳ありません。大変ですね」と、ほくほく顔で引っこんだ。

(これで一週間は稼げたかしら)

 そしてつくづく思う。ヤマダさんちのおじさんはバカだと。

(すぐ怒鳴る人って、やっぱり頭良くないのね。イヤな匂いふりまいていたら、悪い意味で注目されるに決まっているじゃない)


 私は部屋の鍵をかけ、キッチンへ向かった。

(この匂いは忘れられないわね)

 冷蔵庫に入れていてもなお、独特な匂いがした。

 まな板も、包丁も、ふきんも、何回か買い換えたのに。

 くさいとかそういうものではない。これは、ヤマダさんちから流れてきた匂いと同じ。

 少しずつ生ゴミとして捨てている。なんとか半分は処分した。

 ふたり分だから、時間がかかるのだ。


 夫と、彼の愛人。ふたり分。


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