第16話 アンゼリカ
オーブンの残り時間表示がゼロになり、ピーッという電子音がキッチンに鳴り響いた。
私はオーブンの蓋を開けて、焼き具合を確かめた。パウンドケーキ。これまで何度焼いてきたことか。
「いい匂い」
背後から聞き慣れた声がした。大学から帰ってきたばかりのサトルだ。
「姉さん、また焼いたんだね」
「ええ。食べるでしょ?」
私は昨日焼いたパウンドケーキを、冷蔵庫から取り出した。
「焼きたてを食べてみたいな」
「少し置いた方がおいしいのよ」
拗ねたような顔をして、彼は手際よくコーヒーメーカーをセットした。
お茶の時間のはじまり。
焼いてからしばらく経ったケーキは、しっとりとしている。その切り口は、中に入れたチェリーやアンゼリカで華やかだ。
「おれ、その赤いのが好き」
時々ナッツ類やバナナなどを入れて焼くこともあるが、彼はこっちの方が好みらしい。
「あなた、昔からチェリー好きよね」
サトルと私は年が離れている。私が高校生の時に、この子は生まれた。両親が他界して以来、ふたりで暮らしている。
私が趣味で焼くケーキを、サトルは好きなのだという。
「この緑のも好きだよ。サリサリしていて」
「“アンゼリカ”でしょ」
コーヒーのいい香りが漂っていた。
「いただきます」と言い終わると同時に、サトルはケーキを一片、頬ばった。見る見るうちに、表情が軟らかくなっていく。
「やっぱり、姉さんのケーキはうまいな。ユウコにも教えてやってよ」
“ユウコ”というのは、サトルの恋人。活発でかわいらしいお嬢さんだ。
「いやあよ」
笑いながら断った。私がそこまで出しゃばってはいけない。ユウコさんも嫌だろうし、彼がシスコン呼ばわりされるのも困る。
「ところでさ、ユウコの従兄が結婚するらしいんだけど、嫁さんがまだ十七歳で、出来婚なんだってさ」
「あら」
「もうお腹大きいんだって。出産してから式やるとかで。おれ、いやなんだよね。そういうの」
彼は眉間に皺を寄せた。
「なんで?」
「出来婚とか、未成年者に手出すとか、十七、八歳で出産とかさ。だらしなさすぎるじゃん」
「出来ちゃったものは、仕方ないじゃない。おめでたい話じゃないの」
「それはそうなんだけどね。ごちそうさま」
サトルはコーヒーの残りを飲み干すと「おれ、レポートやるから」と、立ち上がった。
そしていつものように、キッチンを出る時にレンジ台に乗っている鍋……夕食のおかずを覗き込んだ。
「今晩フキの煮物なの? おれ、フキ嫌いなのにさー」
「いいじゃない。今が旬なんだから」
彼は苦笑いしながら、キッチンから出て行った。
「アンゼリカって、フキの砂糖煮なんだけどね」
私は小さくつぶやいた。
アンゼリカとはセイヨウトウキというハーブを砂糖漬けにしたものだけど、フキを煮た代替品も多い。私は後者を使っている。
(あなただって、十七歳が生んだ子なのに)
戸籍上は弟になっている彼は、私が十七の時に生んだ子どもなのだ。
(これがフキだってわかったら、どんな顔するのかしら)
考える度に、私の顔に自嘲気味な笑みが浮かんでしまう。
私は残っていたアンゼリカのひとかけらを口に放り込んだ。
アンゼリカはサリッとした歯ごたえの後、甘さだけを残して消え去った。
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