第15話 忘れること

 喫煙室でふたり、タバコを吸っていた。

 彼はだまって窓の外を見ている。

 私はその横顔を見ていたけれど、辛くなって目を逸らした。

 ふと自分のブラウスの胸元に、付箋がついていることに気がついた。

 どこでついたのだろう? “忘れないこと”と書いてあった。



 昨夜、私は彼にキスをされた。

 飲み会で酔っぱらって、廊下で寝ていた彼。

 私が彼を起こそうとした時、突然抱き寄せられた。彼がキス魔だなんて、聞いてない。

「おまえはいつもがんばっているよな。頼りにしている。ありがとう」

 キスの後、彼は耳元でそう囁いた。

 うれしかった。すごくうれしかった。



 途中入社した会社で、私は初めての営業職に就いた。

 そこで私の教育係に任命されたのが、五歳年上の彼だった。

 彼は仕事に厳しい人だ。

 私は要領が悪く、だから前の会社ではリストラ対象になった。やっとのことで見つけた就職先であるこの会社でも、いつも涙目で仕事をしていた。女だからと甘やかされることなど無かった。

 けれど彼の指示は的確だった。その時流した涙はひとつぶも無駄にはならず、わたしはだんだんと仕事が楽しくなってきていたのだった。

 彼は最高の営業マンであり、優秀な教育者で、そして尊敬する先輩。

 そして、

(彼が好き)

 いつしか、私はそう思うようになっていた。

 彼の部下として、一緒に仕事するだけでもいい。

 プレゼン資料を作るのに、一緒に悩みたい。

 仕事が取れなかった時は共に悔しがって次に挑み、取れたら共に讃えあう。

 終業後に、立ち飲み屋でビールの一杯でも一緒に飲めればいい。

 なのに。



 目の前で、彼がタバコを吸っている。

 緊張しているようだった。けれど、笑っているようにも見える。

 彼のキスは、タバコの匂いがした。私のメンソールではなく、彼が好きなピースの匂い。

 聞きたかった。

(私のことを、好きですか?)

 たぶん、すでに答えが出ている。私は彼の言葉を待っているのだ。

 

 だけど。


「あのな」

 声をかけられたと同時に、彼の視線に捉えられた私は、ビクッと全身を震わせた。

 それと同時に、私の中で何かが警鐘を鳴らしはじめた。

「昨日のアレさ、いきなりごめんな」

 ダメ。

「……でも、本気なんだ」

 ダメ。

「おれ、おまえのこと――」


 私は胸元についていた付箋を、くしゃっと潰した。


「そろそろ行かなきゃ!」

 勢いよく立ちあがった。

「え?」

「昨日って何かありましたっけ? 酔っぱらって憶えてなくて。早く仕事を片して、今日は早く帰りましょうね」

「おまえ……」

「そうそう。お客さんに電話しなきゃいけないんで、私、先に戻りますね」

 彼が言葉を続ける前に、私は笑顔で休憩室を飛び出した。

(ダメ――その先を言ってはダメ)

 彼は最高の営業マンであり、優秀な教育者で、そして尊敬する先輩。

 そんな人が、こんな恋愛をしてはダメなのだ。


 私はオフィスに戻り、自分の席についた。

 隣の彼の席には、写真立てが置いてある。

 幸せそうな家族写真。彼の隣には笑顔の女性と、彼に目元が似ているかわいらしい女の子と男の子――


(昨日のことは……)


 私は新しい付箋を取り出し、それに「忘れること」と書いて、自分の胸元に貼った。

 そして取引先に電話をするために受話器を取った。

 仕事があってよかった、と思う。

 彼の部下で居続けられるし、泣く暇もない。


 誰も不幸にはならないのだから。

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