第13話 自動販売機に恋

「あたたかいお飲み物はいかがですか?」


 突然の女性の声に、私は立ち止まった。しかし周囲には誰もおらず、飲み物の自動販売機が低いモーター音を出しているだけだった。

(なんだ、自動音声か)

 驚かされたが、悪い気はしなかった。

「今日もお勤め、お疲れ様です。あたたかいお飲み物はいかがですか?」

 女性にやさしい声をかけられることなど、四十路独身男である私の日常生活にはほとんど無い。

 恋人に振られたばかりだった。私がマザコンっぽいからという理由だったが、私の母はすでに他界しており、実に理不尽で不愉快な理由だと思っている。だから機械とはいえ、そのやさしさのこもった声が、私の心に染みこんだのだろう。

 自宅から数分の所にその自動販売機はあった。住宅街にぽつんと設置されているそれは、いつからか人が通りかかるとしゃべるようになった。

(買ってみるか)

 なんとなくそんな気になって、缶コーヒーを買ってみた。出てきた缶コーヒーは当然だがあたたかく、持つ手だけではなく、気持ちまであたたかくなったようにも思えた。

「ありがとうございました」

 所詮は機械の音声なのだ。

 しかし私はこの声に確実に癒された。“彼女”は私のことを心から想って声をかけてくれている。そんな錯覚におちいったのだ。

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 声を聞く度に心があたたかくなる感覚は、恋そのものに思えた。

 それ以来私は、毎朝必ずその自動販売機で、飲み物を購入するようになったのだった。


「つめたいお飲み物はいかがですか?」

 その前の晩は雪が降った。

 だから私は耳を疑った。この寒いのに、まさかつめたい飲み物を勧められるとは。

 おおかた中の回路に異常が発生して、夏場に流れるはずの音声が出てしまったのだろう。

「つめたいお飲み物はいかがですか?」

 二回繰り返した。

 繰り返すことも珍しかったが、それよりも突然私を突き放したように冷たい飲み物を勧めてくる自動販売機……こう言ったら笑われるだろうが、“彼女”に、冷たくあしらわれたようなさびしい心持ちになった。

 それでも習慣で飲み物を購入しようとしたが、よく見るとあたたかい飲み物のスイッチがすべて赤く点灯しており、売り切れを告げていた。

 だから“彼女”は私につめたいものを勧めたのだろう。売り切れの際にはそうするように設定されていたのであろうが、私には“彼女”なりの心遣いに思えた。

 しかしつめたい飲み物も一種類しか残っておらず、よりによって苦手な飲み物であったが、私はそれを購入するしかなかった。


 その日の仕事帰り、チンピラ風の男と肩がぶつかった。

 私は謝罪したが、酔っぱらっていた男は激昂し、ポケットからナイフを取り出して、あっと言う間に私の腹部に突き立てた。

 血が勢いよく噴き出した。私も驚いたが、男も驚いて逃げ出した。その逃げた先には踏切があり、遮断機は下りていたが彼はそれを乗り越えて、そこへ運悪く急行電車が――。

 その一連の大騒ぎを呆然としながら見ていた私は、刺された箇所に痛みがまったく無いことに気がついた。

 男が刺してきた場所にはポケットがあり、朝買った缶ジュースが入ったままだった。

 苦手ゆえに飲まないでいたトマトジュースが。

 私は、“彼女”に救われたのだ。


 だが翌朝通りかかると、そこには“彼女”はおらず、撤去された跡があるだけだった。この時の私の空虚な気持ちは、恋人に去られた時と似てはいたが、異なるもので……しかし、どこかで味わったことがある感覚だった。

 それは――


「あそこの角のところ、自動販売機を置くのやめたらしいな」

 その日自宅に帰ると、同居している父がそう話しかけてきた。

「そうみたいだね」

「なんだかさみしいな。あの声、母さんのに似ていたのに」


 それは数年前、母を亡くした時に感じたものと同じだったのだ。

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