第12話 カミサマ

 その老人が私に話しかけてきたのは、平日のオフィスビルの屋上で、今まさに飛び降りんと私が金網をよじ登ろうとしていたからだろう。

「おまえ、何者だ?」

 そう問われて即答できなかった。

 無理やり答えるのであれば、“先月両親を相次いで亡くし、仕事もリストラされ、再就職先を探そうにもどこも門前払いで、手持ちの金も四桁切った男”だ。

「おまえ、それでいいのか?」

 ぼさぼさの白髪に、色黒で皺だらけの顔をくしゃっと潰したような笑顔を見せたその老人は、本人と同じくらい年季の入ったスーツを着ていた。ホームレスにしては、小綺麗だ。

「それでいいのかって……」

 私は戸惑いながらも金網をよじ登るのをやめ、その老人と対峙した。

「悪いことのまま死んでいいのかっつーことよ!」

 私の自殺を思いとどまらせようとしているのか。

「わかってねーな、若いの」とぼやきながら、老人は語り始めた。

「人生ってのは、いいことと悪いことの繰り返しだ。小さな嫌なことを乗り越えれば、ささやかでもいいことがある。でかい嫌なことがあれば、それなりにいいこともあるってもんよ。わかるな、ああ?」

 老人は私に顔を近づけ、自慢げにそう言った。

「死にたいくらいの嫌なことがあったんなら、この先とびきりいいこともあるかもしんねえじゃないか。どうだい、若いの?」

 なんという自信に満ちた顔。反論する気を失わせる笑顔だ。私はなんだか楽しくなってきてしまった。

「おもしろいな、じいさん。あんたは何者なんだい?」

 私は自分が答えられなかった問いを投げかけた。老人がそれにすんなり答えたら――もう少しその時の不運にあらがってみてもいいかもしれないと思ったのだ。

 しかし彼はあっさりとこう言うではないか。


「おれか? おれはな、カミサマだ」


 そうか、神様か。

 バカバカしくも傑作だ。私はもう大声で笑うしかなかった。私が笑うのを見て、老人もまた笑った。


 人生とはいいことと悪いことの繰り返し――その通りだ。

 あれから一年、私はある老人介護施設で働いている。

 これまで思ってもみなかった業界だが、自分で思っていた以上に向いていたらしい。以前ほどではないものの、生活するには十分すぎるほどは稼げるようになっていた。

 ここで私は、ひとりの女性と出会う。利用者の孫娘で、私たちは出会ったその日に恋に落ちた。

 私たちは、まもなく入籍する。

「こんにちは。おじいちゃん、今日はどう?」

 この日も祖父に面会しにきた彼女が、詰め所に居る私に声を掛けてきた。

「調子いいみたいだよ。ほら、中庭で演説してる」

 施設中庭の緑の芝生で、ひとりの老人が周囲の老人たちに対して何かを語っていた。

 彼女の祖父は、若い頃にひどく苦労をしたらしい。死のうとしたことも山ほどあったという。それを乗り越えて生き抜いてきた。

 今の彼は、その武勇伝を毎日語っている。何度も何度も、同じ話を繰り返す。ぼさぼさの白髪、本人と同じくらい年季の入ったスーツを着て。その表情は幸せそうだ。

「機嫌よさそうね」

「そうだね」

「また自分のこと、“かみさま”だなんて言ってるんでしょ?」

「まあ、間違っていないよな」

 あの時、絶望から私を救ってくれたのは、紛れもない彼。

 それに――


 その時、他のヘルパーがその老人に近づいて声を掛けた。

「 “加美”さーん、そろそろお夕食ですからねー」

 色黒で皺だらけの顔をくしゃっと潰したような笑顔で、カミサマはそのヘルパーに問う。

「おまえ、何者だ?」

 私はたまらずふきだした。

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