第9話 おいしい水

「ここの水、あんましおいしくないですよね」

 彼女の言葉に、私は立ち止まった。

 まさしく今、その水でコーヒーを淹れたばかりだったのだ。

「そ、そう?」

 淹れ直すかどうか瞬時悩んだけれど、構わず出した。カフェオレにしてあるから、たぶんわからないだろう。

「そうですよ。全然おいしくないですよ」

 彼女はそう言いながら、私が置いたカフェオレを凝視していた。見ているだけで、手に取ろうとはしなかった。

(失礼なコね)

 彼女は、最近このマンションに越してきた。たまたま彼女の夫が私の大学時代の後輩であったことや、同じ専業主婦であるということで、すぐに親しげに接してきたのだった。

 まだ付き合いが始まってまもないけれど、彼女は癖のある女だと私は感じていた。

「やっぱりまずいですよ。だから私、あの角のとこのスーパーの、“おいしい水”をもらってくるんです」

 彼女の言うスーパーは、このマンションから歩いてすぐのチェーン店で、飲料水のサービスをやっている。最初に専用のペットボトルを購入すれば、何回汲んでも無料なのだ。

「あれ、重いから大変でしょ」

「大変なんですけどね。そんなにおいしくもないし」

 苦労しながら運んできた水がさほどおいしくないという話は、私には痛快に聞こえた。

「前のマンションの水はおいしかったんですよ。ハーブもよく育ったし。特に引っ越す数ヶ月前からがおいしくて。何か浄水装置でもつけたのかしら」

 聞いてもいないのに、彼女は続けた。この話はもう何度聞いただろう。だったらそのマンションに戻れば?と言いたくなるけれど、ぐっと堪えた。どうせ何を言っても、彼女は勝手にしゃべり続けるから。

 けれど、この日は少し違う方向に話が進んだ。

「ひょっとして……ここのマンションの貯水槽に、何か動物が沈んでいるのかも!」

 カフェオレを飲んでいた私は、むせてしまった。

「なっ、何を言い出すの?」

「絶対そうですよ!」

 一度そう思いこんだら止まらない、彼女はそんなタイプなのだ。

 

 それから数日後、管理人から貯水槽のチェックをすると連絡があった時は、軽いめまいがした。まさか他人を巻き込んでの大騒ぎにするとは思っていなかった。

 結果、貯水槽の中には何も無かった。

 業者のその作業を見に行った彼女は、それがわかった後も「絶対何かあるわよ!」と譲らなかったらしい。しまいには中を無理に覗き込もうとして、止められたとか。

 後輩――彼女の夫があまり家に帰ってこないらしく、だからさみしいのだろうと思って付き合ってはいたが、さすがに距離を置こうと思った。


 とあるマンションの貯水槽から人の死体が出たというニュースが流れてきたのは、それからすぐだった。

 それは当然ウチのマンションではなく、なんと彼女が引っ越してくる前に住んでいたマンションだった。

 亡くなっていたのは住民である老人で、半年ほど前から行方知らずだったらしい。

 夕飯の支度をしながらそのニュースを見ていたら、彼女の部屋の方から悲鳴が聞こえてきた。

 同じニュースを見ていたのだろう。

 それ以来、私は彼女と会っていない。


「ハーブが育つって言ってたっけ。やっぱり栄養が溶け出すのかしら」

 私は飲み残して冷えたコーヒーを、シンクに捨てた。ゴポゴポという音がした。

「でも貯水槽はダメよねぇ」

 捨てたコーヒーはパイプを通って、やがて浄化槽に辿り着く。

 そこには彼が沈んでいる。

 彼女の夫であり、私の後輩である彼が。

 学生時代に風俗をやっていたことを夫にばらすと、私を脅してきた彼が。

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