第7話 やさしいひと
私は高校卒業と同時に、彼に嫁いだ。
夫はいくつもの会社を経営しているお金持ちだった。
自営業者の娘である私を妻にしたのは、彼の気まぐれだと誰もが言っていた。
夫は誰にでもやさしいひとだった。二十歳も年上だった。ひょろりと背が高く、いつも少し頼りない笑顔を携えていた。初めて出会った時も私のような小娘に対しても紳士的な振る舞いで、私はすぐに彼に惹かれたのだった。
「あの嫁の実家は借金を抱えていたから、金目当てで若い娘を差し出したんだ」
彼の親戚たちの心ない中傷に心を痛めたこともあったけれど、夫はいつもかばってくれていた。
実家では忙しい母に代わってお手伝いさんが家事をしており、こちらでも同じように三人のお手伝いさんたちに家事を任せていた。私はただ悠然と豪邸に存在し、仕事から帰る夫を笑顔で迎えればよかった。彼には両親や兄弟がなく、だから少し寂しかったものの、平穏な日々を送っていた。
結婚して一年が過ぎたある日、生活が一変した。
朝起きても、食事の支度ができていなかった。お手伝いさんが誰もいなかったのだ。
「昨日で、みんな辞めてもらったから」
キッチンでおろおろする私の背中に、夫の声が突き刺さった。
「え、それじゃ、朝ご飯は……」
「君は何のためにいるの? 普通の主婦っていうのは、炊事洗濯を請け負うんじゃないのか?」
夫はひどく冷たい目をして、そう言い捨てた。
朝食を作るなんて、実家でもしたことが無かった。
私は使い慣れないキッチンに戸惑いながら、一時間かけてトーストとコーヒーだけの朝食を作った。夫はまずいともおいしいとも言わず、無表情で食べ終えると言った。
「次からはもっと手際よくできるようになるといいね」
豪邸でただお茶をしていればいいだけの日々は終わった。これまでお手伝いさんたちにお願いしていた家事全般を、私ひとりですることになったのだ。
何故こんなことになったのか、見当がつかなかった。同窓生たちはみな学業と自分の生活に忙しく、誰にも相談できなかった。実家は傾いた商売を何とかするのが精一杯で、「今さら帰ってくるな」と突っぱねられた。
辛かった。何よりも、やさしかった夫の豹変が悲しかった。もう愛されていないのだと思った。
家事には思っていたよりも早く慣れた。お手伝いさんたちの仕事を見ていたので、思い出しながら何とか身につけた。
買い物も自分で行き、安売り商品をためらいなく買うことができるようになり、家計簿も付け始めた。
けれど夫は、次はこう言い出した。
「そろそろパートにでも出なさい」
信じられなかった。社長夫人がパートだなんて。抗議したけれど、夫はやはり冷たい声で「少しくらいは自分で稼いでみてごらん」と言うだけだった。
仕事は夫が見つけてきた和服屋だった。私の行っていた高校では、和裁や着付けについても教えていたので、うってつけだった。
初めての仕事に戸惑ったものの、これもまた慣れた。雇い主がいい人だったからか、接客もなんとかこなすことができた。
仕事をしている間は、家事の手を抜いても夫は怒らなかった。
夫は結婚当初から比べると、かなり痩せていた。笑顔は皆無で、その顔からやさしさは消え失せていた。けれど私はパートから正社員にしてもらった仕事が楽しくなってきていて、夫がやさしくないことにも慣れてしまっていた。
それから一年経たないうちに、私は夫が変わった理由を知ることになった。
職場で連絡を受けて病院に駆けつけた時、彼は青白い顔でベッドに横たわり、呼吸を機械に頼っていた。
病室には夫と医師、看護師、そして弁護士がいた。
そこで教えられたのは、夫がガンに冒されていたということだった。出張と偽って手術を受けたものの体中に転移しており、もう手のつけようがなかったらしい。
抗ガン剤の副作用に苦しみながら、夫は私に、“生活の術”を叩き込んでくれていた。
すでに会社は解散し、豪邸も人の手に渡っていた。けれど借金は片付いており、夫は私にこぢんまりとしたマンションだけを遺してくれていた。
私はベッドの上の夫を見た。
彼も目尻を緩ませて私を見ていた。
それは、出会った頃のやさしい夫の顔だった。
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