定時帰宅を推奨します。

玖柳龍華

残業した場合

等間隔に並べられた街灯と、ぽつぽつと明かりをつけている道沿いに並ぶ家の明かり。それらに灯された夜の道を、1人寂しく帰路に就く。

毎日くたくたになるまで働いて、ようやく帰宅。その翌日もまたくたくたになってやっとこさ帰宅する。

心身共に疲れていた。毎日往復した見慣れた道の景色がずっと変わって見えない。さっきも遠くに見えていた我が家の屋根が、まだまだ遠い。


家の横を通りかかると、中から笑い声が聞こえてきた。1人じゃない。温かい家族の笑い声。


「……、」


棒になって駄々をこねていた足が少し速くなった。



我が家にたどり着き、玄関の前に立つ。帰る時間を連絡するといつもは開けていてくれるのだが、今日は作業が長引いて帰宅時間が遅い。ガチャガチャと音がするだけでドアは開かなかった。

肩を落とすが、これで開いていたら不用心だと怒っていたかもしれない。


遅いけれど、まだ寝る時間ではないはずだ。ピンポーン、とインターホンを鳴らす。


『はい』


ザーとノイズのような雑音が小さく聞こえてきてから、聞き慣れた少し堅めの声が聞こえてきた。それに「俺」と短く答える。


『……俺、だからなに?』

「すいません、開けてください」


プツッ、とノイズが切れる。

少し待つと、鍵の開く音がした。

ドアが開き中からミカが現れる。もう風呂には入ったらしく、湿った髪を上でまとめ、ラフな格好をしていた。

もちろんすっぴんである。


「……遅い」


思い切りふて腐れた表情でミカが言う。


「すまん。急遽やらなくちゃならない仕事が入って、できれば明日までって言われて……」


悪いことはしていないのにへこへこと頭を下げながら事実を述べる俺に、ミカは思わずといった感じでふきだした。


「なんで言い訳みたく言うのよ。あ、それとも本当に言い訳だった?」


同じ時間を過ごすようになって、もう何年も経つ。彼女の口調からからかっているのだと分かっているのに、俺は慌てて両手を左右に振っていた。


「ち、違う違う」

「はいはい、分かってるわよ」


とん、と彼女は中途半端に開いていたドアを突き放すようにして開けて、家にあがった。そんな彼女を追うように、俺も中に入る。

中に入って、上下に位置する鍵をしっかりとかける。


全く。帰ってきて早々ひどいめに会った。

彼女らしいといえば彼女らしいが、労ってくれるとか、鞄を預かってくれるとか、亭主関白をするつもりはないがなにかあってもいいんじゃないか、とふと思う。そんな小言をうだうだ考えながら靴を脱ぐ。

そんな俺を「おかえりなさい」という柔らかい声と温かい笑みが包んだ。


なんてつまらないことを考えていたんだろうと、自分を咎める。


「ただいま」


帰ってきたのだということを実感するのは、いつだってこの瞬間だった。


「どうする?お風呂は一応沸かしてあるけど……。あ、ビール飲む?」


今開けてるんだ、とちょっぴり自慢げに。


「ビールもいいけど、腹に何か入れたいかな」

「えっ、食べてないの?」

「最後に食べたのは昼飯」


俺が力なく首を横に振ると、彼女は口に手を当てて固まった。そして、小さく頭を下げながら、手のひらをあわせた両手の先を額に当てる。


「ごめん、残業の前に軽く食べたかと思って片付けちゃった……。今から作るから、ちょっと待ってて!」

「軽いのでいいよ」

「分かった」


焦り気味に彼女はそう答えて、小走りで台所に消えた。そそっかしいその後ろ姿に笑みがこぼれた。

なんとなく首を回し、肩を回す。背中と腰がまるで鉄板を入れてるんじゃないのかと錯覚するぐらいかたい。俺は会社じゃ絶対出来ないような大欠伸をしながら、特にそれを手で隠さずにリビングに向かった。


テレビの方を向いているソファーに鞄を置き、その背もたれに上着を掛ける。

シャツの袖口を整えているボタンを2つとも外し、ネクタイを緩めながら食卓の椅子を引く。どっかりと腰を下ろしてから、第一ボタンをはずした。


何を作ってくれるのか、少し気になってキッチンの方をみる。ミカが冷蔵庫の中をのぞき込みながらなにやら呟いていた。今あるもので何が出来るのかを考えてるのだろう。

しばらく見ていると、彼女は冷蔵庫を少し雑に閉めた。


そして俺の座っているテーブルに今朝の新聞とテレビのリモコンを並べた。そのときの彼女の顔は、困惑と照れくささだった。料理をニガテだと思っている彼女は、人に見られるのを拒む。


俺はとりあえずテレビをつけて、なんとなく新聞を開く。

番組表をみながらチャンネルを回す。だがこれといって目を引く番組はなかった。代わりに冷蔵庫の開け閉めする音、火をつけたりする音、炊飯器をあける音、そういうのがよく耳に入ってくる。

いつもは帰ってくるとすでに準備がしてあって、片付けをする姿しか見ていなかった。だから初めて見るわけでもないのに少し新鮮だった。

ちらりとそちらを見ると、緊張しているのか、少し難しい顔をしてキッチンに立つ彼女がいた。いつか鼻歌交じりに余裕そうな表情で料理をしてほしいものである。


とりあえずテレビを眺めていると、彼女が出来上がったものを持ってきてくれた。

茹でるだけの麺類かと思いきや、違った。

茶漬けだった。

それもただ米に茶をかけただけではなく、彩りにまで気を遣ったような手の込んだもの。


「どうぞ、召し上がれ」


そういって箸入れをテーブルに置いた。箸だけではなくれんげも入れられている。


「ありがとう。いただきます」


凄く食べやすそうだし、色合いに食欲をそそられた。


茶につかった白米の上に梅干しがのっていて、まだ食べていないのに酸っぱい感覚に襲われる。

その梅干しを少し崩しながら、そのかけらとうっすらと茶の味をしみこんだ白米を一緒に口に入れる。さっぱりしていて、けど味が平坦ということはなく、やっぱり梅干しの酸っぱさが絶妙なアクセントだった。


手を止めることなく黙々と食べていると、正面に座っていたミカの視線に気づいた。片手で頬杖をつき、もう片方の手には口の開いたビールの缶。それを円を描くように回しながら、満足げな顔でこちらを見ていた。


「……洗濯物とかは?」

「あるわよー」

「やんなくていいの?」


頬杖をついていた手で、俺を指さす。


「あなたのワイシャツ」


ようは俺待ちということである。


「ごめん、急いで食べる」

「大したものじゃないけど味わってたべてくれる?」


俺はまた手を動かす。見られながらの食事はどこか落ち着かないけれど、彼女がとてもご機嫌そうなので良しとしよう。


今思えば出迎えてくれた時の不機嫌の理由は寂しさなのだろうと思う。

俺と一緒になるために、彼女は故郷を出た。慣れない地で、慣れない職場で。一日を終えて帰宅しても、家で待っているのは暗闇と静寂。

そんな中、家事をこなしながら1人で俺を待ち続けてくれている。


「明日は早く帰ってくるよ」


俺がそう言うと、彼女はビールの缶を回しながら「ふーん」と疑うような目線を向けてきた。


「じゃあ、張り切って作っちゃおっかな」

「……失敗しないでよ?」

「じゃあ作んない」


ぷい、と子供のように唇を尖らせて横を向く彼女に、ごめんごめんとなだめるように謝る。もちろん、本気で拗ねたわけじゃない。


「期待してる」


ちらっと横目で俺をみてから、彼女は顔を再び正面に向ける。


俺達は顔を見合わせて、どちらからともなく笑い合った。

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定時帰宅を推奨します。 玖柳龍華 @ryuka

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