蛇の跡
諸根いつみ
第1話
わたしが十七の頃である。わたしは農家の次男坊だったが、体が弱く、ろくに家の役に立たない。そのため、家族からとうに見放されていた。十四で風邪をこじらせた時、物置小屋に布団を移されてから、ずっとそこで寝起きしていた。
するべきこともなく、居場所もない。わたしは空虚な日々をぼんやりと過ごしていた。
しかし、穴の空いたようなわたしの内部にも、あこがれめいた感情が差すことがあった。
わたしの住んでいた村には、地主様が屋敷を構えていた。大層立派な屋敷で、輝くような白塗りの塀は、わたしを畏怖と好奇心とで縛りつけて離さなかった。
ただふらふらと、白い壁のそばを毎日通ることがわたしの楽しみだった。目的のない散歩道。わたしは腕を伸ばせば触れる距離にある白い塀を眺めながら、決して触れはせず、屋敷の周りに廻った道を歩いた。
思えば、中を覗きたい衝動があったのかもしれない。その時は、わたしの生活からかけ離れた建物を目にするだけで満足だと思っていたが、背徳的な衝動は知らず知らずの内に生まれてしまうものである。
塀の角を曲がったところに、木でできた勝手口があった。その日、木の格子の間からふと中を覗くと、人影があった。
鮮やかな着物の色が目を差す。桃色に踊る金の曲線。美しい着物をまとった人物は、飛び石の上でしゃがみこみ、細い指で玉砂利を弄んでいた。
その人が、わたしの視線を感じたように顔を上げる。白い肌。半開きの目にかかった長い睫毛。綺麗な顔だと思う。しかし、髪が異様に短いのを見て、すぐに若い男の人であることが分かった。いや、若い男というより、まだ少年だ。
わたしはとっさに目を伏せて駈け出した。
心臓がこんなにも高鳴る。混乱と気恥かしさ。
わたしはなにも知らなかった。知らなかったから、ただ戸惑って逃げ帰ったのだった。
女物の鮮やかな着物をまとった少年。少年はわたしがそれまで見て来たどんな人よりも美しかったが、気味の悪い違和感は確かにある。わたしはなにも分からぬもどかしさに苦しんだ。中には居場所のない家の前の道に座り込み、乾いた土に生える草をむしるしかすることを思いつかない。
その日は、とても驚くべきことが起こった。
土をこする音がしたのでその方を見ると、夕日を背負った人が歩いていた。あの白く幼い顔。見間違えようがない。
数日前に見た少年は、少し長すぎる地味な着物を着て、風呂敷包みを片手で持っている。
風呂敷包みは旅行にでも行くように膨らんでいたが、足取りはゆっくりでどこか所在なげだった。
少年は初めて表情を見せた。半開きだった目が開いてわたしを捉えている。
「あなたはこの前の……」
わたしは思わず息を止めていた。柔らかい声。少し離れていてもしっかりと届く。
「どうしたんですか?具合でも悪くて?」
わたしは慌てて首を振った。
「ち、違います。少し、驚いて。地主様の家の方がどうしてこんな所にと……」
少年はわたしの言葉でなにかを思い出したようだった。
「ああ、わたしのことはどうか誰にも言わないで下さい、お願いです」
急に懇願されてわたしはますます戸惑ってしまう。
「ぼくはそんなつもりは……あなたが困ると言うなら絶対に誰にも言いませんから」
わたしが必死に強調すると、少年はほっとした表情になってくれた。
「よかった、あなたが誠実そうな人で。口外されると奥方様に迷惑をかけてしまう」
わたしは彼が言ったことの意味も気になったが、もっと他に訊きたいことがあった。
「あの、あなたの名前はなんですか」
少年はわたしの不躾な質問に笑って答える。
「巳(し)巴(は)と申します。あなたのお名前もお聞きしてよろしいですか?」
「あ、ぼくは彦(さと)見(み)です」
巳巴という名前の響きも、彼の言葉遣いも一風変わっていて、その珍しさが、わたしを強く引き付けたのは間違いない。
「彦見さん。いい響きのお名前ですね」
さん付けで呼ばれたことのなかったわたしは、恥ずかしさで赤くなった。
「ありがとうございます……あの、巳巴、さん、とは、珍しい名前ですね」
「ああ……わたしの名前は、蛇という意味なんですよ」
「蛇?……」
「はい。蛇はお好きですか?」
言葉に詰まったわたしを見て、巳巴は面白がっている風だった。
「すみません、からかって。でも蛇という意味だというのは本当ですよ。誰も蛇など好きではないでしょうが」
その時のわたしには、巳巴が言わんとすることが分からなかったが、巳巴はそんなことなど気にしないように見えた。それから、わたしたちの奇妙な友達関係が始まったのである。
巳巴は時折わたしの元へ姿を見せるようになった。ふらりと現れては、一、二刻ほど話して帰る。わたしは、今日は来るかと、家の前の道端に座って待っていることが多くなった。何日か来ないことも、数日立て続けに来ることもあった。巳巴は、いつも同じ、大きさの合っていない着物を着て、膨らんだ風呂敷包みを持っていた。鮮やかな着物を着ていた時の巳巴は、男でも女でもないようで不気味な違和感を放っていたものだが、地味な着物を着ていると、普通の少年に見える。
わたしは、家族に気付かれぬよう、こっそりとわたしのねぐらである物置小屋に巳巴を入れた。ごちゃごちゃとあふれる古い農具。格子窓から差し込む光がただ一つの清らかさ。わたしたち二人は、黄金色に黒縞入りの、四角く浄化された場所に腰を下ろす。
わたしは、その着物と風呂敷包みについて尋ねた。巳巴は感じよく答える。
「奥方様が用意して下さったものですよ。風呂敷包みに入っているのは少しの衣類と生活用品。奥方様は、わたしがあの屋敷から逃げ出せるように計らって下さるのです」
「えっ、どういうこと?逃げ出さないといけないようなことがあるの?」
「いいえ。でも奥方様はそうしてほしいようです。奥方様はとてもよくして下さるので、そばにいて恩返ししなければなりません」
「逃げ出せるんだけど、いつも帰ってるってこと?」
「まあそうです。本当のところ、少し外出できる自由を奥方様が作って下さっているということですね。気が向いたら、どこかへ行ってしまってもいい」
「でも、奥方様以外の人はどうなの?もしかして、外に出てること、内緒にしてるの?」
金の光に浸った巳巴の顔が、驚きを示す。
「分かってしまったか。そうです。ここにいることは、内緒なんです」
巳巴はにっと笑って見せた。
わたしも巳巴の秘密めかした口調に楽しくなったが、次々と疑問がわいてくる。
「でもどうして?なんで秘密にしなくちゃいけないの?」
「わたしは、男妾なんです」
巳巴はわたしの顔を見て、わたしの無理解を察してくれた。
「わたしは、地主様のお妾さんなんです」
「お妾さん?……」
言葉の意味は分かった。しかし、理解できるには程遠い。
「本当は外に出てはいけないんですけど、旦那様がいない時に奥方様が情けを掛けて下さって。その情けも多くは遠慮して来たんですが、久しぶりに外へ出てみたら、こうして友達ができました。最近、少しは甘えてもいいかと思ってしまうんです」
「そうだよ。自由に外へ出ちゃいけないなんておかしいよ。それに、君が来ないとぼくが困る」
「ありがとう、彦見さん」
笑顔を見せてくれるのがわたしにはとても嬉しかった。多くの笑顔をわたしは見て来なかったし、巳巴のやんわりとした笑みはわたしの心に深く染み渡る魅力があった。
「やっぱり、さん付けはやめようよ。なんか、変だ」
「そうですね。わたしのことも、巳巴って呼んで下さい」
「うん、分かったよ」
わたしは、ひどくくすぐったさを感じた。
わたしたちは、わたしのねぐらだけでなく、村の目立たない場所の木陰などへ行って話した。巳巴は色々なことをわたしに話してくれた。巳巴はそれなりの教育を受けているようで、全く勉強をしたことのなかったわたしにとっては未知の世界を教えてくれた。
「国の中央には王様がいて、旦那様の屋敷とは比べ物にならないほど立派なお城に住んでいるそうですよ」
「王様ってなにをしてるの?」
「この国を治めているんです。色々な決まりを決めて、地方に手下を置いて、民を見張らせるんです。時に外国から民を守ってくれますが、たくさんのことで民を苦しめもする」
「苦しめるって、どんなこと?」
「身分の低い人たちが身分の高い人たちにこき使われるのを許してしまうんです。それが一番いけないことだとわたしは思います。わたしの両親も虐げられなかったなら、わたしは誰かのものとなって生きるようなことには……」
巳巴が自分の家族について語ったのはこの一度だけだった。
「巳巴?……」
「すみません。なんでもありません。――王様はもっと色々なことをしなければならないと思うんです。彦見は学校に行ったこともなければ家の手伝いもできない。これから生きていくには大変な努力が要ると思う」
「そう、だよね」
わたしは、未来につながる道を垣間見たことがない。そのことを、巳巴と出会って広い世界の話を聞く内に、自覚していったのだ。
「すみません。そんな悲しい顔にさせようなんて思わなかった……」
わたしはハッとして顔を上げた。
「大丈夫。必ず自分の道は見つかります。彦見には強さを感じるから。――王様が民の子供全員に教育を受けさせることができたら、もっと生きやすくなる人は増えるでしょう。でもね、教育を受けていなくても、彦見が強く生きることは次の時代の礎になるんですよ。国や時代から見たら、人一人などいてもいなくても変わりはないように思えるかもしれない。でもそれは違います。人がいなければ国も時代もない。その人が生きたということは、絶対に確かで揺るぎないこと。それは、人が死んだ後もなにかを遺して、後の時代に影響を与えていくものだと信じています」
当時のわたしには難しい話だ。しかし、その言葉は深くわたしの中に入って根を下ろした。
わたしは、教育とは巳巴がわたしに話をしてくれるようなものなのかと尋ねた。
巳巴は少し思い出す風をしてから言う。
「そうですね。わたしの先生はもっと厳しかったですが。でも、字が読めるようになれば、本を読むだけでも勉強になります。旦那様は、わたしが本を読むことは許してくれるんですよ」
わたしは字というものを読んでみたくなった。そう言うと、次に来たとき、巳巴は表音文字を書きつけた紙を持って来てくれた。わたしは土を枝切れでひっかいて字を覚えた。新しいことを覚える。巳巴がいない時間も持て余すことがなくなる。それはわたしの喜びとなった。
巳巴は、何日か空けてわたしの元に訪れた。わたしは、久しく会っていなかったような思いがして、ひどく喜んだ。
しかし、巳巴の表情がどことなく硬いことはすぐに気が付いた。巳巴の口調はいつものように穏やかだ。対してわたしの口は重くなる。わたしは、巳巴のことがどうしようもなく好きだったのは確かだが、巳巴が家族と自分について暗い声で漏らしてから、巳巴の心に触れることには慎重になったことも間違いはない。
巳巴は、少し遠くまで歩いてみないかと言う。わたしは同意した。
しかし、巳巴は行きたい場所の当てはないと言うので、わたしが小さい頃、体の調子がよかった時に遊びに行った山にでも行こうということになった。
それほど遠い場所ではない。途中で休まなくてもたどり着くことができたが、わたしは少し疲れた。
山のふもとの、衰弱した細い木の多い林の中。わたしは休もうと言って、幹にもたれて座った。
「大丈夫ですか?」
巳巴も隣に座って、心配そうな声を出す。すんなりした眉をひそめた顔を見て、わたしよりも苦しそうだと思った。
「すみません、わたしが来たいと言ったばかりに無理をさせてしまったようで」
「いいや、このくらい大丈夫だよ。気にしないで。頼むよ」
「でも……」
その時、晴れていた空が急に曇り出した。初めの一滴がわたしの手にこぼれて来るまで、ほんの少ししかかからなかった。
わたしたちは比較的葉の多くついている木の下に移った。急に強く降り出した雨は防ぎきれないが、他になすすべはない。
わたしたちは、身を縮めて天の気まぐれが移り変わるのを待った。
降り始めた時と同じ唐突さで雨は止んだ。
その時、劇的に変わった景色は決して忘れられない。
空から黒い雨雲は去り、金の光が死にかけた林の中へ斜めに手を差し伸べる。光の中には氷を砕いてちりばめたような粒子が踊り、木々は影を従えてその存在を強く浮かび上がらせた。水の匂いと土の匂い。雨音が消えて残した静けさ。光と影と匂いと静寂がわたしを襲い、わたしはそれらを受け止めることで精一杯だった。わたしが見て来た世界の中に突如として差し込まれた絵。その登場の鮮やかさにわたしは意表を突かれ、圧倒された。
「向こうでなにか光ってる」
巳巴の指差した方をわたしは見た。
確かに、地面がわらわらと動く光を放っている。わたしたちはその場所へ小走りに向かった。
一瞬、小川が流れているのだと思った。しかし、それは長い水たまりであった。地面に長い溝ができていて、その中に雨水がたまっているのだった。わずかな風に吹きあおられて水が波立ち、光でできた小魚が刃物の鋭さを見せて泳いでいる。
「綺麗だな」
わたしが思わず口に出すと、巳巴は頷いた。
「そうですね。この溝、蛇が這った跡みたいに見えますね」
「ああ、そうだね。すごく大きな蛇だけど。でも、こんなに綺麗な水たまりができるなら、いてもいいんじゃないかな」
わたしは巳巴を少しでも傷付けたくはなかったのだが、少し白々しくはあったと思った。
巳巴は、少しだけ笑顔を作る。
「わたし、久しぶりに雨に濡れましたよ。林って、こんなにいい匂いがしたんですね」
「そう、そうだよ。ぼくもそう思ったよ。――どのくらい濡れた?」
「少しだけです。彦見こそ、風邪を引いてしまうんじゃないですか?」
「ぼくは大丈夫。巳巴が寒くないかと思って訊いただけだよ。ここをすぐに離れるの、ちょっと惜しいし、巳巴が帰らないといけなくなるまでは帰りたくないんだ」
「そう、ですか」
その時、巳巴は自分の着物の背を軽く引っ張った。濡れて張り付いた布が不快なのだろうと思った時、巳巴が痛そうな表情をしたのでわたしは慌てた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
しかし、巳巴はわたしの顔を見て、はぐらかすことはできないと悟ってくれた。
「ちょっと怪我をしたところが痛んだだけですよ。大したものじゃありません」
「背中にどうやって怪我したの?普通背中になんて……」
「風呂の湯が熱過ぎて少し火傷したんです」
「ならどうして最初から火傷って言わなかったの?ちょっと見せて」
巳巴の硬い表情を思い出す。思えば、悪い予感はしていたのだ。
わたしは、ほとんど無理矢理に巳巴の着物を緩めて背を覗いた。
わたしの兄は、子供の頃に火遊びをして指を火傷したことがある。その火傷を見た時に感じた痛みと怖さが何倍にもなってわたしをおののかせた。
「無茶だよ、この火傷で……」
巳巴は、自分の襟をぐっと握った。
「どうしても今日は屋敷から出たかったんです。息が詰まりそうで……わがままなんですけど」
わたしは言葉が出なかった。
巳巴とわたしは、水たまりのそばに座って沈黙に耐えた。動揺している内に日は傾いていく。いつもなら巳巴が帰ると言い出す時刻になっても、巳巴はなにも言わなかった。
「巳巴、もうすぐ暗くなってしまうよ」
「今日は帰りたくないんです。わたしのことはいいですから、彦見は帰って休んで下さい」
「ぼくなんか帰らなくたって誰も気付かないよ。巳巴をこんな所で一人にできない」
「じゃあ、どこならいいですか?」
わたしは、巳巴の投げやりな態度に怒りを覚えると同時に哀れに思った。あの屋敷はどれほどひどい所なのだろう。もう巳巴を帰したくはなかった。
「ここで一緒にいよう。巳巴もぼくも、帰らなくたっていいよ」
「――ありがとう、彦見」
日が完全に沈むと、枝の間から驚くほどたくさんの星が見えた。巳巴は星座というものについて教えてくれた。とても興味深い話ではあったが、わたしは巳巴に気を取られてあまり頭に入って来ない。
その夜、巳巴はわたしのそばにいたが、本当ならばあの屋敷の中にいたはずなのだ。巳巴は屋敷の中の夜をどんな気持ちで過ごしているのだろう。背のまだ新しい火傷。あれは折檻を受けてできたものであることがわたしには分かった。旦那様とはどういう人だろう。屋敷の中の世界はどれほど巳巴を苦しめているのだろう。奥方様とは、屋敷に留まってまで尽くさなければならないほどの人なのか。
わたしには、屋敷が巳巴を傷付けていることしか分からなかった。自分の無知を自覚した時、わたしは思わぬ自分の感情を発見した。
わたしは嫉妬していたのである。屋敷の中の世界に。わたしにとってはぼんやりとして想像の中でさえ触れることのできない世界。その世界が、隣にいる巳巴を縛り付けているのだと思うと、胸をかきむしりたくなるような思いに駆られた。
巳巴は奥方様を慕っている。わたしの知らない人である奥方様が、巳巴の心の多くを占めていることは明らかだった。旦那様のことをどう思っているかは聞いたことがない。しかし、あの火傷。あれは、旦那様が負わせたものではないのか。きっと巳巴を苦しめているのは旦那様であり、そして、巳巴は旦那様の持ちものなのだ。
瞬間、わたしは苦しみに呑まれた。この事実を初めて知ったような衝撃。自分は妾だと告げられた時から分かっていたはずなのに、気にしてこなかった。しかし、時が経ってからこうものどを締め付けられる。
巳巴が誰かに支配されている。考えたくもない。巳巴を苦しめているはずの旦那様が巳巴に手を触れることができるのかと思うと、怒りと同時に嫉妬がわき上がって押さえることができなかった。
わたしが巳巴に手を触れたいわけではない。旦那様の方がわたしよりも巳巴の近くに位置しているような気がして許せなかったのだ。
わたしは心の中で息を整える。
「巳巴」
「なんですか?」
平気そうにしている巳巴の顔を見ていると、もどかしさが募った。
「その火傷、どう考えても大丈夫じゃないよ」
言っても無駄なことしか思いつかない。
「お屋敷には専属のお医者様がいますから、治してもらえますよ」
「じゃあ、帰るんだね」
「はい。――もう、彦見に会いに来られなくなるかもしれません」
「えっ」
「今日はわたしが外に出ていることが旦那様に知られてしまったでしょう。そうしたらもう出ることはできなくなる可能性が大きいです」
「そう、考えてみればそうだね。巳巴はそれでいいの?」
「わたしが悪いんですから、仕方ありません。今日は帰りたくないと――」
「いいってことか。巳巴はもう外に出られなくて、ぼくと会えなくても」
「よくは、ありません。わたしがなにも考えなかったばかりにこんなことになってしまって、でも、時間が過ぎてしまったからには、今日のことをちゃんと覚えておきたいんです」
「でも、その後は、ずっと屋敷の中から出ることもなくて、ずっとそのままなんでしょ?」
「はい」
「そんなのおかしいよ。人一人が生きるのは国や時代から見ても重要なことなんでしょ?自分の思い通りにならない人生を、狭い屋敷の中で生きたってなんの影響が跡に残るっていうんだよ」
わたしは話した。巳巴に伝わっているかどうかは分からなくても、必死に。
「思い通りになる人生なんてありません。わたしは、あのお屋敷の中で生きてくしかないんです。それでも、わたしの生きた影響はなにかしら残りますよ」
「あそこで生きていくしかないなんて……そんなのない。どうして逃げだせるのにそうしようとしないの?奥方様の恩って、人生を無駄にしてまで返さないといけないほどのものなの?」
巳巴は黙り込んだ。
月光がうつむいた顔を照らして、睫毛と鼻梁の影を白い肌に刻んでいた。
「もう外に出られなくてもいいなんて……もう会えなくてもいいと思ってるなんて、信じたくない」
「わたしの人生が無駄……わたしの、恩返しをしたいという気持ちも、無駄になってしまうんでしょうか」
その時、巳巴は奥方様のことが好きなのだ、とわたしは悟った。空しさが襲う。
「ごめん、言い過ぎたよ」
わたしはなにを言う気力も失ってしまった。
「わたし、今夜のことは本当に一生忘れないでいたいんです」
巳巴の言葉は、失望したわたしにとっては白々しかった。もう会えないというのに、それほど悲しんでもいない様子の巳巴は、わたしが巳巴を想うよりも、わたしのことを重要だと思っていないことがはっきりしてしまった。わたしの内部は軽くなる。わたしは、風にさらわれるごみのように飛んでいけるような気がした。
巳巴は真っ直ぐわたしを見た。
「いつか彦見がわたしのことを忘れてしまうのが怖い……忘れてくれた方が、彦見にとってはいいだろうに」
その時のわたしからは、表面的な慰めの言葉も絞り出せなかった。巳巴の言葉の意味を理解することもわたしにとってさほど重要とは思えなくなってしまう。
「わたしはただの男妾だから、もう掛ける言葉も見当たりません。こんな時になにをしたらいいかなんてわたしには……」
巳巴はわたしの前で初めてため息をついた。
わたしは、わたしと巳巴の間に、それまでなかった重苦しく、妙に生ぬるく湿った空気が流れるのを感じて居心地が悪かった。ため息などつく巳巴が苛立たしい。
その時、巳巴はわたしの両肩を掴んで下を向いた。巳巴の呼吸が浅くなっているのが聞いていて分かる。
「ちょっと、いきなり体がどうかして――」」
「違うんです、違うんです」
巳巴の声はそれまでになく乱れていた。
「わたしは今、強烈に男妾であることを恨んでいます。ずっと陰間みたいなことをしていて、考え方が狭くなっている自分の頭が憎い。わたしは彦見に覚えていて欲しいだけなのに、そのためになにをしたらいいか、わたしは――」
わたしは戸惑う。
巳巴はそろそろとわたしの肩の後ろに腕を回し、わたしを緩く抱いた。衣擦れの音に胸が騒ぐ。わたしの耳のすぐ横に巳巴の顔があって、巳巴の息がよく聞こえた。つっかえているようなたどたどしい呼吸の中、巳巴が口を開いてなにかを言いかけたことが分かる。しかし、言葉はのどの奥に飲み込まれてしまった。わたしの目は、木々の淡い影と暗闇しか捉えず、耳元で緊張した息の音を聞いていると、なんだか恐ろしくなってきた。
うなじに冷たくて柔らかいものが押し当てられた時、怖さを感じるよりも感覚の変化にほっとする。冷たくて柔らかいもの。一拍置いて、それが巳巴の手だと分かった。
巳巴は息をのんでわたしを抱きしめると、身を離した。
「すみません……」
巳巴が泣きそうな顔をしているのが分かった。本当に訳が分からない。
「なにが?どうしたの?」
「なんでもありません。無駄な望みは捨てた方がいいですね」
わたしは平静であるとは言い難く、なにも言えなかった。
その夜が失われると、巳巴は帰って行った。
わたしも自分のねぐらへと戻り、ろくに眠れなかった埋め合わせをしようと泥のように眠った。
それから、わたしは努めて今まで通りに過ごそうとした。もう巳巴に二度と会うことはないだろう。そう考えると、失望したこともかえってよかったと思えた。巳巴のことを忘れるのもたやすく思え、事実その通りになりそうな時間を過ごす。
わたしは手伝いを言いつけられ、久しぶりに縁側に座ってエンドウのさやを剥いていると、兄が近付いて来た。
「彦見、お前、昨日物置にいたか?」
「えっ」
「お前は嘘をつけないな」
兄はわたしより三歳年上で、見た目は立派な大人である。しかし、性格にはどこか子供っぽい所があった。わたしは、兄にひどい仕打ちをされたことはなく、嫌ってもいなかったが、遠くて訳の分からない存在だった。
「昨日の夜、物置にいなかっただろう。俺、さりげなくお前のこと気にかけてるんだぞ。どこ行ってたんだ?」
「それは……」
「まさかお前が女の所に行ってるはずもないしな」
「違うよ。その……」
「でもやっぱりそうなのか?お前なんか相手にするのはどこの女だ?どんな顔だか見に行ってやるよ」
「だから違うって」
勝手に思い込んでくれているようなのは都合がいいかもしれなかったが、俗っぽい臭いの息が煩わしい。
「柚笹の家じゃないよな」
兄が声をひそめて真剣な口調になったのでわたしはびくりとした。
「あの女ならやりかねない。もしお前が柚笹に出入りしてたらただじゃおかないからな」
柚笹とは確か、隣村の農家だったような気がする。兄はなにを熱くなっているのだろう。
「俺とお前の顔はどうしてこうも似ていないんだろうな。――あの女は俺への当てつけのためにお前をたぶらかして……」
わたしは、兄が柚笹の娘に振られでもしたのだろうと思った。
母がいぶかし気に庭から顔をのぞかせると、兄は決まり悪そうに去って行った。
母はわたしの仕事が遅いとなじった。わたしは謝ってひたすら手を動かす。
その日の夕食の時、わたしは雑穀の入った自分の椀の中に蛙の脚を発見した。わたしが黙って兄の方を見ると、兄は待っていたかのように顔をわたしに向けた。
「彦見、どうかしたか?」
「いや、別に」
わたしは箸だけを口に運んで食べているふりをした。ひどい疲れを感じる。
「余計なこと言ってないで早く食べなさい」
母も疲れているようだということが声にはっきりと表れていた。
「彦見、お前はただの穀潰しなんだからもっと感謝して食べるんだ」
いつ見ても皺の刻まれた顔の父が言う。
「はい」
感情の欠落した自分の声にぞっとした。
いつもならもっときついことを言われてもなにも感じなかっただろう。多分もっとひどいことをされても耐えられた。でもこの時は違った。いちいち家族の持つとげがわたしを刺すことを無視できない。兄の苛立ちと両親の疲れがわたしに伝わってきて浸透し、わたしの苛立ちと疲れに置き換わってしまうような気がした。
わたしは夕食の後、いつものように自分のねぐらに閉じこもった。農具の山をできるだけ崩さないようにかきまわし、やっと光るものを見つけ出した。
格子窓から差し込む夕日。きっと今夜も昨夜と同じような月光が降り注ぐだろう。
わたしは、鈍く赤い日の中で鏡を覗いた。大きくて古くかすんだ鏡だった。それでも映ることには変わりない。
初めてまじまじと自分の顔を覗き込んで見た。確かに兄の言った通り、兄弟にしては似ていないかもしれなかった。しかしそんなことはどうでもいい。自分の顔をちゃんと知っているのが大切なことのように思えたのだった。
わたしは、自分の目が冷静になっているかどうか見届けると、鏡を布団のそばの取りやすい所へ仕舞った。
その次の晩、村にとって思わぬ事件が起こった。
日が暮れると村人たちは眠りに付く。しかしわたしは寝付けないでいて、外が騒がしくなっていることに気付いた。
物置小屋の引き戸から顔を出すと、屋敷の向かいに住んでいる家の使用人が道の向こうから走って来るところだった。
使用人はわたしが目を見張って顔を出していることに気付く。
「ちょっと、家族のみなさんを起こして下さい。地主様のお屋敷が火事なんです」
使用人は慌てふためいていた。
「今なんと言いました?」
わたしは物置小屋の外へ飛び出す。
「お屋敷から火が出たんですよう。かなりの壁が燃えちまってます。水を掛けるのに人出がいるんで、働ける人をみんな起こして下さい」
わたしは家の中へ駆け込んだ。
両親と兄に事情を飲み込ませると、わたしは思わず屋敷へと走った。
全力で走ったことなどなかったわたしは、息が切れてすぐにも膝をついてしまいそうだったが、目はしっかりと屋敷を捉えた。
赤い火の手。開け放たれた門から、鮮烈な色が夜を染めているのが見える。障子があったであろう場所から火が赤い舌を屋根へ伸ばしていた。
村人が次々と集まって来る。バケツを渡して行く人々の列が長くなっていくが、あの成長した火を鎮めることができるとは到底思えなかった。
「君!」
近所の農家の男がわたしの腕を掴んだ。
「手伝って!彦見くん、だったね、体が弱いのによく来てくれた!来たからにはほら、あのバケツの列に!」
「わ、分かりました」
わたしは列に加わろうとした。しかし、視界の端に鮮やかな着物の色を捉えた。
「すみません、ちょっと」
わたしは少し足踏みしたが、派手な着物を着た人物の方へ走った。また息が切れて、地面に座り込んでいる人の前で崩れ落ちる。
「巳巴!……」
「彦見……」
巳巴の頬が濡れているのを見て、わたしはぎょっとした。
巳巴は赤と黒の艶やかな着物を着て、初めて目を合わせた時と同じ異様な雰囲気を放っていた。
村人の数人がこちらを見ている。
「地主様が男の人を囲ってるって噂だったけど、本当だったのね」
「あの人が?まだ子供じゃない。でもなんであの子がそばにいるの?」
わたしは余計な話し声を振り払い、勇気を出して巳巴の目を見た。
ついさっきまで泣いていた目。睫毛が濡れている。
「彦見……」
巳巴は傷付いた声を隠そうともしなかった。
「わたしが火を付けたんです。わたしはなんということを……」
「どうして!なんで巳巴が……」
「人の気持ちとは恐ろしいものです。こんなに心が乱れて抑え切れないことは今まで――」
「それが普通なんだよ。つい最近、ぼくも同じようなことを考えてたんだ」
巳巴は目を擦ってから自分の両手を握る。
「わたしが外へ出ていることが知れてしまっても、旦那様は怒りませんでした」
巳巴は話し始めた。
「旦那様が奥方様を責めた様子もなくて……わたしは逆に怖かった。でも、こっそり奥方様がわたしの所へ来て言いました。どうして帰って来たのかと。わたしは、ここで生きるしかないのですと答えました。すると奥方様は逆上なさいました。奥方様はずっと怒っていらしたのです。わたしは、奥方様がわたしを外に出して下さるのは温情だと思っていましたが、とんだ間違いでした。奥方様はただ、わたしを追い出したかっただけなのです」
わたしには話が見えなかったが、巳巴があまりに悲しそうなので哀れに思えた。
「なにかわたしには分からない奥方様のご苦労のはけ口なのだと思っていました。時に奥方様がわたしに辛く当たるのは。熱湯をかぶせられたのは堪えてわたしは一晩逃げ出してしまいましたが、戻ることが奥方様のためになると……まさかわたしを追い出そうとしてしたことだったなんて」
わたしは驚いた。
「奥方様は……奥方様は……わたしに嫉妬していると言ったのです!」
巳巴は恐ろし気に震える。
「旦那様が奥方様よりもわたしを強く愛しているからと……そんなことはあるはずがないのに。奥方様は刃物をわたしに向けました。『とうとう我慢が出来なくなった。少し前まではかわいそうな子だと思っていたけど、今は憎くて仕方がない。目の前から消えないのなら殺してあげる』と言いました。わたしは恐ろしさで立ち上がれませんでした。そこに旦那様が現れて……奥方様を叱咤してわたしの前に立って奥方様と対峙しました。でも奥方様は本当に頭に血が上ってしまっているようで、刃物を下ろすどころか、今にも旦那様に斬りかからんばかりに見えました。わたしは恐ろしくて……いいえ、憎しみの方が強かったのです。わたしに嫉妬しているなどと言って、わたしのことをちっとも見ていない奥方様が、憎かったのです。旦那様のことはどうでもよかった。わたしは激情のあまり、手近にあった蝋燭を倒しました」
「地主様と奥方は逃げたの?」
地主も奥方も巳巴を苦しめている人には違いない。でも、誰であろうと助けなくては。
「分かりません。わたしはすぐに廊下を走って庭から逃げました。でも、外にお二人の姿は見かけませんでした」
「そんな……なにもできないのか」
巳巴はハッとした様子で言った。
「わたしはこんな所にいるべきではなかった。お二人を助けに行かないと。お二人だけでなく、他の家族や使用人の方たちもまだ残っている方がいるかもしれないですし。でないとわたしの罪は永遠に償えない」
立ち上がった巳巴をわたしは慌てて押し留める。
「待って!それじゃ巳巴が死んでしまう。本当にまだ残っている人がいるかどうかも分からないんだし」
「いや、きっといます。お屋敷には大勢の人が住んでいるんですよ」
「無茶だ!火は大分回ってしまっているし、巳巴はこんな動きにくそうな着物着てるし、自分から死にに行くようなものだよ!」
「でもわたしは行きます。罪を背負ってまで生きたくありません」
「待って!」
巳巴はわたしの手を振りほどいて行ってしまった。
「馬鹿野郎!」
わたしは思わず叫んだ。巳巴は振り返らない。
わたしなどでは巳巴の決意を変えることはできないと思い知った。しかし、無駄でも追わずにいていいのか。追うか、消火に参加して少しでも火を食い止めるかで迷い、結局消火に参加した。
バケツを運ぶ列に加わり、渡されたバケツを隣の人へと渡していく。炎の熱気がわずかだが確かに伝わって来ていた。だんだん頭がくらくらして来る単純な労働の中、巳巴の悲壮な顔と赤と黒の着物の像がちらつく。
わたしは怒りを覚えていた。罪を背負ってまで生きたくない。あの巳巴の言葉に。巳巴はわたしに、人が生きることは重要なのだと教えてくれたのではなかったのか。わたしは、勉強も仕事もできない家の穀潰しだ。しかし、巳巴が、人一人が生きることは国や時代という大きなものから見ても重要なことだと言うから、少し慰められた。いや、巳巴の言葉に感動したのだ。
自分の言ったことに、自分だけは当てはまらないというのか。死んでいいなんてことはない。罪などという個人的な理由で、自ら命を捨てに行っていいなんてことはない。
人の命は国と時代、場所と時間にとって大切なものだろう。巳巴は自分のことをただの男妾だと言った。それがどうした、と思う。誰かに支配されながら生きていたって、巳巴は巳巴であり、一人の人間なのだ。
怒りが引いて来ると、今度は恐ろしくなった。もう巳巴は戻って来ないかもしれないと思うと怖い。しかし、無事に戻って来ることを信じるしかなかった。疲れた腕から顔を上げると、未だ火の手が収まりそうにない屋敷が見える。
その時、火が舐めている縁側から、なにかが飛び出して来て地面に転がった。もつれ合った二人の人物。火が付いた赤と黒の着物の裾を、男が猛烈にはたいて消した。
巳巴だった。そして、もう一人の男は地主だ。わたしは地主の顔を知らなかったが、直感的に分かった。
突然、地主が手を振り上げた。少し離れていたわたしにも届く音がして、助け起こそうと駆けて行った村人二人が思わず足を止める。
したたかな平手打ち。巳巴は、身を起こそうとしたところを地面にたたきつけられた。
わたしは息をのむ。
「馬鹿者!逃げた者がどうしてまた火の中へ飛び込んで来る!」
地主の声が響き渡った。地主の服は所々燃え落ち、全身煤にまみれている。
しかし、そんななりでも、背の高い男は堂々としているように見えた。
「申し訳ございません、旦那様……」
巳巴の声はか細かった。巳巴は、地面からゆっくりと身を引き起こす。
「自分の命を顧みぬ奴は屑だ!お前の命はお前だけのものではない!」
「はい……」
巳巴は、地主に抱えられてなんとか立ち上がった。
「あの、旦那様、奥方様は?……」
巳巴は恐る恐る尋ねた。
「死んだ。火事に巻き込まれたのではない。わたしが、刃物を奪って殺したのだ」
巳巴は目を見開いて押し黙った。
地主の言葉を聞いた村人たちがざわめく。
「村のみなさん、聞いて下さい。この火事はわたしの妻のせいです。あの狂い女は、この少年とわたしを刃物で刺して殺そうとしたので、わたしの少年は身を守るため、やむなく蝋燭を倒さざるを得なかったのです」
地主が村人へ説明していたが、わたしにはそんなことはどうでもよかった。
わたしは、巳巴の青ざめた顔を見ていた。巳巴は地主に肩を抱かれて立ってはいたが、手を離されればそのまま崩れ落ちてしまうに違いない。
わたしは耐え切れず、巳巴の元へ行った。
「巳巴……辛いんだね」
「うん、彦見。彦見――」
巳巴は地主の手を外してわたしにすがって来た。
「お前はなんだ?」
地主がわたしを見下ろして言う。
わたしは、地主の存在感に抗おうとしながら答えた。
「巳巴が帰らなかった夜、一緒にいた者です」
わたしは、地主の表情が歪むのを見た。
「彦見、お前なにやってんだよ」
遠くから兄の声がするが構っていられない。
「ほお、お前が一緒に?巳巴がお前を望んだのか?」
「え?望んだとかではなくて――」
「もういいです旦那様。もういいです」
巳巴はわたしの肩を掴んだまま言った。
わたしは巳巴が心配だった。早く医者に診せた方がいい。
「もういいとはなんだ。そもそもあの狂い女が全て悪いんだ。性根の腐りきった女めが巳巴をいじめ、挙句には外に出したりなどするから――」
「もうそこまででいいでしょう」
わたしは地主の言葉を遮った。
「亡くなった人のことをそんなに悪く言わないで下さい。その人を慕っていた人だっているんですよ」
わたしは頬が熱くなっているのを感じた。
本当は奥方をかばうようなことはしたくない。でも言わずにはいれなかった。巳巴の心がとても苦しんでいるのが分かったからだ。
「慕っていた人?あんな女を誰が」
「それはあなたが愛している人で――」
巳巴はわたしの肩に額を押し付けた。わたしは巳巴の肩を押さえて支える。
その時地主の顔を見ると、表情が消えていた。わたしはぞっとする。これが嫉妬の表情なのか。
「医者にちゃんと診せて下さい」
わたしは、巳巴を地主に預けるのはいい気持ちがしなかったがそうする他なく、その場を去った。
わたしがねぐらに逃げ帰った後、屋敷は燃え尽きた。それを知ったのは翌日である。
わたしは、父から屋敷が燃え尽きたことを聞かされると、村はずれの丘に登っていた。
奥方様らしき遺体は、黒焦げになって見つかったそうだ。使用人も何人か犠牲になった。
心は恐怖とやるせなさで重苦しい。人が死ぬ話など聞きたくはない。まして、それが巳巴に罪を負わせ、巳巴を苦しめることになるのかと思うと。
見晴らしのいい丘の上でなら、少しでも気分が晴れるのではないかと思った。そよ風は爽やかだ。遠くに連なる緑の山々や薄い水色の空。そして、隣村の田が見下ろせる。
隣村は、話では知っている近い場所だ。しかし一度も行ったことはない。つくづく自分は狭い世界で生きているのだなと思った。
「彦見」
柔らかい声にわたしは驚いて振り向いた。
巳巴がわたしに微笑んでいる。昨夜と同じ赤と黒の着物を押さえて、丘を登って来た。
「探したよ、彦見」
わたしは驚きながら、隣に座るように示した。
「もう大丈夫なの?昨日はぶたれたり煙を吸い込んだりしたから休んでた方が――」
「昨日の内に医者には掛かりました。大したことないよ」
確かに、平気そうな顔をしていた。しかし、その表情をそのまま受け取るほどわたしは巳巴のことを知らない訳ではなかった。
本当は、特に心が痛んでいるはずだと思うと、なんだか気まずい。
「わたし、使用人の方の実家で休ませて頂いたんです。旦那様も同じで。お屋敷が再建築されるまで、そこで暮らすことになると思う。とてもいい人たちだよ」
「そう。よかったね」
「でも、なにもかも今まで通りに戻るわけじゃない。財産の一部は用心深く庭に埋めてあったからいいようなものの、旦那様は多くのものを失った。今度はもっとこじんまりしたお屋敷にするかもしれないね。旦那様もさすがに堪えたようで、わたしが勝手に出るのを見ても閉じ込める気力さえないようでした」
わたしは耐えかねて口を開く。
「でも、巳巴は新しいお屋敷ができたらまた塀の中なんだろう。地主は君を手放す気はないの?」
「ないと思います。初めからそういう決まりですから」
わたしはその言葉を聞いて、唐突に意を決した。前から生まれていた思いがこの時になってわたしの胸に浮上し、わたしに新しい世界を気付かせたように思えた。
「巳巴、一緒に村を出よう」
巳巴はわずかに目を大きくした。
「嫌なことに耐えなくてもいいだろ。いくら地主が君のことを愛していたって、巳巴は地主のことが嫌いなんだろう?新しい屋敷が出来てしまったら、もう逃げ出す機会もなくなってしまう。今、ここを出て新しく始めるんだ。二人で村を出て、どこかで働いて暮らそう」
高揚して、わたしの息は上がっていた。そんなわたしを見て、巳巴は微笑む。
「わたしが、そのまま新しい屋敷で囲われるつもりだと言いましたか?」
「え?」
「わたしは旦那様に頼むつもりです。亡くなった使用人の方々の実家に、遠くの方はその故郷に行って、謝りたいんです。そして、この村で働いて、自分で作った作物を償いとして家族の方に納めたいんです」
「そんな、そこまで……」
「そんなことで償いができるとは思いませんが、これがわたしの思いつける精一杯です。だから、わたし、旦那様とはもう縁を切ります。許してもらえるかは分かりませんが、頼みます。旦那様は悪人ではありません。わたしは旦那様を愛することはできなくても、むしろ立派な人であるのは知っていますから」
「じゃあ、村からは出ないってこと?……」
「ええ。わたしがしたことを忘れないために、ここにいたいんです。道は険しいでしょうが、ここで農業を学んで、暮らします」
わたしはなにも言えなかった。
わたしが巳巴を想うほど、巳巴にとってわたしは重要でないと悟った時、この友情は冷めてしまったかに思えた。しかし、そうではなかった。火の中からもう帰って来ないかと思った巳巴が帰って来て、心底わたしはほっとしたのだった。
わたしは巳巴を愛おしく思う。仮面をかぶったような表情にもどかしさは感じる。出会った最初の頃より気持ちは真っ直ぐではなくなったかもしれない。しかし、その口調、開き切らない穏やかな目、巳巴がわたしに話しかける言葉の数々は、もうわたしの一部となって引き離すことはできなくなってしまったようだ。巳巴にとってわたしが重要であって欲しい。離れたくない。それなのに、ひたむきに罪を償おうと、自分のやるべきことを自分で決めた巳巴に、わたしは置いていかれたような気がして悲しかった。わたしは自分のやるべきことが分からない。巳巴とわたしの差は決定的に広がって世界はしぼんだ。一緒に村を出るという思い切った壮大な計画をあっさり捨てられ、わたしはもう巳巴に捨てられたかのような気分になっていた。
「彦見」
わたしは悲しみの中でなんとか目を覚ます。
「彦見はこれからどうするの?」
「どうするって、どうもしないよ」
「彦見は村を出たいんでしょう?」
わたしは胸を衝かれる。一人で村を出ることは考えもしなかった。
「そうしたいなら、そうするべきだよ。彦見が出て行ってしまうのは寂しいけど、それが自分の道だと思うのなら」
わたしは考える。居場所のない家。体が弱くて肉体労働ができないわたし。このままここにいても、一生邪魔者のままで腐っていくだけじゃないか。
一方外の世界には、肉体労働をしなくても生きていけるものがきっとあるのではないだろうか。それをわたしが出来たなら。出来るようになれたら、邪魔者ではない別の生き方をしたい。
「そうか……ぼくは村を出たいと思っていたんだ。そう思ってなきゃ、一緒に村を出ようなんて言わなかった。」
「そう」
「ありがとう。巳巴のおかげで、自分の気持ちに気付けたよ」
わたしは悲しみの霧が晴れていくのを感じた。しっかりと巳巴の顔が見える。
少し前は仮面のような表情だと思った。しかし、この時の巳巴は、自然な表情をしているのだと思える。半開きの目は穏やかで、頬には赤味が差している。風が少し冷たくなって来たようだった。
もう巳巴の美しい顔を見ることも、声を聞くこともできなくなるだろう。巳巴の言ったことを思い出す。人が生きることは重要だと。わたしは、わたしの生きたいように生きてみたい。わたしが巳巴を想う心も同じように重要で、乾いたわたしを変えてくれたことは確かではあるが、この想いがわたしと完全に合わさって消えないだろうという確信を抱いた時、巳巴と別れる覚悟をした。辛いことではある。でも悲しくはない。巳巴を見て、感謝と愛しさに胸が満ちているこの時が、長い歳月と同じ価値のあるものだと悟った。それでわたしは満足だった。巳巴から与えられるものはすでに残っていない。
わたしは立ち上がった。わたしを見上げる巳巴と目を合わせると、着物に関わらず、巳巴は巳巴としか見えなくなっている自分に気付く。
「すぐに行ってしまうんだね」
巳巴は言う。
「うん」
「前に言ったこと、覚えてる?彦見には強さを感じるって。信じてくれたら、嬉しいな」
「信じる。信じなきゃ、だめなんだ」
風が強く吹いた。草を波立たせ、葉を巻き上げた。巳巴が風に向かって睫毛を伏せた後、わたしは巳巴に目を戻さなかった。
わたしは故郷を去った。もう戻らない、と自分に呟きながら。
長く過ぎ去る時の始まり。
蛇の跡 諸根いつみ @morone77
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