灼熱は真実を捉えるのか 2

 彼は、日本に来て間もなかった。


 サミュエル=ジョーンズは、低年齢層向けの古く寂れた遊園地内、屋内遊戯施設の休憩スペースの椅子に座り、時差ボケが治るのはいつ頃だろうかと考えていた。


 日本人ではそうそういないであろう、二メートルを超える身長と筋肉質な体は、肌の黒さと相まって、金メダルを量産する陸上選手のようだった。そのせいか、未就学児用の遊戯施設に彼の見た目は似合わなかったが、そこに気を止める人間は誰一人いなかった。


 前提として、この施設の中には、人がいない。


 厳密に言えば、サミュエル=ジョーンズと、一人の少女を除いては。


 サミュエル=ジョーンズは、この屋内遊戯施設を含む滝公園全体に魔術をかけていた。


 平日と言えど親子連れが二、三組は遊びに来ていた。朝には管理人の眉雪の老夫も入口には立っていたし、大して客が来るわけでもないのに汗水たらして頑張る若いバイトの兄ちゃんなんかもいた。それが本来の姿なのだろう。


 だが、この時だけは例外だった。


 魔術とはなんの関係もない人間はこの遊園地に入るどころか近付くことも許されず、既に入っていたとしても、無意識に外へ向かって歩き出し、魔術効果の対象外へと出てしまう。しかしそれを不思議に思う者はなく、極めて自然な流れで魔術の対象範囲から遠ざかって行く。


 そのせいか、ゴーカートも、レトロなメリーゴーラウンドも、稼動する様子は一切見られない。まるで伽藍堂になった遊園地。屋内の『十円で一分間だけ揺れる新幹線型遊具』も、管理するバイトくんが去って子供達が去って、微動だにしない――その筈なのだが。


 ぴろぴろチャラリラぴこぴこ、と。安っぽくて古臭く、しかし娯楽に乏しい国では大ヒットの予感漂う子供騙しなメロディが、眠い目をこするサミュエル=ジョーンズの耳には、心地よく響いてくる。


 一人の少女が、新幹線を模した乗り物に跨って、単調で小さな揺れにその身を預けていた。


「おじさん。せっかくメリーゴーラウンドあるんだしさ、そっちに乗っちゃ駄目かな?」


 軽い調子で、サミュエルに話しかける女の子。小学生、それも低学年くらいだろうか。年相応に透き通った肌には、肩にかかる長さの黒くて艶のある髪が良く似合う。寒さから身を守る為のハイネックのニットに、紺色の制服を羽織って、その上からは紫色のダウンジャケット。上半身は完全防寒といった感じだが、下半身はというと、ショートパンツにニーソックス。日本では子供は風の子と言うらしいが、にしてもミスマッチだった。


「ねえ、おじさん」


 サミュエルの肌の色を見ても、構わずに日本語で話しかける少女。


 対するサミュエルも、


「駄目だと言っただろう。それは十円で済むが、それは二百円も取られるじゃないか」


 流暢と言って差し支えない日本語だった。


「いいじゃん。二百円くらい」


「拗ねても無駄だ。あと、俺とお前とでは二百円の価値が違いすぎる。俺の国のじゃ二百円は大金だ」


 十円で動く新幹線型の乗り物が、尻すぼみに消えて行く電子音と共に、その動きを止めた。


 少女は不満そうな顔を浮かべて、


「じゃあさ、外のメリーゴーラウンドは? あそこは百円だったよ」


「そもそもだ。お前はその十円の乗り物に一体何回乗ったと思っている?」


「五回くらい」


「十五回だ。もう百五十円だぞ。俺の国じゃ満腹どころかデザートにチンチンが食える」


「し、下ネタ……」


「実際にある菓子だ。たとえ日本語では卑猥な言葉でも、そんなのは知ったことではない」


「えっちな言葉って分かってて言ったんだ。それもう犯罪者だからね」


「今更それを言うか? 分かりきっていることだろう」


「……そうだった」


 サミュエルは終始、威圧するような低く重厚な声だった。


 それは殺気とも言えた。はぐれた仔馬に牙を剥く猛獣のように、明確な悪意のようなものをたった一人にぶつける。


 しかし少女は怯まない。度胸があるのか、今更恫喝まがいのことをしても遅い、ということなのか。ただ、落ち着いているように見えるだけか。


 少女は飄々とした態度で十円玉を取り出して、本日十六度目のコイン投入。またも軽い音が鳴り、新幹線型の乗り物はただ揺れるだけの動きをまたも始める。それを見たサミュエルは、時差ボケから大きく欠伸をし、ベンチに寝転がる。そして、今度は柔和な表情を浮かべ、


「日本人は軟弱者が多いと聞いていたが、骨のあるのもいるんだな。この状況でそこまでの振る舞いは、戦地の大人でも出来んぞ」


「ありがと。そこまで褒めてくれるならそろそろ皆の所に帰して欲しいんだけど」


「それは出来ん」


「どうして」


 サミュエル=ジョーンズは、古びた天井の明滅する蛍光灯を見上げながら、落ち着いた声で呟く。


「それが『仕事』だからだ」


 何かに想いを馳せるように。


「人さらいが仕事? それ、最低だと思う」


「いいや。人さらいが仕事になることもあるってだけさ。俺の国は金がない。稼ぐためには、どんな仕事もやるさ」


「大人ってヤダね。いつでもどこでも仕事仕事仕事。それしかないの?」


「ないのさ。それでしか、守れないものもあるからな」


「……犯罪者のセリフじゃないね」


「承知の上さ」


 少女は俯く。十円の乗り物から流れるメロディは、耳には入らない。


「私は、そういうの嫌いだな」


「そうかい。日本では、そう言っても許されるのだろうな」


 少女は、軽く首を振った。サミュエルには、見えていなかった。


「言えないよ。子供は。言いたくたって……ね」


 少女の物憂げな表情も、サミュエルはやはり見ていない。ただ、その声色に引っかかるものはあった。現状を嘆くものとは、また違ったように感じられたからだ。


 サミュエル=ジョーンズは、横目で少女を見ると、


「……いっそのこと、親を脅迫した方が大金を手に入れられそうだな」と、あえて言う。


「そんなにお金が欲しいんだ?」


「金が欲しくない人間なんていない。金は生活の要であり、命を繋ぐ為には金が必要だ」


 でも、と継いだのは、少女の方だった。


「私の親はそこまでしないかもよ」


 物怖じしない少女が、沈みきった声を発した。


 サミュエルは息を吐いた。獣のような悪意も本能も臭わせず、ただ一人の人として。


「それは……どうだろうな」


 小さな声も、確かに、少女に向けていた。


「親なんて、よほどネジの外れた奴じゃなければ同じようなものさ。金持ちだろうが貧乏人だろうが、所詮、親は親」


「何が言いたいの?」


「いや、少し同情しただけさ。哀れな子供と、その親に」


 小さく揺れる乗り物の上、前髪は僅かに額をくすぐり、少女の心もまた、揺れていた。


 小学三年生。まだ八歳の、どこにでもいる普通の女の子は、まだ知ることのなかった、知るべきでなかった世界の『裏』に、『闇』に、触れてしまう。


 胸の名札と、背負ったリュックサックには、こう書いてあった。


 礼瀬あやせ小学校 三年一組


嘉多蔵亜里沙かたくらありさ』と。

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