非日常の足音 3

 日本魔術協会、その中部支部に所属する魔術師は今、その多くが本部に出向いていて、とある理由から連絡が付かない。つまり、今のこの状況に動きだせる人間というのは、ごく少数に限られていた。


 その限られた戦力の一人、ベテランの男性魔術師、神田川英明かんだがわえいめいは、中部支部圏内でのパトロールの途中で、事件発生の一報を受けた。


 まさか中部支部に籍を移して一年目でこのような騒動が起こるとは、と、思いながら、言う程の焦りみたいなものはなかった。長い間『裏』であり『闇』でもある魔術という世界に身を置けば、想像だにしないようなことが起こることなどザラだ。一々焦ってなどいられない。それは経験からくる余裕か、焦って良かったことなどないという戒めか。


 魔術師は速い。人がその躰で辿り着く速さの限界を超える。


 本来ならば、中部支部付近から事件現場までは、電車を使えば一時間以上は間違いなくかかるだろう。車なら倍。自転車ならその倍。徒歩なら、その倍でも足りない。だが、神田川は魔術師だ。普段なら躊躇わずに電車を使っただろう。車を使っただろう。


 だが、今は緊急事態。何よりも早く、現場に辿り着くための手段は何だ。考えるまでもない。


 神田川はその大きな体を魔術で僅かに浮かすと、地面ではなく、地面と自分との間に出来た僅かな隙間を、思いっきり踏み付けた。超小型ロケットの打ち上げでも行われたかのような粉塵が、アスファルトの上で舞いあがる。


 神田川の体は、空中にあった。


 地面から何メートル飛び上がっただろう。人が米粒、とまではいかずとも、かなりの小ささにまで感じる高さで、放物線を描くように神田川は目的地の方角へと進んでいく。


 体が下降し地面に近付けば、足が触れるのはアスファルトでも土でも草木でもなく、空気。


 神田川はそうして、空気を片足で踏み、蹴り、トランポリンでのジャンプのように、しかし異常なまでに安定したバランスで上空へ跳び、重力によって落ちて行く体は、また空気を踏むことで上へと昇って行く。それを何度も繰り返して、車道も、線路も、信号機も、建物も、全てのものを『飛び越える』ことで最短距離を行く。一踏みで数百メートル。大規模走り幅跳びの連続といったようなだった。


 体が進む速さ、つまり速度、という点で、神田川の魔術による移動は法定速度を律儀に守る車を凌駕することは出来るだろう。とは言え、安定したスピードで進む鉄道ともなると、さすがにおくれを取るかも知れない。だが、地形すらも乗り越えるその放物線は、レールの上しか走ることの出来ない鉄道よりも、当然、舗装された道路を走るべしいう制約を課せられた車よりも、間違いなく早く、目的地に辿り着ける筈だ。


 圧倒的に距離のある場所からでも、その豊富な経験と、圧倒的力量で、目的地には比較的近かった筈の新人魔術師以上に早く、神田川の姿は目的地に辿りついた。


 滝公園という名のこの公園は、所謂住宅街の中心にある公園でも、道路沿いに急に現れる噴水広場のようなものでもなく、川と、キャンプ場とが並ぶ、春には花見のスポットとして知られた、遊具などは見当たらない場所だった。とは言っても、それは今神田川が立っているこの自然に囲まれた海抜数メートルの場所に限ったものであって、この滝公園は、広大な土地に、前衛芸術的体験型施設や、運動場、イベントスペースと、田舎特有の無駄に広い土地を出来るだけ使ってやろうという勢いで溢れ、公園と呼ぶには雑然としている。神田川の記憶では幼児向け遊園地もあった筈だ。


 息一つ切らさず、神田川は周囲を見渡した。


 神田川は駐車場の近くにいた。ここから少し上ると、公園の名前にもなっているように、地元では名の知れた大きな滝がある。一応は観光スポットだ。にもかかわらず、人影というものが一切ないように感じられた。近くには保育園も寺もある。なのに、だ。


 一人の女の子が何者かの手によって姿を消したというのに、警察車両の一台もなく、閑散としているとしか言いようのない、不気味な空気感で満ちている。


 その理由は、魔術師である神田川には、すぐに分かった。


「『人払い』……、一般人は全員外へでも出したか」


 この奇妙な静けさは魔術によるものだろう。


 魔術は多種多様。それこそ、通信、移動、ありとあらゆる用途に存在する。


『人払い』というのは、効果対象範囲内への一般人の進入及び接近を阻害し、効果対象範囲内の人物を効果対象範囲外へと出してしまう効果がある。当然、魔術に見識のある人間に、そんな簡単で単純な仕掛けは通用しないが。


「やはり魔術師の仕業か……、このような状況にして、何を考えているのか……」


 ベテラン魔術師の神田川は通信札を手に取り、情報を求めて、支部に駐在する松来に連絡を取ろうとする。


 協会理事の孫で、救出対象である嘉多蔵亜里沙(かたくらありさ)の位置情報は、大まかなものでしかない。


 協会関係者で、特に力のない者(主に子供)には、任意で位置情報を確認できる術具を持たせる、もしくは、そういった魔術をかけている。つまりはGPSなのだが、しかし、GPSほど細かく正確ではない。万が一にも傍受された時、あまりにも正確だと問題があるからだ。


 今分かっているのは、この公園内にいる、ということだけ。もしかしたら、この広い公園内のどのあたりか、までは分かるかも知れないが、探す為には少しでも手がかりは欲しい。


 魔術の源である魔力を通信札に込め、中部支部の松来と通信を行う。


「俺だ、神田川だ」


『到着しましたか』松来から声が返ってくる。


 通信札は発信者の位置情報を着信者に正確に伝える『特徴』がある。何も言わなくとも、神田川が既に目的地であり事件現場でもある公園に辿り着いたことは、着信者の松来には一瞬で分かる。


「到着したはいいが、この公園は広すぎる。せめてもう少し位置情報を絞りきれないか。急いだ方がいいかもしれない。人払いで周囲に人がいない。間違いなく相手は魔術師だ。そして、もしかしたら既に嘉多蔵嬢に危害が加えられている可能性がある」


 松来が息を呑んだことが、神田川に伝わってきた。


「松来」冷静さを促すように、強めの口調で松来の名を呼ぶ神田川。こういった時の落ち着きこそがベテランの証なのだろう。


 松来は通信札の向こうで、一度神田川に謝罪してから、では、と言葉を紡ぐ。


『詳しくは分かりませんが、今の神田川さんの位置から東の方角に反応があり――』


 松来の言葉を、神田川は聞き終えることが出来なかった。


 初老と呼ばれる年齢になって訪れた聴力の低下でも、通信障害的なものでもない。


 ――横槍が入ったのだ。何者かの、強力な一撃によって。


 漂う空気を巻き込んで、辺りに衝撃波と轟音を撒き散らす『魔術』が、神田川と松来の通信を強制的に断ち切るように一面を支配した。地面の砂利が粉々になって粉塵になり、視界の端まで濁った色で覆い尽くす。


 が、ベテラン魔術師の神田川はその程度では怯まない。


「松来、敵だ。他の魔術師も急がせろ」


 と告げるが、これが松来に聞こえたかどうかは神田川には分からない。


 状況は確認できない。


 視界は遮られ、揺さぶられた鼓膜は狂わされ、衝撃と轟音の余韻は気配すらかき消す。


 神田川は、羽織っていたジャケットの内ポケットから一本の針金を取りだした。漫画などでよくピッキングに使われているような、細くて、指の長さ程度のものだ。まだ視界はぼやけているが、神田川は周囲の気配に気を使いつつ、


「襲撃者の数不明。息を潜めてやがるか」


 そう言うと、落としてしまえば見つけ出せそうもない程小さく細い針金を、神田川は宙へと放り投げた。厳密に言えば、宙に投げ、浮かせたまま制止させた。


 そして、まるで見えない力で引っ張られているかのように、自在に操って、神田川は集中力を高めた中で、こう口にする。


『鋼鉄となれ』


 これは、襲撃者に向けた言葉ではない。


 詠唱。


 多くの魔術の発動に必要なピースの一つ。それは言葉であり、記号であり、道しるべであり、枠となる。音として零れるそれらが、魔術という特別な現象をこの世に生み出していく。


 直後、針金は形を変えた。いや、形だけでなく、その質量をも大きく変化させ、金属が拡大していく重厚かつ高い音が鳴りながら、それは上半身を覆い隠す程大きく、握り拳ほどの厚さを持つ盾となっていく。


『〈鋼盾スクトゥム〉』


 神田川の得意とする魔術の一つだった。


 野球のホームベースのような形、よりは長さがあり、尖った先は鋭い。大きな盾に持ち手はなく、直接触れることもない。宙に浮いたような状態で、神田川の魔力がその重さを支えていた。


 盾、と名がつけられていても、それは、単に守る為の鋼ではない。


 何故持ち手がないのか。そこに集約される。


 神田川は、盾の内側を手の甲に乗せるような形をとる。無論、直接皮膚に触れている訳ではなく、僅かな隙間を空けて、とても防御には使えない状態で浮いていた。


 その用途はつまり、盾の面で空気を叩くように、団扇の要領で。


 勢いよく横に、空気の抵抗を力に変える。


 撒き上がる粉塵。石の礫。立ちこめる泥臭さ。神田川の腕と同時に左右に二度三度振られた分厚い盾から生まれた力によって、それらは一気に薙ぎ払われる。魔力を纏って踊る風のようなものが、澄んだ空気へと強制的に戻していく。


 視界は晴れた。


 そして、目線の先に映る人影は、隠すことなく、狂気じみた笑みを見せつけていた。


 なんとも野暮ったい格好だ、と神田川は思った。汚らしいとさえ感じる深緑色のセーターは、いくつかの糸の解れが離れた場所からも見える程だ。


 神田川は確認も必要としていないであろうこの状況で、それでも業務的な手続きの一環として、


「君は、重要参考人、ということでいいか?」


 核心は突かず、あえて迂遠な言い方で確認を取る。野暮ったい格好の、黒髪に黄色いメッシュを入れたその男は、ニタリと嗤った。


 見た所、近くに嘉多蔵亜里沙の姿も気配もない。八歳の女の子を誘拐した犯人と目の前の男が同一人物とは限らないが、少なくとも何らかの関係はあるだろう。魔術師が魔術結社の関係者を誘拐しておいて、人質を放置しているとも思えない。ということは、別の何者かが嘉多蔵亜里沙を捕らえている、と考えるのが自然だろう。


「質問を変えよう。この辺りで子供たちを見かけなかったか?」


 女の子はいなかったか、ではなく、あくまで『何事もない風』を装って問う。もはや明白と言ってもいい罪に、あえて質問を投げて、出方を窺う。


 男は答えなかった。いや、これはある意味で、その男の返答なのかも知れない。


 男は、その手に赤い輝きを生み出し、その光は成形され、切っ先の鋭い、西洋の短剣のようなものを作りだした。


 その直後。


 男はその短剣を握り、神田川へと突進してきたのだ。つまりは。


「二つの質問に肯定した、と勝手に解釈するが、いいかな?」神田川はその手の盾を本来の用途、『守り』に特化し構える。


 黒髪にメッシュの男の刃と、ベテラン魔術師神田川の盾が交錯した。


 衝撃は爆音を伴って一帯に轟く。人と人がぶつかったものとは思えない振動。それが、大地と、近くを流れる川と、木々を波打たせる。響くかん高い金属音は脳を揺さぶり、静かな公園内が戦場になることを現していた。


 盾は軽々と刃を受け止め、刃ははじき返されることなく、盾と拮抗する。


「Be first to start a fight」お世辞にも上手とは言えない発音だ。


「俺は、英語は苦手なんだが、戦いを始めるとでも言ったのか? 日本人は日本語しか喋れんのが大半なんだ。下手くそな英語を話すくらいなら日本語を学んでから海を渡ってこい」


 攻撃の刃と、攻守自在の盾。


 騒動は二人の魔術師の衝突によって、より非日常の色を濃くしていく。


 これは始まり。


 ほんの僅かな、取るに足らない、邂逅。

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