第二章――非日常の足音 1

 医療施設というのは、小さな診療所のような所だった。名前がドイツ語で「あーでるなんちゃら」とやたら長かったことはさておいて、イメージしていた大病院ではなかったのが幸いしてか、さほど時間がかかることもなく掃除を終えられた。


 入院患者が二人しかいなかった為か不知火の服装に腰を抜かす入院患者のご老人もおらず、その点においては良かったのだが、母親と診察に来ていた少女――風邪をひいたのか大きなマスクで口元を隠していた六歳くらいの女の子――が、少し涙目で二人の方を見ていたのが、不知火はなかなかに辛かったようだ。どんだけ君は畏怖の対象なのかねと突っ込んでやろうとした和川だったが、さすがに追い打ちは気が引けて自重をした。


「はああぁぁぁああああああああああぁぁぁ~」なんとも深い、和川のため息だった。


 和川は一人、診療所の近くにある公園のベンチに腰掛けながら休憩をしていた。


 たかが掃除。しかし、小さな診療所とはいえ医療施設。院長は出張の為不在、というかそもそも休みだったようで、細かな指示も仰げず、デリケートな機材がいくつもある中での清掃活動で勝手が分からず、和川は疲労感に襲われていた。ベンチでの癒しのひと時を欲さずにはいられなかったのも仕方がない。


 小さな公園には人がおらず、住宅街の中にあるおかげかとても静かで、リラックスするには最適。ではあるのだが、


「遅い。遅すぎる」


 それは、不知火が、思っていたよりも帰ってくるのが遅いという意味だった。


 金色の長髪をなびかせながら、状況を弁えない格好のままでここまでやってきた不知火との男と男の勝負、平たく言えばジャンケンで勝利した和川は、敗者に缶ジュースのおつかい、つまりパシリをさせていたのだが、コンビニに行ったにしては時間が掛かっていた。


「速力上げりゃあ五分で買ってこられるだろうに、大和の奴なにしてんだか」


 正確には分からないが、あの白熱のジャンケン三本勝負から、もう十数分は経っただろう。


 和川も不知火も魔術師だ。自身に魔術を行使することで速力を上げることも可能で、それはジャンケンに負けたパシリこと不知火は真っ先に行使しなければならない魔術だった。つまり、パシリなのだから急げ、ということだ。どうせ面倒だからとちんたら歩いているに違いない。


 苛立ちを濃くしながらも、程良い疲労感から来る欠伸に安らぎを感じていた。こういう時間が和川は嫌いではない。寒さには弱いし、人を待つのは得意ではないが、何気なく過ごす落ち着いた時間の流れは、ほんの少しの喧噪さえも忘れさせてくれる。


 吐く息の白さが、実は空気中に漂う埃や塵に水蒸気がくっついて水滴として目に見えているからというロマンチックでも何でもない現象だったとしても、目では捉えられない筈の寒さを実感出来るという点で、和川にはどうでもいいことだった。


 意味もなく息を吐き、穏やかで静かなこの瞬間に、和川は平穏を覚えずにはいられない。


 しかし、静謐な空気というのは、必ずしも良いことの象徴ではないのだと先人は悟っていたことを忘れてはいけない。


「おい、和川奈月」背後からの声だった。和川はベンチの背もたれに体重をかけながら、振り返るのではなく仰け反る形で後ろに視線を送ると、その手に飲み物一つ持っていない、いってらっしゃいとおかえりで全く状況の変わらない不知火がそこにはいた。


「何お前、俺の炭酸は? あの甘ったるさが癖になる甘味料たっぷりのブドウ味は!?」


「すまない。買えなかった」


「え? もしかして無銭ショッピング? 一文無しだった?」


「馬鹿を言うな」


 ちょっぴりの怒りを乗せて糾弾する和川に対して、不知火は些か重たい空気を、漏れる白い息に纏わせていた。和川もそれに気付いたのか、荒げた語気を少し弱めて、


「じゃあ……、なんでだよ」


「緊急連絡が一つ、とでも言っておこうか」


「なんだよ、緊急連絡って」


 恐る恐る、不知火に訊ねる。


「そうだね。僕らの責任問題になると言われるとそれはそれで困るけど、決して無関係ではないことだよ」


 不安を煽る言い回しで、肩がすくむ思いの和川。


 不知火の言う緊急事態。それは。



「日本魔術協会理事、嘉多蔵惟親かたくらこれちか氏のお孫さん、嘉多蔵亜里沙かたくらありさちゃんが、先程、何者かにさらわれた」



「……ッ!?」


 喉を潰されたかのように、和川は声を発せなかった。


「分からないかい? つまり、誘拐、もしくは拉致されたってことだよ」


 誘拐。拉致。


 ニュースでしか聞かない単語に、あまりにも非日常に近いワードに、脳が理解することを拒んだように止まる。


「ちょ……、ちょっと待て。待てよ、大和」


 焦る心を無理矢理押し込んで、自身の鼓膜を激しく揺らした発言を整理しながら、


「それって……、もしかして」


 言いながら和川は、早朝のやりとりが脳裏に浮かんだ。


 そう。誘拐されたのは、日本魔術協会の理事の孫。つまり。


「それって、今日、遠足に向かったっていう――」


「ああ。あのお孫さんだ」


 待ってくれ。それはどういうことだ――和川は考えて、結論は。


「俺達が守ることも出来た筈の子……、ってことか」


「……残念ながら、そういうことになる」


 先程までの安らぎが一気に緊迫の静寂へと姿を変え、小さな公園の柔らかな寒さが、鋭い痛さを肌に押しつけてくる。


 和川は、季節から来るものとは明らかに違う震えを、その身で感じた。


 嵐の前の静けさ。


 温もりさえ内包した無音が幻だったかのように、静寂はまるで非日常を運ぶ足音に耳を澄ませと言わんばかりの静けさに変わって、さっきまで聞こえもしなかった微風が、鼓膜に音として明確に入ってくるような研ぎ澄まされたものへと昇華する。


 時間の流れが急変した感覚の中、まるで時差ボケをしているように頭が僅かに混乱した和川は、嫌な汗をタラリと流した。


 後悔にも似た何かが、心を掻き乱すように暴れ回る。


 守ることが出来たかも知れなかった、小さな存在。


 和川は不知火への目線を外し、乾いた口に残っていた極微量の生唾をのむと、それでも決して潤うことのない喉で、


「なあ、大和……、俺達は、どうしたらいい?」


 不知火は表情に出すこともなく、ただ素直に驚いた。


 医療施設の掃除と、件の少女の護衛。その二択で、和川と不知火は前者を取り、後者は、言わば見捨てたようなものだ。


 そもそも、そこまでの危険があるとは思えなかった。まさか本当に、一理事の、なんの力も持たない幼い子供に危険が迫ることなど、限りなく0に近いと踏んでいた。


 それに、そもそも見習いとはいえ魔術師が二人は付いているという話しだったではないか。ならば、仕事としての優先順位は高いとは思えなかったというのが、二人の本心だった。


 だからと言って、だ。


 前者を選択したことによって、全くの偶然にも、限りなく0に近いと思っていたことが起きたとして、それが、もしかしたら自分達の手で阻止出来たかもしれないとしても、今、この状況で、その一言が咄嗟に言えるだろうか。


 どうしたらいい――つまりそれは、


「どうにかしたい、ってことかい、和川奈月」


 不知火が強張った顔でそう言うと、和川はベンチにもたれかかっていた体を起こした。


「大和。たぶんさ、これ、俺達の責任だと思うんだよ。もし、今から頑張ってその子を助けられるなら、俺はすぐにでも飛んでいきたい」


 大勢いる協会理事の、会ったこともない一人の理事の、一切無縁の一人の少女。


 義理は、正直に言えば、全くもってない。しかし。


「それって、無謀か? 無駄か? もう……手遅れか?」


 疑問符はつけていても、不知火には、もう和川の中に決定項しかないことを悟る。


 彼は、和川奈月はそういう人間で、そういう人間だから、不知火オーディン大和は、彼の側にいる。


「はあ」というため息は、諦めを意味していた。「どうせ、止めたって君は行くさ。止める気もないし、一人で行かせる気もこれっぽっちもないけどね」


「大和……」


「亜里沙ちゃんを連れ去ったのが何者か。異常な癖の持ち主か、良からぬ謀の持ち主かは分からないが、どちらにしたって見捨てる理由にはならない。すぐにでも探し出そう。そして助けようじゃないか。僕らが救えたかも知れなかった小さくて無力な存在を」


 不知火オーディン大和も、魔術師で、和川奈月も、魔術師だ。


 表があって、裏がある。表の為の裏でもある。


 一人の少女の為、『表』の世界に生きる『光』の為、二人の『裏』は『闇』に挑むように、静かな世界を、駆けだした。


「絶対に助ける……、絶対」


 白昼の町を駆ける彼らは、人並み外れた速さで、騒動の中心へと向かう。


 あくを赦さぬ、彼らなりのせいぎとして。

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