2話:兎と
昨晩見た天気予報で、真夏日なんて単語を聞いた気がする。
それがいつの話なのかは、まともに聞いていたわけではないから分からないけれど。でももしかしたら今日のことかもしれない、と、真上に昇った太陽を見上げながら思った。
先程から、身体中から吹き出した汗が止まらない。まるで全力疾走した人のように濡れている。しかもそれが全て汗だなんて、気持ち悪いことこの上ない。
それでも勢いに任せて家を出てしまったのだから、引返そうにも引き返せなかった。
目的地である木ノ花神社は、この坂をあと少し登った先にある。坂を登る度太陽に近づいていると考えると、今すぐクーラーの効いた部屋に帰りたいという気がしなくもないけれど。
「あっつ……」
刺すような日光と、シャワーのように降り注ぐ蝉の声、止まらない汗。
……やっぱり、帰りたい。クーラーの効いた自分の部屋で、受験生らしく勉強していた方が良かったかも。
そんな後悔の念を抱き始めた頃、漸く木ノ花神社にたどり着いた。振り返ると、坂は思ったよりも距離がないことに気づく。何だよ情けないな、このくらいの距離で。思わずため息が出た。
「あの……誰かいますか?」
参拝者は見当たらない。そんなに大きな神社でもないから、建物は本殿と両端にポツンと二つある祠だけだ。境内は一度に見渡せる。
「誰かいませんか?」
赤い鳥居を潜り、もう一度呼びかける。本殿の後ろにそびえ立つ大樹の葉が、風に吹かれてカサカサと鳴った。
以前来た時はお祭りだったから人もいたけれど、今日はお祭りではない。緑に囲まれて孤立したようなここは、少し気味が悪かった。
「いませんか……」
何かの、気配がある気がする。しかしそれが何かは分からないし、人間であるかも定かではない。
蝉の声が、倍に増した気がした。強い風が吹いて、木々が再び音を立てる。不気味な雰囲気が漂ってきて、私は思わず一歩後ずさりした。
その時だ。
__本当に来て下さったぞ!
「誰っ!?」
__私たちの目に狂いはありませんでしたね!
どこからとも無く、声が聞こえる。低い声と高い声だ。
これ、もしかして……
「お、おおお化けですか……?」
頼むから呪わないで! こんな真昼間に神社でお化けに呪われるだなんてごめんだ!
涙目になりながら辺りを見回す。どこにも人影は見当たらない。やばい、何かとにかくやばい!
「人間殿、こちらでございます!」
足元から声が聞こえたのは、気のせいだろうか。
「な、な……」
私は思わず、尻餅をついた。
そこには、二羽の真っ白な兎が赤い目をこちらに向けて、ニコニコと笑いかけていたのである。
そう、兎なのに。兎なのに表情があった。
そして
「そんなに怯えないでいただきたい!我々は怪しい妖ではございませぬ!」
「いや喋るだけで充分怪しいよ!」
そんなツッコミは、うるさく鳴き続ける蝉の声にかき消された。
「お願いだから呪わないで……!」
「我々はそんな事はしませぬ!」
「私たちは呪える程の力もありません。頑張っても、洋服を買う度にタグを取るのを忘れる呪いしかかけられませんよ!」
「何その微妙な呪い!ちょっと嫌だ!」
喋る二羽の兎と、その前で尻餅をついた私。
随分と滑稽な状況だ。いや、そんなことは分かっている。
先程まで漂っていた怪しい雰囲気はどこへやら。むしろコミカルで柔らかい雰囲気になっているのは、私がこの所詮動物二羽に流されているからだろうか。
「とにかく来て下さったのですから、我々の要望を聞いていただきたい!」
「要望……?」
兎たちはこくこくと頷いた。可愛いけれど、喋るし二本足で立つし、言ってる事も良く分からないから不気味さが勝るのは仕方ない。
「では、少しお待ち下さい」
そう言って、兎たちは本殿へ向かってぴょんぴょんと跳ねていく。その姿だけを見れば、ただの兎も同然なのに、不思議だ。
─そう、不思議なのだ。私は今、アニメや漫画の世界のような出来事に、ばったり遭遇しているのだ。
実感が湧くと同時に、子供の頃どこかに置いてきたはずの感情がせり上がってくる。得体の知れない未知との出会いだ。貴重な経験である事は間違いない。
「主様、主様ぁ!」
一方兎たちは、本殿の扉に向かって声を張り上げていた。木で作られた格子のような扉だが、中は暗くて何も見えない。子供なら一人入れるくらいの大きさ……って、まさか
「なに、昼寝中なんだけど」
「……ひ、人だ……」
格子の扉が開いて、中から、目を擦りながら欠伸をする少年が出てきたではないか。
まさか、これこそ本当にお化け?
前後撤回。
やっぱり、未知との出会いはかなり恐怖だった。
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