第四章 逆神王(1)

 ガウルは、なぜかレイシアを殺そうとしなかった。

 後ろ手に縛られて、クレインの私室の寝台に寝かされていた。室内には、ガウルの手兵が交代で見張りにやってくる。手を縛る縄は固く、解くことも引きちぎることもできなかった。耐火性も高いようで、火のチャクラを用いて焼き切ることもできない。仮に縄を切れたところで、見張りに立っているのは炎熱騎士団の精兵だ。武器もない状態では、逃げられるとは思えなかった。

 室内に、ガウルの姿はない。叛乱軍の伏兵が城内で暴れ回っているらしく、その対応に追われているようだった。混乱はいまだ収まっておらず、窓からは時折、騒ぎの音や火の手が上がるのがうかがえた。

 城内の撹乱は、そう長くは持たないだろう。せいぜい、二、三時間も持てばいいほうだ。レイシアはやけに冷静に、そう判断していた。

(その間に、クレインが逃げてくれればいいけど……)

 生きてさえいれば、体勢を整えることはできる。シメオンの動きだけは予想できなかったが、最初の邂逅以来、レイシアは彼の姿を一度も見ていなかった。告死鳥ほどの大物にもなると、こちらの状況を逐一監視するほどの余裕もないのかもしれない。もしかすると、叛乱をけしかけた時の脅し文句も、ただのはったりだったのではないかと思い始めていた。

 恐らく、自分はここで死ぬだろう。それも、考えうる以上の悲惨な目に遭って。その予感は、レイシアの中で確信に変わりつつあった。

 だから、せめてクレインには、これ以上危ない目には遭って欲しくなかった。

(あーあ。クレインが成長するところ、もっと見ていたかったな……)

 震える心をぐっと押さえながら、レイシアは無理に笑みを作った。そうしていなければ、心がばらばらに砕けてしまいそうだった。

 いつか、クレインが自信を持って人生を捧げられるものに、出会えるといい。

 今、レイシアに考えられるのはそれだけだった。

 しばらくすると、慌しい様子でガウルが戻ってきた。一緒についてきた部下に指示を出してから、疲れた様子で椅子に座り込む。

「ったく。お前の部下どもは面倒かけてくれるな」

 悪態をついてくるが、レイシアは返答できるほどの冷静さを失っていた。

 ガウルがここに来たということは、城内の混乱もある程度落ち着いてきたということだろう。当然、この部屋にただ休憩に来たわけではないことも、容易に想像がついた。

「無視かよ。いい度胸してやがるぜ」

 レイシアが黙っていると、ガウルは不機嫌そうに舌打ちした。レイシアの側まで歩み寄ると、見張りの兵たちに視線をやる。

「お前ら、外に出てろ」

「そんな! 危険です、ガウル様」

「お前は、俺が女に負ける程度の男だって言いたいのか?」

「そういうわけでは……」

「なら、黙って失せろ」

 ガウルに厳しく命令されると、見張りの十人は部屋を出ていった。

 あまりの恐怖に、全身が震え始めていた。それを押さえることもできず、レイシアは絶望的な思いでガウルを見た。

 獲物を前にした肉食獣のような表情で、ガウルが寝台に近づいてきた。全身を駆け巡る怖気だけで、気を失ってしまいそうだった。

(……嫌だよ、クレイン)

 胸の中で名を呼ぶ度に、呼吸できないほどに胸が切なくなる。レイシアは一度だけかぶりを振って、気持ちを奮い立たせようとした。

 ――もはや、義弟のためにできることは、これしか残っていない。

 だから、やるのだ。どれほど屈辱的な目に遭うとしても、耐え抜かなければならなかった。

 ガウルが覆いかぶさってきて、寝台がぎしりと鳴った。レイシアは恐怖に必死に抗いながら、ガウルを睨んだ。

「いい目だ。屈服させたくなるぜ」

「……やれるもんなら、やってみなさいよ」

「言われなくても」

 ガウルの手が伸びる。それだけで、肌に触れられたようなおぞましさがレイシアを震わせた。

 その反応に嗜虐的な笑みを浮かべながら、ガウルはレイシアの頬に手を伸ばした。

 触れる――そう思った瞬間、レイシアは奥歯に力を込めようとした。同時に、ガウルがさっと身を引いた。寝台から離れ、愕然とした表情のままレイシアから距離を取る。

「お前、まさか」

「なによ」

「とぼけるな」

 ガウルは忌々しげに顔を歪めながら、吐き捨てるように続ける。

「お前、毒を仕込んでやがるな。さっきのとは比べ物にならない、猛毒を」

 勘付かれた。レイシアは舌打ちしたい思いを、なんとか堪えた。

 ガウルが来る前日、レイシアはメリルから猛毒を仕入れていた。飲んだ人間を、ものの数分で死に至らしめる強力な毒だ。こういう状況を想定して、予め奥歯に毒を仕込んでからガウルに戦いを挑んでいた。奥歯に絶妙な角度で力を込めれば、猛毒が口の中に広がる。クレインの策が失敗し、万が一ガウルに襲われるようなことがあれば、自分もろともガウルを殺してやるつもりだった。自分が女であることすら利用した、決死の罠だった。

 だが、まさか奥歯に仕込んだ毒にまで気づかれるとは、予想外だった。

 勘付かれるような態度を取ったつもりはなかった。ほとんど動物的な直感で、ガウルは毒の気配を嗅ぎ分けたようだ。

「姉弟揃って汚い手を使う。それとも、それもあいつの差し金か?」

「クレインは関係ない。あんたに触られるくらいなら、死んだほうがマシだと思っただけよ」

「いい度胸だ。だが、あまり俺を怒らせないことだな」

「どうして? あんたはもう、あたしに手出しできないはずよ」

「ああ。俺はな」

「……どういう意味?」

「元々、お前は俺の好みでもねえしな。奴隷どもにでもくれてやるとしよう」

 ガウルの口から飛び出した言葉に、レイシアは絶句していた。

 遊技どころか、奴隷よりもひどい扱いだった。ほとんど家畜の扱いに近い。傲慢な男だとは思っていたが、ここまで容赦がないとは思わなかった。

 動揺するレイシアを見て、ガウルは満足そうに口元を歪める。

「さっきまでの威勢が消えちまったようだな。怖気づいたのか?」

「……うるさい」

「言葉遣いには気をつけろよ。お前の態度次第じゃ、他の扱いを考えてやっても……」

 レイシアは素早く上体を起こすと、ガウルに向かって唾を吐き捨てた。ガウルは瞬時に火のチャクラをまとい、顔にかかる寸前で唾を蒸発させた。

 ガウルの顔に怒りが滲んだ。濃密な殺気を放射しながら、ゆっくりと円月輪を手にする。

「調子に乗るなよ、クソアマが」

「こっちのセリフよ。誰が、あんたの言いなりになんか」

 円月輪を握る手に力がこもるが、ガウルは感情に任せて、レイシアに斬りかかってはこなかった。自分の手でネーデルスタインを征服することに、まだ未練があるようだった。かと言って、強引に毒を吐き出させようとすれば、噛みつかれるのは目に見えている。

 廊下から、慌ただしい足音が聞こえてきた。扉を叩く音が響くと、ガウルはレイシアから視線を外さないまま、鋭く命じる。

「入れ」

「はっ」

 室内に入った兵は一度だけレイシアに視線を向けた後、ガウルに報告する。

「山頂の賊徒が密かに南下していたようで、現在オービルに向かって進軍しています。その中に、クレイン・ネーデルスタインと思しき男も混ざっているとのことです」

 兵の報告を聞いて、レイシアの目の前が真っ暗になった。

(どうして逃げなかったの、クレイン……)

 十二神将や炎熱騎士団とまともに戦って、勝てるわけがない。そんなことは、自分よりもよくわかっているはずだった。

 それなのに、なぜ。

(あたしのせいなの……?)

 レイシアを助けるために、クレインは軍を率いて戻ってきたのだろうか。無論、それだけではないだろう。オービルにはメリルやヘクターもいる。レーディック商会がなくては、叛乱軍を維持することもままならないはずだ。

 そういうことを考え合わせても、クレインは炎熱騎士団と正面から戦えるような、果敢な性格ではなかった。勝算のない戦いでいたずらに兵の命を脅かすより、自分ひとりの命を危険に晒すことを選んでしまうような性分なのだ。

 そんなクレインが、叛乱軍を巻き込んで炎熱騎士団と戦おうとしている。レイシアには、自暴自棄になってオービルに突撃をかけているとしか思えなかった。

 レイシアが青い顔をするのに気づいた様子もなく、ガウルは牙を剝き出しにした獣のように笑った。

「来たか」

「賊徒の数はおよそ二千以上です。夜陰に紛れ、溝を掘りながら進軍しているため、正確な数は不明ですが」

「溝だと?」

「はい。人がすっぽり埋まってしまう深さの」

「……ネーデルスタインめ、八年前の再現でもするつもりか」

 ガウルの声には、面白がるような響きがあった。

「動けるものを集めておけ。城内の混乱は、オービル軍の雑魚どもにでも対処させろ」

「了解しました」

「……それから。そこの女は、地下牢にでも放り込んでおけ」

「はっ」

 兵は余計なことはなにも聞かずに、レイシアを立たせて部屋を出た。

 腕を掴まれて歩かされながら、必死に考えを巡らせる。

(どうすれば、クレインを助けられるだろう)

 後ろ手に縛られたままでは、兵一人すら出し抜くことはできないだろう。今の自分に、なにかができるとは思えなかった。

 先が見えないほど暗い廊下を歩きながら、レイシアはただ、己の無力さを噛み締めていた。

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