第三章 烈火獣(7)

 夜陰に紛れるようにして、クレインは城壁の外へ抜け出した。

 十人の兵に担がれながら移動していた。ガウルによってかなり数を削られたものの、城内の伏兵は三百近く生き残っていた。義父に義理立てしようとしたのか、三百の兵は全員でクレインを逃がそうとしたので、クレインは数人だけを残して城内を撹乱するように指示した。

 作戦は失敗だった。

 炎熱騎士団が籠城戦を始めたら、叛乱軍の勝ち目は完全になくなる。城内に残った三百が城門を開け放ち、籠城戦が困難になるよう撹乱を続けていれば、少なくとも炎熱騎士団を野戦に引きずり出せるはずだった。

 それでも、軍学上は相当に不利だった。炎熱騎士団五千の内、毒で潰せたのは半数程度だ。ガウルとともに、まだ二千五百もの兵が万全の状態で待ち構えている。二千五百の騎兵相手に、ほとんど同数の歩兵で立ち向かうなど、無謀としか言いようがなかった。まともにぶつかれば、勝てる見込みは皆無だ。

 だが、クレインには逃げるわけにはいなかった。

(このまま逃げられるか……っ!)

 ガウルの元には、まだレイシアが残っている。なんとしてでも炎熱騎士団を出し抜いて、城内に潜入する必要があった。

 無論、すでに殺されている可能性もあったが、クレインはその可能性を排除した。

(あいつは、まだ僕と戦う気だ)

 殺す気になれば、ガウルは自分を殺せたはずだった。それをあえて見逃したのは、こちらを泳がせて叛乱軍と合流させるためだろう。レイシアを殺せば、クレインは叛乱軍とともに姿を消す。そうなれば、わざわざクレインを泳がせた意味もなくなってしまうだろう。秘密裏に殺すにも、城内に潜んだ伏兵たちの目を盗むのは困難なはずだ。

 すべて、根拠のない屁理屈だった。

(僕はただ、レイシアに死んで欲しくないと願ってるだけだ)

 それでは、ダメだった。バルアンや兵たちを動かすだけの論理を考えつかなければ、負けるとわかっている戦に、彼らが付き合ってくれるとは思えなかった。

 山道に入る手前で、クレインを担いでいた十人が足を止めた。気づけば、どこからか濃密な殺意が放射されていた。クレインを地面に下ろすと、十人の兵はクレインを守るように得物を構え、背中を預け合うように円を作る。

 月明かりが翳った。

 そう思った次の瞬間、円の中心に黒い影が立っていた。十人の兵が振り返る前に、影は腕を一振りし、どす黒いチャクラを周囲に撒き散らす。

 黒いチャクラを正面から浴びた兵たちは、突然その場に倒れた。胸が上下しているので、意識を失っただけで死んではいないようだ。

 影は感情の宿らない闇色の瞳で、冷徹にクレインを見下ろしていた。

「大した様だな」

「シメオン・アヴィディア……っ!」

 クレインは殺意を隠そうともせずに、影の名を呼んだ。

 ガウルにできるということは、シメオンにもチャクラで毒を無効化することができるはずだった。シメオンならば、ガウルの実力もクレインの使う毒の種類も把握していただろう。

 つまり――この男は、クレインの作戦が失敗することを知っていたのだ。それをわかった上で口をつぐみ、クレインが失敗するのを黙って見ていた。

 元より、シメオンが味方だとは思っていなかった。だが、それでも湧き上がる怒りを押さえることはできなかった。

「僕を、騙したのか……!」

「お前の策が甘かった。それだけのことだろう」

 シメオンの言葉には容赦がなかったが、それがクレインを冷静にさせた。

 腹は立つが、シメオンの言っていることは正しかった。レイシアを助けられず、自分だけが逃げ延びた。そのことに対する焦りと恥が、クレインから冷静な思考力を失わせていた。

 怒りを押さえるように深呼吸してから、クレインはシメオンを真っ直ぐに見据えた。

「僕を、殺すのか」

「どうかな」

 クレインを見下ろす目には、なんの感情もこもっていなかった。虫を踏み潰す時のような無造作な殺意に、クレインは全身に怖気が走るのを感じた。

 死ぬこと自体を、恐れてはいなかった。恐いのは、レイシアを助けられないまま死んでいくことだった。

「頼む、シメオン。もう一度だけ機会をくれ」

「命乞いか?」

「命なんて、惜しくない。でも……レイシアを助け出すまでは、絶対に死ぬわけにいかないんだ」

「なら、俺に命を貸せ」

「……どういう意味だ」

「炎熱騎士団と真っ向から戦え。烈火獣を殺してみせろ」

 シメオンがなにを言っているのか、一瞬理解できなかった。

 唖然としているクレインに構わず、シメオンは深淵のような黒瞳でのぞき込んでくる。

「お前の策は面白かったが、やり口は気に入らない。毒を用いるのはいいが、烈火獣を殺さずにおいて時を稼ごうなど、虫が良すぎる。王の戦いでもなければ、将の戦いでもない。臆病者の戦いだ」

「なんと言われようと、勝つために必要なら、僕はやる」

「軍と軍の戦いでは、勝てないというのか?」

「勝てるわけがないだろう」

「お前の義父は、炎熱騎士団に勝った」

「それは、そうだけど……」

 自分には、義父のような武芸の腕も、指揮官としての経験もない。同じことができるとは、とても思えなかった。

 逡巡するクレインの喉元を、シメオンが片手で押さえ込んできた。頭に血と空気が巡らず、思考がどんどん鈍っていく。空気を求めて必死に喘ぐが、シメオンはゴミでも見るような目で見下ろすだけだった。

「できないなら、死ね。お前の義姉も、これ以上ないほど汚されてから、死ぬだろう。地獄で、義姉に詫びるんだな」

 濁っていく思考の中で、クレインは理解した。

(つまり、あの時と同じか)

 シメオンと出会った時、殺さない代わりに叛乱を起こせと言われた。シメオンは今もまた、自分とレイシアの命を天秤にかけていた。

 はっきり言って、炎熱騎士団に勝てる見込みは少ない。少ないが、勝つ可能性がないわけではなかった。

 少なくとも、目の前の死神を相手にするよりはマシだと、クレインには思えた。

「……わかった」

「なんだ」

「乗ってやるよ、告死鳥。烈火獣は、僕が殺す」

 シメオンの口元に、一瞬だけ凄絶な笑みが浮かんだように見えた。そうと見えた次の瞬間には、何事もなかったように無表情に戻っていた。

 喉元から手が離れ、クレインは激しく咳き込んだ。締め付けられていた喉が痛み、思わず喉を手で押さえる。

(手が、動く……?)

 いつの間にか、全身の痺れが消えていた。相当量の麻痺毒を摂取していたはずだから、毒が抜け切るにはもっと時間がかかるはずだった。

 驚くクレインを、シメオンは冷ややかに見下ろしていた。

「俺は、チャクラであらゆる毒を生成できる。チャクラで毒を打ち消す方法も、当然熟知している」

「……なるほど。あんたを殺す時は、毒殺だけはやめておくよ」

 軽口を叩きながら、クレインはシメオンの視線に晒されていることに寒気を覚えていた。

 この男はやはり、別格だ。ガウルも相当の豪傑だが、それでも眼前の男とは比べ物にならない。微塵も心を動かさずに、人の命を弄ぶ怪物。義父のような英雄でさえ、この男の前では為す術もなく殺された。

 クレインが立ち上がると、シメオンはすでに姿を消していた。

 倒れていた兵が起き始めていた。眠らされていただけのようで、多少だるそうにしていたが、十人とも身体に異常はないようだった。急に居眠りしたことや、クレインから毒が消えたことを疑問に思ったようだが、素性を明かせないレーディック商会の手の者と会っていたと言ってごまかした。

 北の山道に入ると、バルアン将軍率いる叛乱軍が待っていた。

 二千五百の兵が見事な隊列を組み、息を殺してオービルの状況を見守っていた。うまく事が運べば、クレインが内部からの合図を出すことになっていた。だがそうはならず、ずっと出撃の機をうかがっていたようだ。

 バルアンは、陣の先頭に立っていた。クレインを見て、即座に状況を推察したのだろう。山道の奥のほうにクレインを誘導し、兵たちの視界から隠れると、互いにしか聞こえないほど小さな声で端的に尋ねてくる。

「なにがあった」

「ガウルに、毒が効きませんでした。レイシアはあいつに捕まり、敵の半分は無事なままです」

「そうか」

 それ以上の説明は不要と言わんばかりに、バルアンはしばし瞑目した。再び目を開いた時には、鋭い眼光でクレインを見据えている。

「それで、どうする?」

「……烈火獣を、倒します。炎熱騎士団を城外に引きずり出して、叩き潰す」

「ほう」

 バルアンは驚いたように眉を上げた。

 八年前、バルアン将軍は義父とともに炎熱騎士団と戦い、一度勝利を収めている。その時と状況は違えど、戦う術は十分に心得ているはずだった。

 クレインはすがるような思いで、バルアンに頭を下げた。

「お願いします、バルアン将軍。僕とともに、炎熱騎士団と戦ってください! 勝てるかどうかもわからない戦です。大勢の兵を失うかもしれません。それでも、レイシアを助けるためにはあなた方の力が必要なんです!」

「なに」

「それに、叛乱軍の兵站を維持するためには、レーディック商会の助けが必要なはずです。どのみち、僕らはオービルを取り戻さないと立ち行かなくなります!」

「待て」

「お願いします! この戦が終われば、相応の報奨も約束します。ですから……」

 バルアンの腕が動いた。そう思った時には、クレインは張り倒されて地面に倒れていた。

 なぜ殴られたのかわからず呆然としていると、バルアン将軍が鋭い眼光をしたまま、静かに口を開く。

「もうよせ、クレイン・ネーデルスタイン」

 絶望的な思いで、目の前が真っ暗になった。こちらの思いに気づいたのか、バルアンは深く嘆息を漏らしたようだった。

「勘違いするな。戦は、する。決まっているだろう」

「なら、なぜ……」

「お前が、兵たちを侮辱したからだ」

「そんなつもりは」

「勝てるかどうかもわからない、と言ったな。ここにいる兵たちが、勝てる戦でしか戦えぬ、怯懦な兵だとでも言うのか?」

 バルアンの指摘に、クレインははっとした。

「命など、誰も惜しんではいない。王国を復興するという大義と、ネーデルスタイン将軍の軍であるという誇りを持って、ここに立っている。総大将のお前が、それを信じてやれないでどうする」

「僕は、総大将なんかじゃ」

「お前以外に、誰が総大将だというのだ。ネーデルスタイン家の当主で、王族でもある」

「そんなもの……ただ、運がよかったってだけのことです」

「運だろうと天命だろうと、恩恵を受けたものには義務が生じる。どれほど重く苦しい道であろうと、逃げるべきではない」

 厳しい物言いだったが、不思議と反感は覚えなかった。

 バルアン将軍の家は、古くから武門の家だと聞いたことがある。己の天命に従って武官となり、教国との戦では劣勢の王国軍の中で奮戦し続けた。王国が亡びたあとも、独立権が奪われるまでオービルで軍を指揮し続けた。教国から逃げて、ガレク共和国で仕官するという道もあったのに、彼はそれを選ばなかった。親や血によって定められたものとはいえ、その道を真っ直ぐに進み続けることは、決して楽ではなかっただろう。

 過酷な戦いに耐え抜いて、己の道を歩き続けた男の言葉だった。クレインはバルアンの言葉に胸を打たれ、受け入れていた。

「……確かに、僕は逃げていたのかもしれません」

 ネーデルスタインの名も、王族の血も、どちらもクレインには重荷でしかなかった。

 だが、クレインは確かに両者の恩恵を受けていた。王族の子だからこそ、ネーデルスタイン将軍は自身の養子として迎え入れたのだし、ネーデルスタイン将軍の子だからこそ、武芸や軍学を学ぶ機会が得られた。この上、自身の天命から逃れようとするのは、あまりに恥知らずだろう。

 クレインは静かに深呼吸してから、立ち上がった。バルアン将軍の目を真っ直ぐに見据え、口を開く。

「バルアン・グリューン将軍」

「はい」

「これより、炎熱騎士団と交戦に入る。これは勅命である」

「仰せのままに」

 バルアンが地面に跪いた。それは卑屈な恭順ではなく、敬意を払うに値する主君に礼を尽くしたような仕草だった。将軍の子として、領主として、様々な人と関わってきたが、このような敬意を受けたことは初めてだった。

(当然だ。今までの僕に、敬意を持って接しようなんて人はいない)

 卑屈で、臆病で、身勝手な男だった。生き方を思い定めることすら、自分一人ではできないような男だった。

 その男は今、死んだ。烈火獣でも、告死鳥でもなく、目の前の偉大な男に完膚なきまでに叩き潰された。本気で、そう思い定めることができた。

 クレインは生まれ変わったような晴れやかな気分で、己の天命を受け入れていた。

 跪いたバルアンが顔を上げ、静かな眼差しを向けてくる。その意を汲み取り、クレインは小さくうなずいた。

「いくつか策は考えてあるが、まず将軍の意見を聞きたい。烈火獣はどう動くと見る?」

「烈火獣と炎熱騎士団の戦ぶりについては、レーディック商会から聞き及んでいます。基本線は、八年前の炎熱騎士団戦の再現で対処できるでしょう」

「奴は、僕を二度も逃した。恐らく、相当ネーデルスタインの名に執着している。八年前の戦についても、詳しく調べて対策を考えたはずだ」

「では、別の策で参りますか?」

「本当ならそうしたいところだが、時間も装備も不足している。ここは、奴の策を逆手に取るとしよう」

「はっ」

 バルアンと作戦について打ち合わせたあと、クレインは兵たちの前に戻った。

 状況がわからず待機させられ、陣内には動揺が広がっているようだった。彼らの顔を見渡していても、クレインは不思議と落ち着いた気分でいられた。

(いい兵たちだ。皆、命を惜しまずに戦ってくれる)

 レイシアを守るために、クレインが命を惜しまずにいられるように、彼らも王国復興のために命懸けで戦ってくれる。

 彼らにとって、自分は命を懸けるに値する存在だろうか。その疑問を拭い去ることはできなかったが、クレインが今すべきことは、彼らにそう信じさせてやることだった。

「皆、よく集まってくれた」

 クレインが声を張り上げると、兵たちの顔がわずかに引き締まった。中には、クレインに対して嫌悪を示したものもいた。クレインのせいで奴隷生活を強いられたのだから、その反応も当然だった。

「我々はこれより、炎熱騎士団と交戦する。相手は二千五百の騎兵で、野戦を得意とする精兵たちだ。まともな軍であれば、勝ち目はあるまい」

 兵たちが息を呑む音が聞こえる。陣内に走った緊張をほぐすように、クレインは口元に笑みを浮かべた。

「だが、皆の顔を見て安心した。我々は、勝てる。八年前には、我が義父も彼らを討ち破った。我らの手で、もう一度奴らに敗北の味を教えてやろう」

 兵たちの顔には、クレインと同じ不敵な笑みが浮かんでいた。陣を隠していなければ、快哉を叫びたいところだろう。

 彼らの表情から曇りが消えたのを見てから、クレインは静かにうなずき、続ける。

「クレイン・ネーデルスタイン……いや。ハルディオン王家の嗣子、クレイン・キア・ハルディオンが命ずる! 教国と戦い、祖国を取り戻せ! 皆の命を、大義のために預けてくれ!」

 戟が上がった。それが喊声かんせいの代わりだというように、彼らは何度も戟を掲げ上げる。

 クレインはバルアンに視線をやり、彼がうなずくのを見て取ってから、クレインは長剣を抜き放った。切っ先を天頂に掲げ、オービルに向けて振り下ろすと同時に、吠える。

「進軍」

 夜天に響いた咆哮を、鬨の声が追いかけてくる。

 数多の命を背負いながら、クレインは一心不乱に荒野へと駆け出した。

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