第三章 烈火獣(5)
夜の帳が降り始めていた。
山頂の拠点で、二千五百の兵が隊列を組んでいる。その前で、バルアンは兵たちの顔を静かに見回した。
皆、いい顔をしていた、奴隷の経験が、兵たちに今までとは違う種類の強さを与えたようだった。死を恐れないのは当然だが、勝利のためならば誇りを失うことも恐れなくなっていた。勝ち続けなければ、またあの地獄に落ちることになる。そう、バルアンも言い続けた。以前よりも過酷な調練を課したが、脱落したものは数十名しかいなかった。
清々しい気分で兵たちの顔を見渡しながら、バルアンは眩しいものを見たように目を細めた。
(強くなったな)
元より、名将ネーデルスタインが組織した軍である。弱いわけがない。だが、今の彼らは別の軍のようだった。誇り高く清廉なオービル軍ではなく、戦いに飢えた猛獣の如き気迫を放っている。その癖、統率にも軍律にも乱れはなかった。
今まで率いたどんな軍よりも、強い。自信を持って、バルアンはそう断言できた。
(この者たちと、戦いたい。勝ちたい)
兵たちの顔を見ている内に、今までにない熱が胸に灯っているのを自覚した。
バルアン・グリューンにとって、戦は人生そのものだった。
グリューン家は、古くから武官を輩出し続けている家系だった。建国の時代から、王家の忠臣として働き続けた名家だったが、連綿と時を重ねる内にハルディオン王家は腐敗していったようだ。バルアンの代になると腐敗は著しく、王族は莫大な税を民に課して贅を尽くすようになっていた。頑なに武官の一線を守り続け、賄賂にも手を出さなかったグリューン家は、政争に敗れて衰退の一途を辿っていた。
王家の人間に、忠誠を誓う価値などあるのか。バルアンは日々、それを考え続けた。
考え続けた末に出た結論は、そんなことはどうでもいい、というものだった。
志や大義など、バルアンには価値がなかった。精兵を率い、敵と戦う。バルアンにとって、それこそが真に重要なことだった。王家への忠誠や愛国心もない。ただ武門の意地だけが、バルアンを戦場に駆り立てていた。
忠誠に値する主がいなくとも、燃えるような志がなくとも、武門に生まれた以上、戦う以外に道はない。そう思い定めれば、どんな過酷な戦場も苦ではなくなった。武芸も戦略眼も取り立てて優れてはいなかったが、用兵の術は誰よりも優れていた。過酷な調練で兵を鍛え上げ、敵の動きに臨機応変に対応し、変幻自在に陣形を組み替える。その用兵術を高く評価され、
アルバート・ネーデルスタインと出会ったのは、その頃だった。
飛び抜けて、優れた軍人だった。並外れた戦略眼を持ち、戦を広い視野で捉えていた。それでいて、王家への忠誠も失っていなかった。王国にこれほどの男が残っていたのかと、目が開かされたような思いだった。
ネーデルスタイン将軍は、よく武官の誇りについて語った。大抵の場合、バルアンは彼の思想を煩わしい思いで聞いていた。だが時折、彼の潔癖さが役に立つ時もあった。無自覚に人の心をつかみ、兵を鼓舞して民を味方につける。そういうところも含めて、ネーデルスタインは英雄らしい英雄だった。
ネーデルスタインの元での活躍が認められ、将軍に昇格したこともあったが、バルアンはすぐにネーデルスタインの副官に戻った。赴任された王都では、王族たちの継承権争いが密かに始まっていた。文官たちもいずれかの王子の派閥につき、賄賂をばらまいて武官を私兵のように扱っていた。その腐敗ぶりに呆れ果て、バルアンはすぐにオービルに戻ることを決めた。
(ここにいるものは、皆、王国のために戦おうとしている)
見渡した兵たちの眼には、燃え立つような情熱が灯っていた。長くネーデルスタインの元で戦ってきた彼らには、王国復興は命を懸けるに値するもののようだ。
バルアン自身は、王国の復興になど興味はない。国の質に関して言えば、王国と教国の間に大した差など感じていなかった。バルアンが叛乱軍に身を置いた最大の理由は、「王国の武官である」という意地でしかなかった。
奴隷として生きながらえるよりも、王国の武官として、最後まで戦い抜いて死ぬ。バルアンには、ただそれだけでよかった。死力を尽くして戦うことこそが目的であり、勝利など余禄に過ぎなかった。
(結局のところ、これが自分だ)
王国が亡び、奴隷として家畜のように扱われても、バルアンはそういう自分を捨てられなかった。
兵たちの顔をもう一度見渡してから、バルアンは全員の心に響き渡るように言った。
「いよいよ、
兵たちの顔には、緊張はなかった。ようやく、という喜びの色だけが浮かんでいた。
「この戦には、我々の命だけでなく、王国の未来もかかっている。私は、自分の命を惜しまない。お前たちの命も、惜しまずに酷使するだろう。それでも、共に戦えるか?」
兵たちが戟を掲げて吠えた。それにうなずきを返してから、バルアンは号令の声を張り上げる。
「進発」
兵たちの進軍が始まる。
夜の山道を、二千五百の兵が駆けるような速度で下り始めた。バルアンも足を動かしながら、進む先に待っている男について考えを巡らせた。
(烈火獣。そして、クレイン・ネーデルスタイン)
烈火獣の父親とは、ネーデルスタイン将軍とともに戦ったことがあった。精強な兵を率いた、優れた将だった。凡愚と言われているようだが、息子の烈火獣も十二神将らしい派手さを持った将だった。
クレインには、烈火獣に対抗できるほどの派手さはなかった。ネーデルスタインに近い戦略眼があるが、義父の清廉な眼差しとは違ったものを見ているようだった。勝つために必要なら、誇りを躊躇なくかなぐり捨てるような、どこか不気味な芯の強さがあった。
(ああいう王族もいるのか)
バルアンが知る王族とは、まったく違っていた。人を顎で使いながら、自分は最も安全な場所で安穏を貪る。バルアンの知る王族とは、そういうものだった。
敗戦の汚名を受けると知りながら、自ら軍を率いて出陣し、叛乱軍にわざと負けてみせる。更には、敵に毒を飲ませるために自らの命を危険にさらす。そんな王族を、バルアンは今までに見たことがなかった。
彼の下でなら、少しは面白い戦ができるかもしれない。かつてない期待が胸に広がるのを感じて、バルアンは思わず苦笑を漏らしていた。
夜に覆われた天頂には、星の光が瞬き始めていた。
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