第三章 烈火獣(2)

 明日、ガウルが入城する。

 すべての支度を終えて自室に戻ったあと、クレインは寝台の上で、震える身体を押さえ込んでいた。

 全身を震え上がらせる恐怖を、どうすることもできなかった。もし、失敗したら。その疑念が絶えずクレインに襲いかかり、何度はねのけようとしても、完全に打ち消すことはできなかった。

 できることは、すべてやった。バルアン率いる叛乱軍は元オービル軍の精兵を集め、すでに三千にまで達していた。その内、五百の兵はレーディック商会の手引きで街中に潜伏しており、ガウルの到着に備えている。ヘクターの財力のおかげで、武装も行き渡り、兵糧にも不足はないようだった。騎馬隊五千と戦うのに、三千の歩兵で挑むのはいささか不安はあるが、あとは麻痺毒を少しでも多くの兵に飲ませるために、クレインが身体を張るしかなかった。

 メリルも、偽装でしかない婚儀の準備を懸命に進めてくれた、おかげで、ガウルが式場を見ても、決してクレインに疑惑を持つことはないだろう。レイシアも、十二神将と戦う想定の訓練を続けていた。十二神将と戦うことになるレイシアの重圧は、並大抵のものではなかろう。

 皆が積み上げてきたものが、今、すべてクレインの肩に乗っていた。

 自分がしくじれば、すべてが水泡に帰す。クレインにとっては、死ぬことよりも、皆の期待を裏切ることのほうがよほど恐ろしかった。

「無様だな」

 抑揚のない声が響いても、クレインは今更驚きもしなかった。

 部屋の隅の闇の中に、シメオンが立っていた。飲み込まれそうな闇色の瞳には、微かに面白がるような色が浮かんでいる。

「なにを怯えている。今更じたばたしても、仕方あるまい」

「……うるさいな」

「そんなに、自分に自信がないのか」

「あるわけないだろ、そんなもの」

「おかしな男だな」

 相変わらず抑揚のない声で、シメオンは面白くもなさそうに言った。

「戦の前だ。眠れないなら、女でも抱いたらどうだ」

「教国最強の十二神将のくせに、俗っぽいことを言うんだな」

「俗かどうかなど、知ったことか。俺は、俺のやりたいようにやる。それだけだ」

「羨ましい生き方だね」

「お前も、そうすればいいだろう? 都合のいい女も、ちょうど二人いることだしな」

 レイシアとメリルのことを言っているのだと、クレインはすぐに気づいた。大事な義姉と許嫁をそういう目で見られたことに、クレインは思わずかっと頭に血が上るのを感じた。

「ふざけるな」

「お前こそ本気か。明日、死ぬかもしれんのだぞ」

「だからなんだ」

「死ぬ前に、一度くらい女を抱いておいたほうがいいじゃないか? 後腐れなく死ねるぞ」

「そんな半端な気持ちで、レイシアやメリルに向き合えるわけがないだろ」

「つまらんな」

 どうでもよさそうに、シメオンは言った。

 クレインはしばらくシメオンを睨んでから、深く呼吸して頭を冷やした。

 この間の戦といい、どうもこの男は思った以上にこちらに関心を持っているようだった。大きな節目の前には必ず現れ、クレインにちょっかいを出しにくる。暇なのか、と皮肉の一つも言いたくなったが、クレインは衝動に耐えた。この男に八つ当たりしても、百害あれど一利もない。

「それで、なにか用? まさか、僕らを助けに来たってわけじゃないだろう?」

「当然だ。お前も、俺に期待などしていないだろう」

 シメオンの指摘は正しかった。

 クレインにとって、シメオンは完全に予測不可能な存在だった。この男の本当の望みがなんなのかすら、クレインには想像がつかない。そんな人間をうまく作戦に組み入れて、指示通りに動かせるとはとても思えなかった。敵になりさえしなければいい、という程度にしか意識しないようにしていた。

 シメオンはじっとクレインを見据えたまま、ぽつりと問いを投げる。

「勝てる見込みは、どの程度だと思っている?」

「……三割、かな」

「随分と頼りないな」

「ここまで来たら、あとは僕がガウルを騙しおおせるかだ。ガウルだって、僕がなにかしてくると警戒している。その上で、騙し通さなきゃならない」

「腹を括れ。今更、考えるだけ無駄だ」

「簡単に言ってくれるな」

「失敗しても、死ぬだけだ」

「僕が死ぬだけならいいんだけどね」

 分不相応なほど、多くの命を背負い込んでいる。そう考えることが、クレインにはしばしばあった。自分一人でなんとかできるものなら、そうしたかった。だがクレインひとりでは、ガウルはおろかオービルを解放することすらままならないだろう。バルアンにレーディック商会、そしてレイシアの力を借りなければ、戦うことなどクレインにはできないのだ。

(弱いな、僕は)

 弱いということは、クレインには罪に思えた。平民ならそれでいい。だが、クレインは王族であり、名高いネーデルスタイン将軍の跡を継いだ当主でもあった。例え望んだわけではなくとも、そのような立場にいる人間が弱いなど、あってはならないことのように感じていた。クレイン自身がそう思っているのではなく、常に、周りからそう期待されているような気がしていた。

(これも、まるでイシュヴァリア教の教えみたいだな)

 人は生まれついての宿命に従うべきだという、あの忌まわしい教え。それと似た考えが自分の中に流れていることに、おぞまさしさすら覚えた。

 いつか、家名や血筋などに縛られずに、誰もが自由に生きられる日がきっと来る。もしかしたら、それを一番に望んでいるのは、クレイン自身なのかもしれなかった。

 黙考するクレインを見て、シメオンは口元に薄く笑みを刻んだ。

「……まあ、油断していないのなら、それでいいとしよう」

「なんだ。まさか、僕が心配で来たのか?」

「思い上がるな」

 にべもなく言ってから、シメオンは闇の中へと消えた。また、壁か床をすり抜けて城外へ出たのだろう。相変わらず、人間とは思えない男だった。

 シメオンが消えたほうを見やりながら、クレインは首を傾げた。結局、あの男はなにをしにきたのだろう。まるで、本当に自分の様子を見に来ただけのようだった。告死鳥ほどの男が、自分のようなつまらない人間のことを気にかけるなど、クレインには考えられないことだった。

 しばらく、クレインは寝台の上に座ってぼうっとしていた。いつの間にか、震えは止まっていた。

 なんとなく眠るのが惜しい気分になって、クレインは私室を出た。

 城の廊下から見える街並みは、まだ寝静まってはいなかった。ぽつぽつと灯る明かりが、人々の営みをクレインに感じさせる。それを見ていると、胸が暖かいもので満たされる気がした。

「守らなきゃね、この街を」

 隣に、レイシアが立っていた。寝間着姿で髪もほどいているため、普段の軍袍姿とは違ってわずかに色気が漂っている。それに、クレインは動揺していた。

 レイシアは鼻が触れそうなほど間近に顔を近づけると、こちらをまじまじと見つめてから、安心したように笑いかけてきた。

「よかった。クレインのことだから、明日のことで深刻に考え込んでるかと思ってたけど、平気そうだね」

「……まあね」

 図星を指されたことに気まずさを感じつつも、クレインは何事もない風を装って応じた。

「レイシアこそ、大丈夫? 明日は、僕なんかより大変だと思うけど」

「んー。正直不安だけど、今更考え込んでもしょうがないしね」

「強いな、レイシアは」

「それくらいしか、取り柄がないからね」

 レイシアは自嘲気味に苦笑してから、真剣な目をクレインに向けてきた。

「ねえ。正直なところを聞いてもいい?」

「なに?」

「……この作戦、どのくらいの確率でうまくいくと思う?」

 クレインはほとんど反射的に笑顔を作り、口を動かしていた。

「大丈夫。絶対うまくいくよ」

 言いながら、クレインはどうしようもなく自分を嫌悪した。

 シメオン相手に正直な自分を見せられるのは、あの男には隠し事をしても無駄だと思えるからだった。下手に嘘をつこうとすれば、その場で首を斬り落としかねない冷酷さも持っている。奴の前に立つと常にその想定が頭に浮かぶが、隠し事をしなくてもいいというのは気が楽だった。

 だが、レイシアには弱音を吐くわけにはいかなかった。策に疑念が生じるようなことを仲間に漏らせば、小さな不安が心に亀裂を生み、内側から策が潰れることにもなりかねない。レイシア自身の安全のためにも、策に絶対の信頼を持ってもらうほうがいいに決まっていた。

 自分を信じ、命を預けてくれる相手に、平然と嘘をつく。レイシアを守るためとはいえ、そんなことが平然とできる自分を、クレインはどうしようもなく汚い人間だと感じた。

 レイシアはすっかり安堵したように、にこりと笑った。

「そっか。なら安心だね」

「うん。でも油断はしないでね。失敗した時の段取りも、一応確認しておくこと」

「わかってるって」

 レイシアは苦笑してから、クレインから一歩離れた。

「じゃあ、あたしはそろそろ寝るね。クレインも、あまり夜更かししないようにね」

「わかってるさ」

 笑顔でレイシアを見送ってから、クレインはもう一度、窓の外を見下ろした。

 闇の底に灯った街の明かりが、クレインには果てしなく遠く感じられた。

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