第三章 烈火獣(1)
クレインの上達は目覚ましいほどだった。
朝の稽古で剣を向け合いながら、レイシアは義弟の放つ気迫に呑まれかけているのを自覚した。以前は、長剣を構えていてもどこか稽古に身が入っていなかった。それが叛乱を決めた途端、まるで本当の殺し合いのような気迫を放って、レイシアに向かってくるようになっていた。
曲刀を構えながら、レイシアはクレインから放たれる圧にじっと耐えていた。クレインはなんでもないような顔をして長剣を構えているが、放たれる殺気は本物だった。
クレインがじりじりと間合いを詰めてくる。迎え撃つために、レイシアは構えを崩さないまま、水のチャクラを練った。
大気中に溢れる水の力を気孔から取り込み、自身の力に変えて気孔から放出する。放出されたチャクラは自然と水のように流れ、レイシアはただそれに指向性を与えてやるだけでよかった。身体の周囲を巡らせるように水流を生み出し、流れを加速させていく。
この十数日で、レイシアも技の練度を上げていた。水流結界を展開するまでに、元々は十秒も時をかけていた。それを、今は五秒に短縮している。無論、多少の無理はしていた。水のチャクラを一気に身体に取り込むため、とっさに他のチャクラを練ることができなくなる。そのため、チャクラによる強烈な速攻を打ってくる相手には遅れを取る。だが、相手が武芸でかかってくるのであれば、チャクラを練りながらでも対処できる自信があった。
レイシアにとって最大の急務は、水流の威力や安定度を高めることだった。
シメオンのように、水流を瞬時に蒸発させられるような相手に対しても、通用するようにしなければならない。そのために、水流の流れを更に速くし、蒸発するより前に相手にぶつける気概でチャクラを練っていた。シメオンが水流を蒸発させられるのなら、当然、ガウルにも同じことができるはずだ。火のチャクラを操ることにかけては、帝国でも最高峰に位置する男だ。チャクラは家系による影響が大きいため、アドルスターの血は決して馬鹿にできなかった。
クレインが、跳んだ。風のチャクラをまとったクレインは、以前と比べて速度も鋭さも段違いだった。瞬く間に間合いを詰めたと思うと、水流結界の間隙を狙って斬撃を繰り出してくる。
とはいえ、レイシアは動じていなかった。曲刀で斬撃を受け流し、返す刀でクレインを狙うが、その時にはすでにクレインは間合いの外まで逃げおおせていた。
クレインは、確実に強くなっている。武芸はまだまだだったが、チャクラの質は向上し、気構えなどは自分以上だった。少しでも気を抜いていると、あっという間に一本取られてしまいそうだ。クレインはなにも言わないが、誰かにチャクラの使い方の手ほどきを受けたのではないか、とレイシアは思っていた。
気概については、クレインが実戦を経験したことが大きいだろう。クレインは自らの指揮で、四百近い兵を死なせた。クレインが自ら手を下したわけではないが、実際に戦場に立ち、死ぬとわかっていてオービル軍を突っ込ませて、叛乱軍に叩き潰されるままにした。バルアンと示し合わせていたこととはいえ、自分の手で殺したも同然だ、とクレインは考えているようだった。初陣で四百の兵を死なせた将と、いまだ初陣も果たしていない女剣士とでは、気概に差が出るのも当然なのかもしれない。
あれ以来、クレインは兵の調練には顔を出せなくなった。兵たちは、今や完全にクレインの命令に従わなくなっていた。あまりにひどい敗戦のせいで、マリシクからも軍の指揮権を剥奪されたらしい。それからというもの、クレインは朝に限らず、時間を見つけてはレイシアと訓練に励むようになっていた。
十度ほど打ち合ったところで、クレインの体力が尽きた隙を狙って、レイシアの反撃が通った。なんとか、今日も勝利で終わることができた。
「やっぱり、レイシアには敵わないな」
クレインは隣に座って屈託なく笑っているが、レイシアは胸中穏やかではなかった。
(あたしも、もっと頑張らないと)
義弟の成長を喜ぶ気持ちは、もちろんある。だがそれ以上に、レイシアはクレインに負けてしまうことを恐れていた。
もしクレインに負ければ、自分はクレインにとって、無用な存在になってしまうのではないか。軍学ではクレインやバルアンに遠く及ばないし、ヘクターやメリルのように軍を裏で支えることもできない。自分がクレインの側にいられるのは、誰よりも武芸に秀でているおかげなのだと思えた。
(やっとクレインが戦う気になってくれたのに、こんな気持ちになるなんて思わなかったよ……)
胸の内にわだかまるもやもやした気持ちに、レイシアは思わず嘆息を漏らした。
レイシアはずっと、クレインが叛乱を起こすことを期待していた。クレインが王族だからというわけではなく、父によって磨かれた、優れた軍学の資質があるからでもなかった。
いつからか、クレインには諦め癖のようなものがついていた。自分との稽古にも身を入れず、負けることを悔しがりもせずに受け入れるようになっていた。義父の死後はその傾向が顕著になり、役人に対して媚を売ったり卑屈な演技をした後にも、少しも怒りを見せなくなっていた。
このままでは、クレインは誰とも戦うことなく終わってしまう。そんな心配が真実味を帯びてくるほど、レイシアはクレインの状態を危惧していた。
なにも、教国と真っ向から戦う必要はない。レーディック商会のように、密かに糧道を支えるのでもよかった。ただ、戦う気概を見せて欲しかった。自分の理想を思い描いて、それを邪魔する現実に抗おうとして欲しかった。なにもかもを諦めてしまう前に、自らの手でなにかを変えられるのだと知って欲しかった。
(それが、今じゃあたしのほうが気持ちで負けてるんだもん。我ながら情けないな)
隣に座った義弟を、少しだけ恨みがましい視線で睨む。男の子の成長とは、不思議なものだ。ほんの少し前まで、自分がついていなければ心配で仕方なかったというのに、今では自分のほうがなにもできずに、ただクレインについて回っているだけになっていた。
なんだかむしょうに寂しくなって、レイシアは思わず膝を抱えていた。
「クレイン、最近なんだか調子いいよね」
「そうかな? いまだに、レイシアからは一本も取れないけど」
「お姉ちゃんに勝とうなんて、甘い甘い」
「厳しいな。でも、いつかは絶対勝ってみせるよ」
「クレインがそんなに息巻いているの、ちょっと珍しいね。どうして、そんなに強くなりたいの?」
「そりゃあ……」
クレインは少し躊躇したようだったが、少し頬を赤くして、レイシアから視線を外した。
「……自分の力で、レイシアを守れるようになりたいから」
「うっ……」
照れ臭そうに言われて、レイシアは不覚にも胸がきゅんとしてしまった。だがすぐにかぶりを振り、説教するような態度を取り繕う。
「まっ、まったく! 全然わかってないんだからっ。お、お姉ちゃんを義弟が守ろうなんて、それじゃ順番が逆だよっ」
「そうかな……? お互いに守る、でいい気がするけど」
「それじゃダメなのっ!」
ムキになって怒ると、クレインは釈然としない様子で引き下がった。胸に手を当てて鼓動を押さえてから、レイシアは恨みがましい視線を義弟に向ける。
――クレインの気持ちは、素直に嬉しい。だが、クレインが本気でレイシアを守ろうとすれば、なにをしでかすかわからない気もした。ガウルに絡まれた時も、クレインはとっさにオービルや自分の命を引き換えにして、レイシアだけを助けようとした。あの時も、レイシアはクレインの危うさが心配でならなかった。
もし、クレインが自分よりも強くなったら、決してレイシアを戦場に立たせなくなるだろう。戦場に立てなければ、レイシアはクレインの役に立つこともできない。ネーデルスタインの実子として、兵を鼓舞するくらいのことはさせてくれるかもしれないが、そんな飾り物としてクレインの側に立ちたくはなかった。
じっとしていられなくなり、レイシアは立ち上がった。
「それじゃ、あたしはそろそろ準備に行ってくるね」
「……うん」
クレインがどこか複雑そうな顔をしていたが、レイシアは苦笑して練兵場を出た。
昔から、クレインには人を当てにしないところがあった。物心つく前からずっと一緒にいたが、クレインはいつもどこか遠くを見ているようだった。茫洋としていて、掴みどころがなく、目を離すとどこかへ消えてしまいそうな気がした。
病床の母は、そのことを心配したまま亡くなった。レイシアが、まだ五歳の頃だった。母の死に涙も流さないクレインを見て、初めてレイシアはクレインと喧嘩した。ほとんど一方的にレイシアが殴っている形だったが、それから少しだけクレインは変わった。感情を表に出すことに、少しだけ遠慮をしなくなった。メリルと友人になり、義父から武芸と軍学を仕込まれるようになり、ようやく子どもらしく豊かな感情を見せるようになった。
そうしていつの間にか、クレインを義弟として以上に気にかけるようになっていた。
理由はわからない。人が人を好きになるのに、いつも明確な理由があるわけではないだろう。レイシアも、クレインへの想いに理屈をつけようとは思わなかった。
城を出て繁華街を横切り、しばらく歩くと教会にたどり着いた。
イシュヴァリア教国の国教である、イシュヴァリア教の教会だった。クレインが領主に変わってから、真っ先に建てさせられたものだ。外装には権威的な装飾が散りばめられ、どこか混沌とした禍々しさを感じる。その印象がイシュヴァリア教への不信から来るものだとわかってはいたが、それでも不気味な感覚は拭えなかった。
教会の周囲では、大勢の人が忙しなく動き回っていた。敷地に卓と椅子を並べ、人が通りやすいような配置を調整している。中央には大きな空間が開けられており、楽団が心地よい管弦の音を奏でている。教会の中からは、料理や酒を運び出してくるものもいた。
中でも取り分け忙しなく動き回っていたのは、メリルだった。楽団の音色に真剣な顔で耳を傾けながらも、料理の味を確かめては厳しい顔で二、三言指摘をし、卓の配置についても相談を受けて助言をしている。全体を統括しながら、場の雰囲気をよりよいものにしようと奔走していた。
婚儀は、明後日に迫っていた。
計画通り、ガウルは炎熱騎士団五千を率いて神都から出立していた。レーディック商会の手の者の報告では、明日の昼過ぎにはオービルに到着するらしい。戦地の外を駆けていても、騎馬五千の進軍には微塵の乱れもないようだった。
無論、レイシアにはガウルと婚儀を挙げる気は微塵もなかった。女性を物としか思っていない態度に、自分が世界の中心にいるかのような傲慢さ。例え敵でなかったとしても、決して好きにはなれなかっただろう。なにより、公衆の面前でクレインを辱めたことは絶対に許せなかった。
まかり間違っても、レイシアとガウルが結婚することなどありえない。だが、ガウルを呼んだ名目が婚儀である以上、その振りだけでも見せなければならなかった。
準備のために忙しなく働く人々をぼんやりと眺めていると、メリルがレイシアに気づいて駆け寄ってきた。
「あら、レイシアさん。来ていたのなら、呼んでくださればよかったのに」
「ごめん。なんか忙しそうだったから」
「主役のあなたが、なにを遠慮しているんですか」
メリルはくすくすと笑ってから、レイシアの手を引いて教会の中へ進んでいった。
振りだとわかっていても、メリルは真剣に婚儀の準備を進めていた。明日の夜まで、ガウルたちに少しでも不信感を抱かせてはならない。メリルの献身は、クレインの策の地盤を支えることに繋がっていた。彼女も、この場所こそが自分の戦場と思い定めているのだろう。レイシアにはなぜか、そんな彼女が羨ましく思えた。
メリルに連れられたのは、教会の奥の一室だった。すでに花嫁用の控室として模様替えがされており、化粧棚や鏡などが置かれている。
そして、部屋の中央には花嫁用の衣装があった。滑らかな白絹で作られた、本物の花嫁衣装だった。大胆に肩を出した衣装で、腰から足元にかけて布地がふわりと広がっていく。憧れていたきらびやかな衣装を前にして、レイシアは我知らず目を輝かせていた。
レイシアの表情を見て、メリルが満足げに腕組みしていた。
「せっかく花嫁衣装を用意できるんですから、少しばかり本気を出させてもらいました。お気に召したでしょうか?」
「……なにやってんのよ。ただの振りなのに」
「まあまあ、いいじゃないですか。これから、しばらくはこんな機会もないでしょうし」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶる友人に、レイシアは思わず笑みをこぼしていた。
「さあ、レイシアさん。さっそく着てみてください」
「あ、あたしっ!? でも、あたしじゃこういうの似合わないし……メリルが着ればいいじゃん!」
「なにを言ってるんですか。これは、あなたのために準備したものなんですよ? わたくしでは寸法が合いません」
「そう言われると、なんかムカつく……」
「仕方ありません。事実ですから」
誇らしげに張られたメリルの大きな胸を、レイシアは思わず恨みがましい目で睨んだ。
しばらく花嫁衣装と向き合ってから、レイシアは意を決して着ていた軍袍を脱いだ。下着だけになってから、花嫁衣装を身にまとって鏡の前に立つ。
見たこともない自分が、そこにいた。金色の髪と碧色の瞳が純白の衣装に引き立てられ、まるで良家の姫君のようにさえ見えた。武芸ばかりに勤しんで、生傷が絶えない肌が急に恥ずかしくなる。だが恥ずかしさで頬を赤くしながらも、レイシアは鏡から目を離せずに、胸に渦巻く熱い感情に身を委ねていた。
(クレインにも、見せたいな)
真っ先に浮かんだ顔は、やはり義弟のものだった。
「……ねえ、メリル」
「なんですか?」
「メリルはさ。どうしてクレインのこと、好きになったの」
「また、唐突ですね」
鏡の向こうで、メリルが苦笑していた。
「そういうレイシアさんは、どうなんです?」
「……わかんない。でも、ほっとけないんだ。目を離したら、どこかに消えちゃいそうな気がして」
「相変わらず、素直な人ですね」
ぽつぽつと語るレイシアを見て、メリルはどこか眩しげに目を細めていた。
「そうですね。わたくしは……最初はやはり、許嫁で、ネーデルスタイン家のご子息だということが大きかったと思います。それから、あの方の人柄に触れていく内に、心配になったのです。あの人は、どんな悲しみにも、どんな苦しみにも耐えてしまう。誰かが、支えてあげなければといけないと」
「なんか、わかる気がするよ」
母が死んだ時のクレインも、そうだった。誰も彼もが悲しんでいる中、クレインは自分が泣き喚いて、誰かに迷惑をかけることを気にしていた。そのために、身が引き裂かれるような悲しみにじっと耐え続けた。オービルの領主になってからも同じだ。教国の非道にも、領民からの罵声にも、心を殺して耐えた。耐え抜けてしまった。それはクレインの強さでもあるが、弱みにもなるとレイシアは思っていた。
率直な思いを口にして恥ずかしくなったのか、メリルは微かに頬を染めていた。
「まったく。こんなによい姉を二人も持ったのに、少しもお気持ちを乱さないのですから、クレイン様は本当に甲斐性がないですね」
「ホントだね」
苦笑しながら、レイシアは静かな決意で胸を満たした。
認めよう。自分はきっと、女としての幸せを捨てられない。戦場で激しく戦いながらも、女としても幸福であろうと願い続ける。クレインのように、心を殺して耐え抜くなどという戦い方は、きっとレイシアにはできない。
それでいいのだと、今なら素直に思うことができた。
(あたしはクレインを守る。クレインを幸せにしたい。……クレインと、幸せになりたい)
戦うということは、レイシアにとって、そういうことだった。
ひとしきり雑談してから、メリルが神妙な顔をして切り出してきた。
「そういえば……例の物、用意できましたよ」
「本当? さすがだね、メリル」
レイシアが素直に賞賛すると、メリルは複雑な表情を浮かべていた。
「ですが、本当にあれを使うつもりですか? ちゃんと対策も用意していますが、正直、賛成できません」
「念のためだよ。万が一、うまくいかなかった時のため」
「しかし、なにもここまでしなくても」
「いいの。それに……こうでもしなきゃ、クレインは自分のしてることがどういうことか、ずっとわからないままだと思うし」
「……レイシアさんも、あまり人のことを言えない気がしますが」
「こんなこと頼んじゃって、ごめんね。でも、これがあたしの戦い方なの」
クレインとともに、命を懸ける。愚直な自分にできることは、それしかなかった。
華やかな花嫁衣装を脱ぎ去ると、レイシアは気持ちを引き締めるように、軍袍に袖を通した。
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