第一章 オービルの奴隷領主(4)
議論は夜更けまで続いていた。
城内の私室に戻って、クレインとレイシアは今後の方針について話し合っていた。ガウルがオービルに来た理由、クレインが卑屈な態度を取り続けた意味、そしてガウルがそれに気づいていること。そのすべてをレイシアに伝えても、議論は一向に結論に至らなかった。
「お願いだよ。レイシアだけでも、オービルから逃げてくれ」
「あたしだけ逃げるなんて、絶対に嫌よ」
「あんな男の妾にされて、人として扱われないまま死んでもいいっていうのか? そんなんじゃ、義父上も浮かばれない」
「領民を見捨てて一人で生きながらえるほうが、よっぽど父さんが悲しむわ」
「それは領主である僕の仕事だ。レイシアが責任を負う必要はない」
「あたしはネーデルスタインの娘よ。領民を守るためなら、意に沿わない結婚くらい耐えてみせるわ」
完全に平行線だった。領民のために自ら犠牲になろうとするレイシアを、クレインが必死に止めようとして空回りしている格好だった。
クレインは根気よくレイシアに語りかけたが、語れば語るほどレイシアの態度は頑なになる一方だった。
「……クレインはさ、このままでいいと思ってるの?」
「なにがさ」
「オービルのこと、王国の人たちのこと、それから……教国に支配され続けること」
レイシアの瞳に鋭い光が宿っていた。喉元に刃物を突きつけられたような気になり、クレインは思わず息を詰まらせた。
「それは……僕だって、このままじゃよくないと思ってるよ。でも、僕らになにができる? たった二人で教国に歯向かったところで、なにも変えられやしないよ」
「二人だけじゃないよ。王国の皆、このままじゃダメだってわかってる。クレインさえその気になれば、皆を動かせるかもしれないのに」
「それでも、無理だ。僕らはもう、十二神将に目をつけられてるんだよ? よほど運がなければ、人をかき集めている間に叩き潰されるに決まってる」
「そんなの、言い訳だよ。あたしには、そうやって誰かのせいにして、戦わない理由を探してるだけにしか見えないよ」
クレインの惰弱な言い分を、レイシアは容赦なく斬って捨てた。
「昔のクレインだったら、どんなに不利な状況でも勝てる方法を必死に探してたよ。今は、最初から戦うことを諦めてるようにしか見えない」
「だって……仕方ないじゃないか」
自分の口から漏れた声が泣き声に聞こえて、クレインは動揺した。ほとんど衝動的に、口から言葉が溢れ出す。
「僕だって、本当は教国の連中と戦いたいさ。でも、僕が戦ったらオービルの民や、王国中の人を巻き込むことになる。僕ひとりの身勝手な行動で、皆が不幸になるんだぞ。そんなこと、できるわけないじゃないか」
「クレインは今、皆が不幸じゃないとでも思ってるの?」
「それは……」
「責任感があるのは、いいことだと思うよ。でも、今のクレインは自分で自分を鎖に繋いでるように見えるよ。本当に皆のためを思うなら……あたしは、戦うべきだと思う」
覚悟が滲んだ声で、レイシアは断言する。瞳に宿った意志の光があまりに眩しくて、クレインはとっさに視線をそらした。
「ねえ。クレインは、どう思う?」
「僕は……」
戦いたい。自分の立場を忘れて、反逆者として教国に牙を剥きたい。非道な支配者を打ち倒し、正義はあるのだと納得したい。自分の持てる限りの力で戦って、勝利をもぎ取りたい。
胸から湧き出てくる感情を、クレインは必死に押さえ込んだ。
(民を守ることのほうが、正しい。武官も、王族もそういうものだ)
義父の言葉が頭の中で反響している。そして、義父の死に様が脳裏に浮かんだ。教国相手に戦うこともできたはずなのに、領民のことを一番に考え、戦わないことを選んだ。最高の武人でありながら、誇りを捨てて領民に尽くし、卑劣な謀略によって殺された。
義父の想いに背いて教国と戦うことが、民を守ることになるのだろうか。今よりずっと、民を苦しめることになるのではないか。
「僕は……」
いくら自問しても、答えなど出るわけがなかった。
「――とんだ愁嘆場だな」
抑揚のない声が、室内に響き渡った。
レイシアがとっさに抜刀し、クレインをかばうように前に出た。クレインも長剣を抜き、声のほうに構える。
いつの間にか、窓辺に黒尽くめの男が腰掛けていた。鴉羽のように不吉な黒髪に、生気を感じないほど青白い肌、闇を濃縮したような黒瞳。年の頃は、二十半ばといったところか。若く整った顔立ちをしているが、表情にはどこか老成した諦観が滲んでいる。ゆったりとした黒衣は全身をすっぽりと覆い、得物がなんであるか推察することを妨げている。
男は冷たい無表情のまま、クレインたちを見下ろしていた。
「何者っ!? ここはオービル領主の私室よ。無断で立ち入るなんて、重罰に処されるわよっ!」
レイシアが厳しい誰何の声を上げるが、黒衣の男は微塵も表情を崩さずに、窓辺から飛び降りた。どこか優雅に着地する姿は、凶鳥が翼を広げて降り立つ様を連想させた。
「クレイン・ネーデルスタインで、相違ないな」
答えを求めている呼びかけではなかった。漆黒の瞳で静かにクレインたちを見据え、わずかに冷笑を浮かべた。
「女の背中に隠れて、剣を握るのか。ネーデルスタインの息子とは思えんな」
「……父を知ってるのか?」
「ああ。俺が殺した」
なんでもないことのように、黒衣の男は言った。
怒号とともに、レイシアが床を蹴った。全身全霊でチャクラを練り上げ、雷光の如く斬りかかる。
金属音がしたと思った時には、レイシアは床を転がっていた。黒衣の男の手には、さして力を込めた風でもなく、だらりと長剣が握られている。
全力の斬撃を軽くいなされ、少し冷静になったらしい。レイシアは立ち上がってもすぐに飛びかかるようなことはせず、曲刀を構え直して水のチャクラを練った。大気中の水分を集めて水流を生み出し、自身の周囲を取り囲むように幾重にも張り巡らせる。水流は敵の攻撃を妨げ、水流の中の氷刃は骨をも切り裂く刃となる。
水流結界。レイシアが最も得意とする戦術で、彼女が清冽剣と呼ばれる所以のひとつだった。
黒衣の男とレイシアが互いに睨み合う。黒衣の男はレイシアを脅威とすら感じていないように、いまだに構えを取らないままだった。にも関わらず、レイシアは打ち込む隙を見つけられないようだった。
硬直した状況を打破するために、クレインは地のチャクラを床に流し込んだ。石造りの床が槍のように形を変え、波のように黒衣の男に迫る。
黒衣の男はクレインを一瞥し、地のチャクラを練った。床の石を組み換えて石壁を作り出り、石槍の群れにぶつけて一気に叩き折る。
だがその隙に、レイシアは黒衣の男に間合いを詰めていた。水流結界が蛇のようにうねり、五本の水流が剣閃となって男に殺到する。
水流が直撃する直前に、凄まじいほどの火のチャクラが立ち昇った。瞬間、直撃するはずだった水流はすべて蒸発し、消滅していた。
(なんてチャクラだ……っ!)
一瞬で練り上げられたチャクラの凄まじさに、クレインは瞠目した。
恐ろしいほどのチャクラの迸りに、レイシアも驚いて水流を引き戻した。己の技を完膚なきまでに叩き潰されても、構えを崩さずに戦意を放ち続ける。それをつまらなそうに眺めてから、男はレイシアに向かって跳んだ。
レイシアと黒衣の男が交差する。レイシアの澄んだ剣閃に絡めるように長剣を操り、黒衣の男は曲刀を跳ね上げた。すれ違い様、水流をかいくぐって軽くレイシアの肩に触れる。禍々しいほど黒々としたチャクラがレイシアの身体に流れ込み、彼女のチャクラが激しく乱れた。水流結界が維持できず霧散し、レイシアは全身から力が抜け落ちたようにその場に倒れた。
「レイシア!」
敵への警戒も忘れて、クレインはレイシアに駆け寄った。床に転がった身体を抱き起こすが、全身は屍のように脱力し切っている。ただ、目だけは真っ直ぐにクレインに向けられていた。生きている。それにひとまず安堵したが、レイシアは肺にうまく空気を取り込むことができないらしく、喉が引きつったような不気味な音を立てている。
憎悪を露わにして、敵を睨む。だが黒衣の男は微塵も気にした風もなく、冷淡にクレインを見下ろしていた。
「全身に麻痺毒を流し込んだ。十分後には完全に呼吸ができなくなり、死ぬ。そうなる前に話を終わらせよう」
「どういう意味だ! あんたは、いったい何者なんだっ!?」
「シメオン。シメオン・アヴィディア」
「……まさか。そんなバカな」
動転のあまり、クレインは考えをそのまま口に出していた。
――なぜなら、シメオン・アヴィディアと出会ったものは必ず死に至るのだから。
その男が今、目の前に悠然と立っていた。
クレインが絶句しているのに構わず、シメオンは抑揚のない声で告げてくる。
「教国はお前たちを消したがっている。烈火獣まで引きずり出してきたのだから、情けをかける気はないだろう」
「あんたも、僕たちを殺しに来たのか?」
「お前たちを殺すくらい、烈火獣一人で十分だ。わざわざ俺が動くまでもない」
「なら、何故ここに?」
「お前たちに、選択肢を与えるために」
「……選択肢?」
「お前たちが選び取れる道は、二つだけだ。姉弟ともども生き延び、教国に対して戦を起こすか。姉弟ともども、ここで俺に殺されるか」
シメオンの口から飛び出した言葉に、クレインは自分の耳を疑った。
「本気で言ってるのか? 教国最強の武官が叛乱を薦めるなんて、にわかには信じられないな」
「お前が信じるかなど関係ない。俺は昔から、この国が気に入らない。ぶち壊したいと思うほどに」
「それなら、あんたが直接やったほうが早いんじゃないか?」
「千や万の軍なら潰せるが、俺には国や宗教までは滅ぼせない。だが、お前は違うだろう? クレイン・キア・ハルディオン」
ぞっとするような寒気に、クレインは思わず身を震わせた。とっさに反応できずにいると、シメオンが畳み掛けてくる。
「ハルディオンの第七王子。いや、王族はすべて処刑されたから、もはや王と名乗るべきだろうな。お前ならこの国を飲み干し、別の国に作り変えることができるはずだ」
「……どうして、それを」
「俺の仕事は暗殺だけじゃない。暗殺に必要な情報も、自分で集めている。このくらいの情報、その気になれば簡単に手に入る」
レイシアの呼吸が荒くなっていた。咳き込みたいがそれもできず、苦しげに空気を求めて喉を鳴らしている。
「時間もない。さあ、決めろ。戦うか、死ぬか」
答えなど、考えるまでもなかった。
レイシアが必死に目で訴えかけてくるが、クレインは苦渋の思いでレイシアから視線を上げた。
「戦う。だから、彼女を助けてくれ」
「いいだろう」
あっさりと言って、シメオンはレイシアの肩に手を置いた。体内に入り込んだどす黒いチャクラを回収すると同時に、レイシアが上体を起こして激しく咳き込んだ。麻痺毒は消えたようだが、まだまともに話せる状態ではなさそうだった。
クレインは思わず、シメオンを睨んだ。睨むだけで、手を出すことはしない。目の前にいる男が尊敬する義父を殺し、今まさに義姉を殺しかけたとわかっているのに、攻撃するだけの踏ん切りもつかない。勝ち目がないことをあっさり認め、レイシアのように感情に身を任せることができない。
それが、我ながら情けなかった。
そんなクレインを、シメオンは冷たい瞳で見下ろしていた。
「これから先、どういう段取りで戦うのかはお前たちに任せる。俺の協力は当てにするな」
「あんたは、なにもしないつもりなのか?」
「当然だ」
一切のためらいもなく、シメオンは断言した。
「はっきり言って、お前たちを本気で当てにしていいものかどうか、まだ判断がつかない。今の状況すら独力で打開できないのなら、その程度だったというだけのことだ。また、別口の叛乱軍を当たることにする」
「……つまり、僕たちはまだ、あんたに駒としても認められてないってことか」
「そういうことだ」
レイシアが射殺さんばかりの目で、シメオンを睨んでいる。当然だろう。父の仇に、ほとんど雑草のような扱いをされているのだ。怒るのも、屈辱を噛みしめるのも当然だろう。
そう思いながらも、クレインの頭は至って冷静だった。
「確認しておきたいんだが……もし僕らの叛乱が失敗して、それでも運良く生き延びたらどうなる?」
「当然、殺す。昼間の騒ぎを見たが、お前の性格ならわざと負けるくらいのことはやりかねんからな。勝ち続けなければ、お前たちの命はない。そう思え」
「そうか」
「もうひとつ、忠告しておこう。俺はチャクラを混ぜ合わせて、あらゆる毒を生成することができる。お前たちを殺す時に、情けをかけるなどと思うな。最も苦しみ抜き、一欠片の尊厳もない、最悪の死をくれてやる」
シメオンの返答は予想通りだったが、その凄絶な気迫に呑まれて、クレインは思わず息をすることも忘れていた。
ようやく呼吸が整ったらしく、レイシアがクレインの肩に手を置き、小声で囁く。
「ダメよ、クレイン。こんなやつの言うことを聞いたって、ろくなことにならないわ」
「わかってるよ。でも、従わなきゃ殺される」
死ぬのは、怖くない。恐れているのは、レイシアも領民もどちらも守れないことだった。それについては、レイシアも同じだろう。
彼女はまだ屈託を抱えているようだが、それ以上クレインに反対はしなかった。それを見届けてから、クレインはシメオンに向き直る。
「もうひとつだけ、確認したいことがある」
「なんだ」
「あんたは、どうやって義父上を殺したんだ?」
レイシアが驚いたようにクレインを見た。シメオンも、闇色の瞳に微かに興味深そうな色を灯しながら、語り始める。
「ネーデルスタインとは、一対一で戦った。得物を奪って負けを認めさせたので、毒を流して殺した。それから偽装のために、酒を浴びせて階段から落とした」
「……義父上は、負けたのか」
「強かった。十二神将にも劣らないほど。久々に、楽しいと思える戦いだった」
懐かしむように、シメオンの瞳が虚空を見上げる。その姿はどこか感傷的で、クレインは「シメオンも人間なのだ」ということに今更のように気づいた。
「そっか……父さんは、武人として死んだのね」
レイシアが、ぽつりと呟いた。その声には、憑き物が取れたように穏やかな感情が滲んでいた。
領主として領民を守ろうとするあまり、卑劣な策謀に巻き込まれて、尊厳もなく謀殺されたのだと思っていた。だが、義父は戦って死んだのだ。武官として、戦い抜いて死んだ。それで悲しみが癒えるわけではないが、少なくとも自分が義父の死に固執することは、もうないだろうと思えた。
――自分も、義父のように戦いたい。命の尽きるまで、戦い抜いてみたい。
ずっと領主としての責任感が邪魔をしていたが、戦うしかないのならば思い悩むだけ無駄だ。戦って勝つ。ひとりでも多くの王国民を救う。その方法だけを考え抜く。そう思い定めると、クレインはどこか晴れやかな気分になっていた。ようやく、自分の戦場を手に入れた。そんな気さえし始めている。
「少しはマシな顔になったようだな」
クレインの顔を見て、シメオンが抑揚のない声で言った。
「教国を相手に戦なんて、正気の沙汰じゃないけど……そういう戦だから、面白い」
「烈火獣も炎熱騎士団も、それほど甘い相手じゃないぞ」
「わかってるさ。これから無い知恵を絞って、必死で策を練るとするよ」
自嘲するように肩をすくめてみせると、シメオンは小さくうなずいた。
「忘れるな。俺の姿はなくとも、これから俺はお前たちを監視し続ける。おかしな真似をしたら、その瞬間に最悪の死が待っていると思え」
一方的に言い捨てると、シメオンの姿が一瞬で消失した。地のチャクラで石造りの床を操って穴を開け、風のチャクラをまとって落下速度を上げたのだろう。理屈はわかるが、とても人間業とは思えなかった。シメオンが立っていた床は、寸分違わず元の状態に戻っている。
「まったく、なんてやつだ」
シメオンが立っていたほうを眺めながら、クレインは呆れ気味に呟いた。レイシアは、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫……? まだ、戦うのを迷ってたりしない?」
「大丈夫だよ、レイシア。正直今でも勝ち目は薄いと思ってるけど、ないわけじゃない。こうなったら、意地でも勝ちをもぎ取ってやる」
自棄のように明るく言うと、レイシアが噴き出すように笑った。
「なんだか、子どもの頃のクレインに戻ったみたい。あの頃のクレインは、軍学の勉強の時によくとんでもない作戦を思いついてたっけ」
「そりゃいいね。とんでもない作戦でもなきゃ、この状況は打開できそうにないや」
クレインは窓辺から、夜の空を見上げた。
深い夜闇を切り裂くように、鋭い三日月が煌々と輝いていた。
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