第一章 オービルの奴隷領主(1)

 朝の空気は、少し肌寒いほどだった。

 練兵場の中央で長剣を構え、クレインは義姉と向かい合っていた。

 義姉の構えには隙がない。身体を半身にし、曲刀をこちらに突きつけるように構えている。頭の片側で束ねた金色の髪が、風に揺られて頬を撫でる。それに気を散らした様子もなく、宝玉のような碧眼は真っ直ぐにこちらを見据えていた。女性の中でも小柄なほうだが、大振りな曲刀を持つ手は微塵も揺らがない。身体から立ち昇る水のチャクラは淀みなく、清流のように彼女の周囲を流れている。

 レイシア・ネーデルスタイン。名将アルバート・ネーデルスタインの実子であり、幼い頃からともに武芸を習ってきた義姉だ。軍学で彼女に負けたことはないが、武芸では一度も勝てたことがなかった。

 クレインは静かに呼吸をしながら、チャクラを練った。

 ――人間には、気孔チャクラと呼ばれる器官がある。気孔は身体の七ヶ所に点在し、それぞれが呼吸するように世界の力を取り込んでいた。

 世界を形作る地、水、火、風の力は、体内に取り込むことで肉体を強化したり、体外に放出して世界を変質させることもできる。気孔から生み出されるその力は、かつて気と呼ばれていたようだが、いつからか力そのものまでチャクラと呼ばれるようになったらしい。

 練兵場を吹き抜ける風を体内に取り込み、放出する。体内から放出された風のチャクラは暴風と化し、身体を包み込むように渦巻いていく。暴風はクレインに害をなすことはなく、むしろ追い風のように動きを後押ししてくれた。

 クレインは暴風の勢いに乗って、地を蹴った。

 身体にまとった暴風がクレインの動きを加速させ、瞬く間にレイシアとの間合いを詰める。レイシアは曲刀を構えたまま、微動だにしない。こちらの速度に、反応できていないわけではなかった。クレインの加速など、脅威とすら感じていないようだった。

 激突する直前、クレインはとっさに地のチャクラを練った。踏み込んだ足から大地にチャクラが伝わり、レイシアの立つ地面が文字通り波打った。

 一瞬だけ、彼女が体勢を崩す。そのわずかな隙に、クレインは全力で斬撃を叩き込んだ。

 レイシアの剣先が、わずかに動いた。そう思った時には、クレインの斬撃は軽く受け流されていた。流れるような動きで曲刀を切り返し、クレインの首に突きつける。水流のように自然で、淀みのない剣術だった。

 いつものことではあるが、あまりに見事な剣技に、クレインの胸には賞賛の念が湧いていた。

「さすが。清冽剣せいれつけんの呼び名は伊達じゃないね、レイシア」

「ありがとう。クレインは、もうちょっと鍛錬したほうがいいね」

 曲刀を鞘に戻しながら、レイシアは軍袍ぐんぽうの下の小さな胸を張った。

「隙を作ろうとするのはいいけど、小手先の技に頼り過ぎだよ。もっと剣術かチャクラを磨かないと」

「耳が痛いな」

 クレインは苦笑したが、義姉のお説教は素直に受け止めていた。

 人は誰でも、チャクラを操ることができる。だが、チャクラを操る能力の優劣は、ほとんど生まれつきのものだった。鍛えればある程度まで向上させることはできるが、限界はある。

 レイシアとクレインの差も、すでに歴然としていた。レイシアの練るチャクラを激流とするならば、クレインのチャクラはせいぜい湧き水程度だ。レイシアのチャクラが並外れて優れているというだけで、クレインが特別劣っているというわけではない。義父に鍛えられたこともあって、武芸もチャクラも、並の兵には決して遅れを取らない自信はある。だが、いつからかクレインの武芸とチャクラは伸び悩むようになっていた。

 長年それを見てきたせいか、レイシアは不服そうに頬を膨らませた。

「朝の稽古を続けてるのは偉いけど、最近のクレインには覇気が足りないよ。もっと本気でやらないと」

「十分、本気だったけど」

「どこが! こっちは水のチャクラを使ってるんだから、火のチャクラで対抗しないとっ!」

 レイシアの口調は責めているというより、純粋に心配している様子だった。

 水と火、地と風のチャクラは、ぶつけ合わせると相殺する関係にある。とはいえ、クレインのチャクラでは、レイシアに対抗できるわけもない。クレインにとって、それを避けるのは当然だった。

 それに――

「レイシアに火傷なんてさせられないよ」

「なに言ってるの! 格上相手に戦ってるのに、そんなの気にしてちゃダメだよっ」

「格上って言っても、レイシアは女の子だし」

「戦いに男も女も関係ないの!」

 リスのように頬をぱんぱんにして小言を言ったあと、レイシアは上目遣いで見つめてきた。

「……ま、まあ。女の子扱いしてくれるのは、嬉しいけど」

「そうなの? 普通のことだと思うけど」

 クレインが首を傾げていると、レイシアはまた頬を膨らませて腰に手を当てた。

「とにかくっ、クレインはもっと真面目に稽古に取り組むこと! クレインには絶対、天稟があるんだから!」

「わかったよ」

 レイシアの言う天稟がなんなのか、クレインにはなんとなく想像がついていた。

 並の人間が操れるチャクラは、地、水、火、風の四種類のみだとされている。だが、世界には人知を超えたチャクラも存在していた。空間を操るアカシャ、意志を操るマナス、世界そのものと同化し不死性を手に入れるとされるアムリタのチャクラなどがそうだ。伝承でしか語られておらず、その存在を確認したものもいないため、クレインはおとぎ話だと思っていた。

 その伝承のひとつに、ハルディオン王国の祖であるヴィクター・キア・ハルディオンの話があった。

 三百年前、ヴィクターは類まれな武勇と軍略で西の原野を征服し、ハルディオン王国を建国した。そのいくつかの逸話の中に、空間を操るチャクラの話が出ていた。天を裂き、海を分かつ英傑。おとぎ話としては面白いと思うが、とても真に受ける気にはなれない話だった。

(仮に事実だったとしても、僕にそんな素質があるわけない)

 クレインは、チャクラも武芸も凡庸だった。王族としても半端者で、所詮捨てられた妾腹の子に過ぎなかった。人生の中で、自分が王族だと実感したことは一度もない。そのことになんの不満もなく、これから先も王族になどなりたくはなかった。

(どのみち、亡んだ国の話だ)

 考えても詮無いことだ。そう思い定めると、クレインは長剣を取ってもう一度レイシアと向き合った。

 それから十回ほどレイシアと打ち合いをしたが、今日もクレインは一本も取れなかった。レイシアはまだ涼しい顔をしていたが、クレインはかなり体力を消耗してしまい、全身に汗をかいていた。

「仕事する前に、湯浴みしたくなってきたな」

「名案ね。久しぶりに、お姉ちゃんが背中流してあげよっか?」

「お互い、もうそんな歳じゃないでしょ」

「なに? もしかして、お姉ちゃんの裸を意識しちゃってるの? もうっ、素直じゃないんだから」

「いや、レイシアの裸には興味ないんだけど」

「即答っ!?」

「だいたい、義姉の裸に興味なんか持ったらまずいでしょ」

「それは体面的な意味よねっ!? お姉ちゃんの身体が貧相すぎて、特殊な性癖じゃなきゃ興味なんか持てないって意味じゃないよねっ!?」

「なんでそんな卑屈になってるのさ……ちょっと落ち着いてよ」

 涙目で迫ってくるレイシアをなだめながら、クレインは改めて義姉の姿を見つめた。

 中肉中背のクレインと比べて、レイシアは頭ひとつ分は背が低い。胸も薄く、体つきもほっそりとしているが、女性的な魅力がないわけではなかった。精巧な人形のように整った容姿に、ころころとよく変わる表情。義姉でなければ、今頃恋に落ちていてもおかしくなかった。

 だが、義姉だった。血の繋がりはないというのに、髪も瞳も同じ色をしている。それが一層、レイシアを家族だと感じさせた。

 互いに姉弟として振る舞っているが、クレインとレイシアは同い年だった。なにかと臆病で大人しいクレインに対して、溌剌として物怖じしないレイシアが常に主導権を握っていたため、なんとなく姉弟という形に収まっているのだ。やや過保護なきらいはあるものの、義姉弟と知っても壁を作らないでいてくれて、レイシアにはいつも感謝していた。

 レイシアと別れて軽く身体を拭いてから、クレインは城の最上階に位置する執務室に入った。

 かつて、義父が使っていた部屋だった。

 豪奢な飾りなど一切ない、質素な執務室だ。領主の執務室としては、些か物寂しく見えるほどだった。義父らしい質実剛健としたこの部屋を、変えるつもりはなかった。たまに中央から送られてくる役人も、この部屋を見ればすぐに賄賂への期待を捨ててくれた。

 今、この部屋には義父はいない。代わりに、しかつめらしい顔をした中年が立っていた。肌は浅黒く、小肥りの身体を異国のゆったりとした着物で包んでいる。

 彼はこちらに気づくと、慇懃に頭を下げてきた。

「おはようございます、クレイン殿」

「おはよう、マリシク」

 ろくに目も合わせずに答えると、クレインは執務室の机についた。マリシクは横に立つと、書類を一枚差し出してくる。

「中央から糧秣の要請がありました」

「またか。先月も、税とは別に糧秣を届けたばかりだぞ」

「仕方ありません。我が国は今、戦時なのですから」

 我が国という言葉に、クレインは苦笑を堪えねばならなかった。

 ハルディオン王国は、もう八年も前に亡んでいた。隣国だったイシュヴァリア教国の猛攻に耐えきれず、王都が陥落し、全軍が降伏した。

 激しい戦だったが、義父は目覚ましい活躍をしたらしい。

 義父の領地だったこの城郭都市オービルは、ちょうど王国と教国の国境に位置していた。国境線にはガリアス山脈がそびえており、その上に築かれたのがオービルだった。立地のよさもあって、義父はわずか五千の守兵でイシュヴァリアの侵攻を何度となく食い止めた。音を上げた教国軍は、ついにオービルを迂回することを決めた。オービルから教国軍が退いた後も、義父は野戦に出ては教国軍を翻弄し、敵国の名だたる将軍を三人も討ち取ったという。

 その功績を認めたわけではないだろうが、義父はイシュヴァリア教国に制圧されたあとも、将軍としての地位を保証されることになった。無論、形だけだった。戦の終結後、オービルに立てこもった義父を、教国が説得しようとした結果だった。義父のほうも、孤立無援で籠城し続けるのは不可能だとわかっていたのだろう。将軍としてオービルの独立統治権を得ることを条件に、教国の提案に乗った。オービルの城門を開き、教国民が貿易路としてオービルを通ることを認めたが、教国軍が立ち寄ることだけは拒否し続けた。

 義父が死んでから、中央はその条件を忘れたかのように、即座に監査官のマリシクと軍を送り込んできた。

 元々、マリシクは中央で役人をやっていたらしい。領主の仕事を知らないクレインの補佐という建前だが、クレインの監視が目的だろう。クレインが少しでも怪しい動きをすれば、即座に殺して領主の座を奪う。そのくらいの密命を帯びていても、おかしくはなかった。

 クレインは仕方なく、差し出された書類を受け取った。

「わかったよ。今はどこも大変だものな」

 署名済みの書類を受け取ると、マリシクは頭を下げてから、底冷えのする目で見下ろしてきた。

 ――まるで、家畜を屠殺する時のような目だな。

 自身の想像に恐怖を感じることもなく、クレインは本腰を入れて、書類仕事に取りかかり始めた。

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