第2話
【来訪者】の欄に”
ー顔はいいのに字が汚い。
けれど俺にはそのくらいの<欠点>があったほうが魅力的だと自負しているので問題ない。
【面会者】の名札を首に掛け、ナースステーションにいる看護師に微笑んで会釈をして立ち去れば黄色い声が小さく響いた。仕方ないな、俺ほどのイケメンならな。でも静かにしなければならない病院には少しばかり目に余る美しさになっているだろう。罪な男だ。
「入るぞ」
ナースステーションの斜め前、303号室に俺の昔からの世話役である崎本は入院している。
「看護師の声が聞こえたので、坊ちゃんかと思っていたらやはりそうでしたか」
「まったく、俺は罪な男だな…」
「
「なるほど、受け継がれし美のDNAってわけか」
頷きながらそう言うと、呆れたように「大和様の方が随分謙虚でいらっしゃいましたけどね」と付け加えられた。
「坊ちゃんの性格は間違いなく奥様譲りですね」
「まあな。でも母さんも俺も、外見に見合う評価を自分で下しているつもりだ。」
「外見に……確かに、初めて奥様を見たときは使用人一同、呼吸を忘れる程の美しい方でしたが、使用人一同分の酸素を吸って話をされる方だったので”あぁ、中身は”と思ったことはいい思い出です」
「相変わらずだな、その毒舌。母も崎本がいなくて寂しがっていたぞ。いつもより口数が3倍くらい少ない」
「それでも他の方の5倍くらい多いので大丈夫でしょう…奥様もお昼過ぎに見舞いにルビーロマンを持って来られましたよ。」
崎本はここ数年、何度かこうして入退院を繰り返している。独身を貫き、俺の祖父の代から京塚の家で働いてくれた、家族と言ってもいいくらい大事な存在だ。祖父は早くに亡くなってしまったけど、遺言の中に【崎本は絶対に切ってはならない】と書いてあったという話は京塚にいる人間にとっては有名な話だ。
けれど、遺言があってもなくても父も俺も崎本を切るつもりなんてない。祖父の亡き後、父の事を支えてくれていたのが崎本らしい。そして俺が生まれてからは父からの頼みで俺の世話役になっている。生まれてから25年間、俺はずっと崎本の厳しくも温かい側で育って来たわけだ。
「旦那様も奥様も時間を作って見舞いに来てくれますし、坊ちゃんは毎日仕事の帰りに来てくださる。私は…」
「なんだ?”私は幸せです”って話か?」
「いえ、私は休む暇がございませんので、あまり長居されても」
「来たばかりの人間に何てことを…」
そういってカバンの中から携帯を取り出して一枚の写真を見せる。崎本が「ブーゲンビリアですか」と微笑む。その通り。映し出された画像はオレンジ色のの花がチラホラと咲いたブーゲンビリアの苗木。ここに来る前に立ち寄った生花店で購入してきたものだ。さすがに病棟に持ち込む事は
「植え付けるのには遅いかな?」
「まだ大丈夫だと思いますよ。どちらに置かれるつもりですか?」
「ほら、サンルームの外だよ。あそこだと日当たりもいいし」
「ブーゲンビリアは日当たりが良すぎてもいけませんよ。裏庭の東屋の入り口は如何ですか?」
「そうか!じゃあそうしようかな」
本当は種から育ててみたかったけれど初心者に容易く出来ることなのかわからなかったから苗木にした。
全く、生き物は難しい。花でも動物でもちょっとミスをすればすぐに枯れるし、すぐに死ぬ。だから「沢山美しい花が咲きますように」よりも、「上手く庭に馴染みますように」が目下の目標だ。
「坊ちゃん、私の代わりに庭の手入れなんてしなくてよろしいんですよ」
崎本が言うように、俺は彼が入院してから、彼の役割であり、楽しみでもあった庭の手入れを日課としている。ガーデニングってやつだ。最近じゃ実なり花なりが出て来るのが楽しくて仕方ない。今の時期は葡萄のツタもグングン伸びるし、テラコッタの鉢に植えた水芭蕉が陽を待ちわびていたと言わんばかりに背を伸ばす。
生き物は難しい。けれど命の力強さをダイレクトに感じる。それがなんとも感動を覚える。
「だったら早く戻ってくればいい話だろ。俺が庭をいじるようになったら使用人達から散らかったって不評なんだよ。あいつら、俺には容赦ないからなぁ…」
「こんな老いぼれにまだ働かせる気ですか。もうお役に立てることは少ない体だと思うのですが」
「”枯れ木も山の賑わい”っていうだろ」
「か弱い高齢者への言葉とは思えませんね…帰って早々、坊ちゃんの散らかした庭の片付けから始めなければなりませんね」
一階の売店で買って来たヨーグルトを袋から取り出し、蓋を剥いてプラスチックのスプーンと一緒に渡しながらぽかんとする。
崎本が入院するまではこんなに安いヨーグルトを買うなんて信じられなかった。
そういえば先日、兎谷に「これいくらだと思う!?」と興奮気味にコンビニで買った白桃入りのヨーグルトを見せたら「140円くらいだろ」とあっけらかんと言われた。正解は136円だ。どうやら兎谷はコンビニでヨーグルトを買った事があるらしい。「ヨーグルトはクレマドールだな」とか言ってたのにいつの間にコンビニデビューを果たしていたのか、と驚いた。そうだ、どういうきっかけでコンビニデビューしたのか今度詳しく聞いてみよう。
…って、兎谷じゃなくて!
「庭の片付け?」
「ええ。今日の検査結果がよければ、来週には退院です」
崎本はヨーグルトを口に運びながらそう答える。
パク、パク、と何口か食べた後に「そんなに驚かなくても」と彼が言って初めて自分がまだびっくりして黙り込んだままだったことに気付いた。
だって、今回の入院はもう崎本が戻って来ないんじゃないかと思うくらいだった。救急車の中でも苦しくてもがいていたし、病院に着いて酸素マスクをつけてもまだ息苦しくて体をばたつかせていた。少しその息苦しさが減ったかと思えば目も開かないくらい体がパンパンに浮腫み切っていた。
「そうか…よかったな。ホッとしたよ」
「今回ばかりは私ももう旅立ちかと思いましたが、どうやら何か役目があるんでしょうかね。生き長らえました。」
「一番の仕事が庭の片付けってそれは病み上がりのお前には辛すぎるな。まずはこっちからにしよう。」
と、俺はコバルトブルーに赤い金魚の刺繍が入ったハンカチをポケットから差し出す。
崎本は不思議そうな顔でそれを手にとって、広げて、「血痕…」と俺を睨む。
「また怪我をされたんですか」
「余所見してたら転んで鼻血が出た」
盛大なため息の後に「血ってなかなか落ちないんですよ」と呟く。
「いや、洗濯じゃなくて、これ」
「名刺?…”
「これを貸してくれた人」
「生き長らえた理由がなんとなくわかった気がしますが敢えて言わせていただきます。坊ちゃん、しっかりしてください。大体昔からあなたは注意力が足りない所があります。8歳の時に庭の池に落ちた時も…」
と、崎本の説教が始まりそうだったから「俺が頭から落ちたから親父がびっくりして池に飛び込んで怪我したやつな」と先回りしておく。呆れたような顔でため息をついて言葉を発することをやめた。
「話を戻すけど、俺が転んだ時にこの女性がハンカチを貸してくれたんだ。お礼がしたくて名刺を貰ってきた。何がいいと思う?」
「そうですね…こちらをきちんとクリーニングして、それと一緒に新しいものを添えては如何でしょうか」
「そうか…じゃあ
真っ白で、職人が一枚一枚丁寧に刺繍を施した純白のハンカチをプレゼントしよう!
名案だ。さすが俺、と思ったのも束の間。すぐに崎本からストップが入る。
「仙頭?それじゃあお相手が気兼ねしてしまいます」
全く意味がわからない。
「なんで?」
「坊っちゃまのおっしゃる仙頭手刺繍のハンカチは、5万円程のお品物ですよね?」
「うん」
「高価過ぎます!」
「そうかな?」
「普通の方はそんなに高価なハンカチをいただいたら逆に申し訳ないもの。しかも見ず知らずの男性からの高価なプレゼントなんて申し訳ないを超えて恐ろしいです」
崎本はヨーグルトを食べながら「気持ちよく受け取ってもらえるよう考えるべきです」と加える。
確かにそうだな。俺のプレゼントが恐ろしいか、恐ろしくないかはさておき、相手が気持ちよく受け取ることが出来るか否かは大事だ。
「そう考えたら柄や色もわからなくなさってきた。全く同じものを作らせたらダメかな」
「無難なものを選ぶ事が一番で…あぁ、坊ちゃん。ハンカチをお店で見て来られては?良い相談相手ならいらっしゃるでしょう」
そう言うと崎本は「大事なのは心ですよ」と言ってニヤリと笑った。
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