第八章 哀哭せし子供

 もう随分と暖かく、汗ばむ陽気になっていた。

 窓辺から射し込む陽光が眩い。思わず細めた眼下に、幼児達が声を上げて遊んでいるのが見える。

 母親に連れられ、慈しみ、守られる姿。団地の自室からそれをぼんやりと眺めていた望実は、次の瞬間にはその光景から逃れるように瞑目していた。


 あれから数週間が経過していた。携帯電話はあの日以降、電源を落としたまま机の奥深く。

 口を閉ざし、一切の登校をやめた望実を、母は何も言わずに受け入れた。ただ、食事だけは一緒にしてほしいと願って。

 窓外の微かな喧騒を耳に、ごろりと床に倒れ臥す。何だか酷く疲れていた。心が、くたくたに、疲弊していた。深海に沈み込んでいくような意識で過ぎったのは、不思議な体質を持つ彼女の姿。


 (ナイーブさんに……会いたい……)

 彼女に全てを吐露して、安らぎが欲しかった。この数週間、思考も行動も起こせなかったが、舞い込む軽風のように彼女への想いが、そっと呼び起こされる。

 時刻は午前10時を回った頃。母は声を掛け、とっくに仕事へ出ていた。徐に立ち上がった望実は簡単に着替えを済ませると、家を出る。

 緩やかな足取りで何度も通った道を行く。その時だった、小さな橋の上に佇む聖吾を見付けたのは。相手も同様に望実の姿に気付き、どこかぎこちない笑顔で手を振る。彼は私服だった。傍へ行くと、隣に立つ。

 

 「久し振りだな」

 「……そうですね」

 「俺、今日サボり。村瀬はどっか行くとこだったのか?」

 「……まぁ」

 曖昧に答えると、聖吾は先程と変わらぬ表情で笑う。その額にはガーゼが貼られ、薄着の袖口から伸びる腕には包帯が巻かれていた。しかしその傷の訳を訊く前に、聖吾の質疑が先に向けられる。

 「中園と……何かあったか?」

 その言葉は、ずきりと、胸中に爪を立てた。

 「村瀬が最後来てた日さ、俺が教室から出てきたら中園がすげぇ泣いててさ、どうしたって訊いても何も言わないし、そのまま帰っていったから、俺なんも分かんなくて……」

 その時の困惑を滲ませて話す聖吾。

 「あれから村瀬に何度かメール送ってたんだけど、返事来ないし、俺も色々あって家までは行けなかったんだよ……」

 静かに耳を傾けていた望実は、自分を気に掛けてくれていたその気持ちに申し訳無さを覚え、ぽつりぽつりと訳を話し出す。

 全てを話し終えた時、聖吾は沈痛な面持ちだった。

 

 「……中園もあれから休みが多いし、返事も来ないんだよな」

 その言葉に沈黙で返すと、彼は俄然笑い始める。

 「なーんかもう嫌だよな! 全部!」

 大声を出したかと思えば、今度はトーンを落とし、

 「……村瀬たちが一緒にいてくれて助かってたけど、また殴られたりするのが増えてさ、こんなだよ」

 軽く捲ったガーゼ下の縫い傷を見せて笑う。生々しいその姿に思わず望実が謝ると、強く否定が返ってくる。

 「違う違う! ごめん、村瀬達が休んでる所為とか言いたいんじゃなくてさ!」

 そこで暫く黙すると、今度は聖吾の口から意外な事を語られる。


 「俺んちさ、父さんが単身赴任してて、母さんだけしかいなくてさ……けど、母さん、看護師の仕事してて毎日忙しいって言って、昔から俺の事なんかほったらかしなんだよ」

 水面を眺める横顔が、言い様の無い寂しさに揺れていた。

 「夜勤だからって言ってバラバラの時間に寝起きして、顔見ない日もかなりある。前に中園が、殴られるのにどうして学校行くのか訊いてきた事があったんだけど、俺、いじめられる事で、どっかで母さんが心配してくれるんじゃないかって思ってたんだ」

 勿論、殴られたりするのは痛くて嫌だけどな、と苦笑する。

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