3
「狭いでしょー、ここ。でも亡くなった両親が遺したお店でね。細々とやってるんだ」
暫くして戻ってきた彼女から温かいマグカップを謝辞と共に受け取り、口を付ける。
甘い。ココアだった。泣いた所為もあり、ぐずつく鼻を軽く啜りながら質疑してみる。
「じゃあ、1人で寂しくない……?」
すると僅かばかり『うーん』と唸っていた彼女は俄然笑顔を浮かべる。
「寂しい! だから望実ちゃんが時々でも遊びに来てくれたら嬉しい!」
そんな提案に一驚した望実は、またもまじまじと彼女を見返す。
「だって私……嫌じゃ、ないの……?」
人に嫌われるばかりの自分など。臆する気持ちが喜悦を覆い隠し、たちまちその表情を曇らせるが、目前に屈んだ彼女は変わらず笑顔だった。
「私は望実ちゃんと友達になりたいんだけど、望実ちゃんは嫌かな?」
「嫌じゃない! 嫌なんかじゃ……」
嬉しいのに、また泣き出してしまいそうで、上手く言葉にならない。もどかしくて、ただ強く首を左右に振る。
その姿に笑みを深めた彼女の手が宥めるように頭を撫でる。
「……どんな人でもね、苦しい事があったら助けてもらいたいものだよ。何があっても動じない強い人もいるけど、皆が皆そうじゃない。まして望実ちゃんはまだ子供。1人で頑張れなくて当たり前なんだよ。さっき、お母さんにも言えないって話してくれたよね。これから望実ちゃんが誰かに話したいなって気持ちになった時、私を頼ってくれないかな?」
ゆっくり、ゆっくりと紡がれる言葉。再び零れ落ちた涙が頬を濡らすけれど、結ぼれた心がようやく安らかな吐息を落とせた瞬間だった。
「……たくさん泣いていいんだよ。1年生の時からなんて、大変だったね。一杯傷付いたよね」
彼女の言葉1つ1つが、柔らかい淡雪のように、ボロボロだった心へと降り積もる。
涙が止まった頃、少女の顔に浮かんでいたのは、はにかんだ笑みだった。
「初めて……こんなに泣いた」
「うんうん。あっ! 鼻ちーんってする?」
にこにこと頷いたかと思えば、慌ててティッシュを取りに行き、箱ごと手渡してくる彼女に今度は笑いが零れる。
「お姉さんって、不思議な人だね。優しかったり、面白かったり」
「うーん、変な人っていうのはよく言われるよ」
こんな見た目だからねと苦笑する彼女に、ずっと気になっていた事を訊いてみる。
「どうして手袋してるの?」
男性のような短髪や服装は、中性的なその顔に似合っていたが、それは気になる所だった。
すると彼女は少しだけ真剣な面持ちになり、隣の椅子に腰掛けて話し出す。
「これはね、体に傷が出来た時の為なんだよ。黒い色を選んでるのも、血が滲んだ時に目立たないようにする為」
「傷? よく怪我するの? 料理するから?」
「ううん、そういうのじゃないんだ。おかしな話なんだけどね。望実ちゃんが全部話してくれたから、私も話そうと思うんだけど」
そこで一旦言葉を区切り、こちらを見つめる。
「望実ちゃんは、嫌な事を言われたりしたら、心が傷付くよね」
「うん……」
「そうだよね。それが私の場合は体に傷が現れるんだ」
一瞬、意味を
「こんな事、嘘みたいだよね」
返す言葉に迷っている様子に気付いて苦笑すると、初めてその黒い手袋を引き抜く。
ほっそりした手指には真新しいものから、かさぶたの出来たものまで数多に傷があり、目を見張った望実は思わず声を上げる。
「まだ血が出てるよ!?」
「……これはさっき出来たんだね。望実ちゃんが来てくれる前、お客さんにちょっと厳しい事言われちゃったから」
きっと先刻道端で見た女性客の事だろう。自分が鉢合わせる前から、何やら不平不満とは違う暴言を吐かれていたらしい。
けれども怒りもせず苦笑する彼女の姿に、望実は言い様の無い憤りを覚える。彼女はあんなにも誠実に応対していたのに、と。
そしてそれは顔にも出ていたらしい。くすりと笑われる。
「望実ちゃん? もしかして怒ってくれてる?」
「だって……」
「ありがとう。大丈夫。大変だけど、色んな人がいるものだよね。せっかく来たのに、お目当ての物が無かったら嫌な気持ちになっちゃうのも分かるし。でも、あんまり酷い事言われちゃうと、やっぱりショックだよね……って、これじゃあ大丈夫じゃないね? 矛盾してるね」
そう言って笑う彼女の姿に、望実は初めて気付かされる。自分が思う以上に、傷付き、苦悩している人達は、世間に溢れているのかもしれないと。
自分だけが苦しいんじゃない。道端で擦れ違う何気無い人々にも、今の自分のような、もしかしたらそれ以上の責め苦が伸し掛かっているのかもしれない。
「……お姉さんは、いつからそんな大変な思いしてるの……?」
「ん? この体はね、昔……事故に遭ってからかな。おかしな体だよね。心が傷付く事があると、体に傷が出来るなんて。誰にも信じてもらえないし、気持ち悪いって言われちゃうから、こんな風に隠すようにしてるんだ。いつ、どこに、どんな風に傷が現れるか分からなくてね。さすがに顔までは隠せないけど」
また、困ったように笑う彼女に胸が痛んだ。
だから首元まで覆うような服装だったのだ。それを理解した時、また1つ合点が行く。借りたタオルにあったあの小さな染みは、洗っても落とす事の出来なかった血の跡なのだ。
消せない、痛みの跡。
「……やっぱり、おかしいかな?」
「そんな事無い! 不思議だなって思うけど、気持ち悪いなんて思わない! だって、私にこんなに優しくしてくれて……お姉さんが嘘吐きには見えないもん」
強く
「お姉さんの事、これからナイーブさんって呼んでいい?」
「ナイーブさん……?」
「そう! あだ名」
「ふふっ、それならデリケートさん、じゃなくて?」
「あ、そっか……ううん! それだとちょっと言いにくいから、やっぱりナイーブさん!」
「ナイーブさん。うん、何だかいいかも。気に入ったよ」
2人で笑い合った後、望実は徐に椅子から立ち上がる。
「ありがとう、ナイーブさん。また来てもいい?」
「勿論だよ。辛い時はおいで。それ以外でも、良かったら遊びに来て」
そんな喜ばしい返答を胸に、家路を辿る。自宅に着いてからも、胸中は温かかった。
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