3
団地の一室である自宅へ帰り着いた時、迎えたのはリビングに置いてある電話の留守電を知らせる赤い光だった。
荷物をテーブルに下ろしてそれに近付いた望実は再生ボタンを押す。聞こえてきたのは仕事に行っている母親の
『もしもし望実? 飯島先生から電話あったけど、今日仕事が遅くなりそうだから、何かあったら連絡して。じゃあね』
電話越しにでも聞こえてくる職場のざわざわとした雑音と共に終わった録音を慣れた手付きで消し、その手で飯島の携帯電話を鳴らす。
数回のコール音。
『もしもし? 村瀬さん?』
『そうです。今、家に着きました』
『うん、分かった。お母さんは? まだお仕事?』
『はい、今日は遅くなるって留守電に……』
『そうなの? でも、夜も働いていらっしゃるよね? 夕方帰ってきてお家の事して、また出掛けて……お母さん大変だね』
母である環は、日中はスーパーで働き、夜間からは水商売の仕事へ出ていた。
望実自身の記憶には残っていないが、自分が産まれてすぐに父は亡くなったらしく、物心が付いた頃から母はそんな風に
度々言われる事だが、大変なのは何より身近で見てきて分かっている。曖昧に返事をし、受話器を置く。
再びテーブルに向かうと、教科書を改めて見る。幸い、汚れたのは表紙だけで、乾かせば何とかなりそうだった。
しかし次の瞬間、鞄に視線を移して慌てて声を上げる。
「あのお姉さんの……! どうしよう!」
思わず一緒に持ってきてしまったのだろう、最初に差し出してくれた方のタオルを手に、頭を捻る。思えば名前も知らないのだ。
「お弁当屋さん、どこにあるんだろう……」
こういう時、携帯電話でも持っていれば、ネットを介して調べる事も出来たのだろうが、望実はそれを持たなかった。
中学校へ入学した際、母が祝賀を込めて買い与えてくれたのだが、無情にもそのプレゼントは、ネットという顔の見えない空間を通して更なる誹謗中傷の奈落を生み出した。
人を人とも思わぬ悪言の羅列。それから逃れたくて。最早苦しみを与える凶器と成り果ててしまったそれを手にしていたくなくて。
通信費が掛かるから、と誤魔化して手放した時の、母の申し訳無さそうな『ごめんね』の言葉は今も耳に残っている。
「……お母さんに訊いてみようかな」
そう思い至ると、椅子に腰掛け、先程の出来事を思い返すかのようにタオルを手慰みにする。
彼女、否、彼だったのだろうかと思案していると、ふと表面に小豆色の小さな染みを見付ける。汚してしまったのだろうか? どちらにせよ自分の涙を吸い込んでしまった大事な借り物なのだからと、綺麗にして返す為、洗濯機へと立ち上がる。
この時、この小さな染みが、彼女の大きな秘密だとは知る由も無かった。
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