2
(良かった、誰もいない)
息を切らせ、駆け込んだ昼中の公園には人影も無く、閑寂としていた。
歩調を緩め、息を整えながら、望実は設置されていたゴミ箱へ近付くと、教科書を取り出した鞄を逆さに空ける。
バサバサと音を立てて振った後に、空にはなったものの、芳香剤やらで酷く汚れてしまったそれを手に、今度は水道へと向かう。
(落ちるかな、これ……)
そんな不安を抱きながらも、蛇口を捻り、ゴシゴシと擦り洗いを始める。
陽光の照る春先とは言え、手に当たる流水はまだ冷たく感じられる。
しかしながら、少女はその華奢な手を止める事は無かった。
『はい、村瀬さん! 早退するんでしょ? さっき職員室の前通ったら先生達が話してるの聞こえたから、教室から鞄取ってきたよ!』
『村瀬さん良かったね。ありがとうね、高岡さん』
『当たり前の事だよ先生! うちら友達だもん!』
心優しい友を演じる同級生、高岡愛那。その笑みに潜む闇を疑いもしない飯島の姿。望実は何一つ言葉に出来なかった。
優れた素行で校内のどんな教師からも目を掛けられている高岡愛那が、いじめの主犯格などと、誰が信じただろうか。
事実、望実がまだ1年の頃から教室という檻で始まった悲惨な状況を担任に訴えても、高岡愛那を羨んだ戯言だと笑殺されたのだ。それどころか、嫉視せず彼女を模範とするようにと、2年でも同クラスを強いられたのだ。
その時の絶望の
(匂い、取れない……こういうのって学校の物じゃないの……?)
何故こんな事をするのか。何が楽しいのか。苛立ちと悲しみが綯い交ぜになり、ついに堤防が決壊するように涙がぼろぼろと溢れ出す。
「っ……もうやだ……!」
両膝を抱え、小さな肩先を震わせて落涙する少女の姿に、折しも躊躇いがちに降ってきたのは、優しい声音だった。
「……あの」
「!」
息を呑んだ望実が顔を上げると、中性的で端整な容貌をした人物と視線が交わる。
「ごめんね、あの……大丈夫かな?」
心配そうに眉根を寄せ、屈んで差し出されるタオル。
望実は再度一驚し、戸惑いながらも、それを手に取る。
言葉は、出なかった。
涙で濡れた顔にそっと押し当てると、ふわりと良い匂いがした。少しだけそうしていると、高ぶっていた気持ちが凪ぎ、タオルを外して顔を上げる。
「……ありがとう、ございます……」
小さな謝辞に、その人物は安堵したかのように微笑みを見せる。
裏の無い、本物の笑みだと感じた望実はどうして良いか分からず、思わず視線をさ迷わせる。
そんな顔も、こんな事も、初めて他人にされた。一体誰なのだろう。どのような人なのだろう。
生まれてくる疑問が頭を駆け巡る。優しく見せ掛けて、最近話題となっている不審者なのでは? そんな事まで浮かんだが、望実はふと、その人物が最初より少しだけ距離を置いている事に気が付く。
怖がらせないようにだろうか、それを見た瞬間全てが杞憂だと思い至る。そして立ち上がってタオルを差し出す。
「これ、ほんと……」
「あっ、いいよいいよ、使って。それも拭かなくちゃじゃない?」
それ、と指し示されたのは未だ水道水に晒されたままの鞄だった。
「あ……いや、大丈夫です、自分のが……」
言い掛けて気付く。制服を探ったが、今日はハンカチもタオルも忘れてしまった。
そんな望実の様子に、笑みを深めた相手は東屋のある方を指差す。
「あそこに行かないかな? 自転車置いてきたんだけどね、あの荷台にもタオル入れてあるから」
言われてみると、確かに。側に1台の自転車が停められていた。
望実は蛇口を締め、鞄の水気を出来るだけ絞ると、教科書と共に抱えてそちらへと歩き出す。
それを目視して、ほんの少し隣を歩む相手の横顔を見ながら、またも疑問が頭を
(女の人……なのかな?)
優しい声音は女性のそれだったが、その黒髪は短く、細身のジーンズに黒のタートルネックという格好。そして何故だか同様に黒い手袋までしていた。
すらりとした痩身で、年の頃はまだ若く見える。
「……お姉さん?」
思い切って口に出してみると、その人は『ふふっ』と笑い、
「疑問系だったね。そうだなぁ、そうしておこうか」
と、明確な答えは出さなかったが、望実はその人を彼女として認識する事にした。
「さてと、ちょっと待ってね」
自転車に辿り着くと、彼女は箱のような物が括り付けられたその荷台を探り、新しくタオルを取り出して手渡す。
「はい、どうぞ」
「すみません……」
ぺこりと頭を下げ、ベンチに座って鞄を拭き始めた望実だったが、ふいに自転車のとある文字に目が止まる。
「お姉さん、お弁当屋さん……なんですか?」
括り付けられていた箱の側面に『おべんとう ソレイユ』と書かれていた。
「あ、これね。うん、そうなんだ。1人でしてる小さい所だから、私の都合でよく休んじゃったりするんだけどね。今日はちょうど配達の帰りだったんだよ。それで貴方が見えて……おせっかい、ごめんね」
穏やかで優しい表情と声をした彼女の話に耳を傾けていると、もっと聞いていたく、そして悲しくないのに涙が出てしまいそうだった。
癒される、そんな初めての感覚だった。
「……すごく、嬉しかった……」
懸命に、涙を堪えて声を絞り出した望実は目前に屈んだ心配そうな彼女にタオルを返すと、慌てて立ち上がる。
「もう大丈夫っ、ほんとにありがとうございました!」
そう言うと、荷物を抱えて公園を飛び出す。これ以上いたら大泣きしてしまいそうだった。
そうなれば、こんなにも優しく接してくれた彼女を困らせてしまう。
それが怖かった。
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