まやかしの貴婦人
牧原のどか
第1話選ばれしもの
たとえ貴女がもういなくとも、僕は永遠にあなたを愛し続けるだろう。
貴女の姿を目にすることができなくとも、あなたの声を耳にすることができなくとも、貴女は僕の胸の中で生きている。
貴女の墓に花を添え、墓石に語りかけるだろう。
僕の永遠の半身。
水無月はその墓に花を添えた。
「すまないね。仕事が忙しくて、中々来れなくて。アリサ……」
もちろん答えはない。霧雨のなか、水無月はしばし妻の墓の前に佇んでいた。
彼の愛する妻と娘が、流行り病で相次いでなくなってからずいぶんたつ。
「瑞希も大きくなった。もう十六だ。出張から帰るとそのたびに大きくなっている。君には全然似ていないけどね。多分、元気だ。帰ってすぐ墓参りに来たから、まだ顔を見てないんだ。じゃあ、アリサ、リナ、また会いにくるよ」
今は亡き愛しい妻と娘に別れを告げ、水無月は家路に着いた。
雨はまだやむ気配がない。
霧雨はまだやまない。細かい霧のような雨にぬれる町の中、水無月は『ホーム』と呼ばれる場所に帰ってきた。
「お帰りなさい」
いつもどおりの挨拶を係員がして、水無月は頷いた。
「瑞希はどうしている」
「剣の稽古だよ。あんたに似て、筋がいいらしい」
巨漢の男は笑ったが、水無月は眉をひそめた。
「あまり……危ないことはして欲しくないんだがな……」
男は爆笑した。
「無理だって、あんたのっと、帰ってきたぜ」
扉が開いて、少年が駆け込んできた。
「たっだいま~。濡れちゃったよお」
十代の半ばくらいだろうか。少年と水無月の間に血縁関係があることは明白だった。
黒髪、黒瞳。きつめの美貌までよく似ている。少年が後五年も育てば、水無月と瓜二つになるだろう。
ただ、腰までも届きそうな長髪ではなく、肩の辺りで切りそろえた髪と、厳しく引き締められどこか愁いのある水無月と違い、少年は無邪気な笑顔を見せている。
少年は水無月に気づくと破願した。
「おかえり、お祖父ちゃん。帰ってたんだ」
「ただいま、瑞希」
水無月は孫に笑って見せた。
神と悪魔が一同に会し、世界は一度崩壊を迎えた。時が流れ再び人の歴史が始まると、人の中に彼らが生まれ始めた。
不老者。あるいは『選ばれし者』達。
彼らはその肉体のどこかに聖なる印を刻まれて生まれてくる。あるときを境にその肉体は時を止め、その姿のまま長いときを生きる。
平均的な寿命が五十年ほどである現在、彼らは少年もしくは青年の姿のまま百年を越えるときを生きる。
神の使徒として、神の敵の使い魔、バスタードと戦うために。
「それで、やはりバスタードでしたか?」
「そうだ。私が行く前に百五十人、行ってから三人が犠牲になった」
『教団』の対バスタード局長ハザム・ロンドは溜息をついた。
「百五十三人ですか……もっと早く、助けを求めてくださっていれば……」
「仕方あるまい。ルーマンは『聖餐事件』の舞台となったところだ。教団に助けを求めにくいのだろう。室長もそれが分かっていたから、クローリー・クラウドやラフィを使わなかったのだろう」
『聖餐事件』それはあまりにもおぞましい事件であった。五十年近く前のことでありながら、未だにそれは囁かれている。
選ばれし者と交わったものは、同じく不老になる。あるいは、選ばれし者の肉を食べれば、同じものになれるなど、根も葉もない噂を信じ、実行に移した者がいた。
彼らは権力、財力を持つが故、老いと死を恐れるあまり食人という罪を犯した。
何人かの選ばれし者が犠牲になった。彼らはその能力を人間に使うことを躊躇し、その隙に漬け込まれたのだ。
クローリー・クラウドは囚われの身となった選ばれし者の救助に当たり──以来極度の人間不信に陥っている。
「後は報告書にある」
「はい。確認させていただきます」
報告書を受け取ったハザムは少々間を置き、言い難そうに続けた。
「ところで……瑞希君のことなんだけどね」
「瑞希がどうした?」
「……いきなり迫らないでくれる。怖いから。相変わらず爺馬鹿なんだから……」
触れ合わんばかりに顔を近づけられたハザムは、ひいた。
「うちの補助員になりたいと希望しているんだ」
「だめだ! だめだ! 絶対に許さん!」
蒼白になって水無月は反対した。
「そう言われてもねえ……うちはいつでも人手不足だし、テストはしたんだよ。余裕で合格だよ。さすがに水無月さんの孫ですねえ」
「ハ~ザ~ム~ぅぅぅ」
「殺気を背負わないでくれますか? 怖いって。一応、瑞希くんはまだ十六なもので、雇うのには保護者の許可がいるので──」
「許可しない! なんで瑞希がそんな危ない仕事をしなければならないんだ!」
予想通りの反応にハザムは溜息をついた。
「じゃあ、今回は不採用で。でも、十八になったら、保護者の許可は要らなくなりますよ。ですから、反対なら瑞希くんを説得することをお勧めします」
「そうしよう」
水無月はハザムに背を向けて足早に立ち去った。
「よ、お帰り。お土産は?」
廊下でいきなり声をかけてきたのは、サルフォンだった。知らないものが見れば十代の半ばに見える。しかし、彼も選ばれし者だ。
選ばれし者と認定されているのは現在七人。そのうちの一人だ。
「ない。観光ではないぞ」
「もったいない。ルーマンは風光明媚なところなのによ。ちったあ余裕もてよ」
「……よくそんな風に言えますね」
「ああ? もう五十年も前のことだぞ。当時の人間なんざ、くたばってるよ」
『聖餐事件』の存命する一番の被害者はこのサルフォンだろう。なのに、水無月のみたところ、まったく気にしていない。
サルフォンは煙草をくわえ、指先を近づけた。指先に火がともり、煙草に火がついた。
「煙草はやめてもらえますか?」
「おどろかないなあ、つまらん」
少年に見えるサルフォンだが、実は百二十年近くのときを生きている。水無月より四十ほど歳が上だ。
「またギミック増やしただけでしょう。火炎放射器でも仕込みますか?」
「もう仕込んだ」
サルフォンが嬉しそうに笑った。
サルフォンの両手両足は義肢である。聖餐事件において、喰われたのだ。サルフォンは機械仕掛けの義肢にギミックを仕込むことを趣味としている。
「ラフィの再生治療を受けないんですか?」
「いつでも新しい腕と脚を生やせれるんだ。いつでもいいじゃん」
「……」
ラフィの能力の一つに人の傷を癒す力があるが、普通の人よりは準不老者のほうが効き、選ばれし者にいたっては、欠損した肉体を再生させることまで可能だ。
なのに、何故かサルフォンは肉体を再生させない。
「それで、なんの用ですか?」
「……実は、瑞希から祖父さんを説得してくれと頼まれた」
ひくっと水無月の頬がひきつった。
「なぜ瑞希があなたに? あなたに爺さん呼ばわりされる覚えはありませんが」
「噛み付くなよ。祖父さんだろ、瑞希のさ。俺も瑞希には弱いんだよ。自分の孫も同然だからさ」
「私の孫です」
「よ~く、分かってるよ。だんだん似てきてるし」
サルフォンは大げさに肩をすくめた。
「でもよお、生まれたこ~んなちっちゃな時からみてんだぜ、情もわくでしょ~」
「なんと言われようと、許可するつもりはありません」
「……まあ、危険な仕事ってのはたしかだからねえ。調査員じゃなくて、補助員だからさ。選ばれし者の戦闘の手助けや、みずからバスタードと戦う仕事だからってのはわかるよ。けどさ、本人の希望ってのも考えてやれよ」
「本人の希望?」
平静を装っている水無月だが、その背に暗雲を背負っているのをサルフォンは見たと思った。
分かりたくなぞなかったが。
サルフォンはバスタードと戦う時並みに緊張していた。
「わかってやれよ。瑞希はさ、おまえに憧れて、教団に入りたがっているんだぞ。瑞希にとっておまえは自慢の祖父さんなんだよ。祖父さんの仕事を誇りに思い、その手助けがしたいっていじらしいじゃねーか」
水無月は何も言わなかったが、その眼に殺気に近いものが浮かんでいた。
気持ちは分かる、とサルフォンは思った。
選ばれし者は止まった時間のまま何十年、何百年と生きる。その中で、人を愛することもある。
しかし、添い遂げることはめったにない。
相手が普通の人間であれば、先に死なれるのは分かっている。
たいがいは一時の付き合いでおわる。
ラフィが愛したのは、同じ選ばれし者のジヴだった。
クローリー・クラウドは準不老者の少女と暮らしている。
しかし水無月は──ごく普通の女性と愛し合い、正式な結婚をして、子供まで作った。
異例である。たとえ、おいて逝かれることが分かっていても、それでも結婚を望むほど愛していたということだ。
娘が生まれたとき、体のどこにも聖印がないことを泣いて喜んだのだ、こいつは──普通の幸せをつかめるとして。
瑞希が生まれたときもそうだった。
なのに、本人が戦いの場に行こうとする。
止めるだろう。全身全霊をかけて。
愛するが故に。
それを説得するなぞ、サルフォンには不可能に思えた。
「俺もさあ、腕がなけりゃとめたよ。危険なのはわかっているもんなぁ」
「では、なぜ止めない!」
「あいつ、凄腕なんだぜ。おまけに、神器を発動させれた」
水無月が顔色を変えた。
「神器を……」
「そう。そういうテストがあることを知っているだろいが。神器を使えるかどうかで戦闘員か情報員になるか決まる。あいつは、発動どころか、稼動させられたんだと」
「……適応者……」
水無月が唸った。
神器と呼ばれるものがある。人の戦闘力──身体能力や防御力を上げる特殊な力を持つものである。
いつ、誰が、作ったのかは、分からない。しかし、バスタードと戦う上でこれほど役に立つものはない。選ばれし者はそれほど多くはなく、彼らだけでは間に合わないときに、補助員と呼ばれる神器の使い手が投入されることがある。
神が人のために作ったと噂されているそれは、使う人を自ら選ぶ。
稼動させられる可能性を持つものが触れると発光するという特性を持つそれに触れることで資質を図るテストがあるのだが、瑞希は発動させるだけではなく、稼動させたというのだ。
神器に選ばれたもの、彼らを適応者と呼ぶ。
水無月は頭を抱えた。
どうりでハザムが言い出すわけだ。
選ばれし者ほどではないが、適応者も数が少ない。バスタードと戦う戦力を欲している教団としては、ぜひとも欲しい所ではある。
「本人の希望があって、それだけの実力があるんだ、後はおまえだけだから──」
「嫌です」
「……気持ちはわかるけどよ……」
もはや理屈ではない。感情──愛情の問題だけだ。それだけに、説得の無力を悟ったサルフォンだった。
「それで玉砕ですか」
「お祖父ちゃん、頑固だから」
ハザムの執務室でハザムとサルフォンは並んで紫煙をくゆらせていた。十代の半ばにしか見えないサルフォンだが、実年齢は百を軽く超えているので問題はない。
「頑固なのは知っていますよ。結婚なさるときも凄まじい反対があったとか。それを排して結婚なさったそうで」
こちらは正真正銘二十代後半のハザムが紫煙を吐きながらぼやいた。
「そうそう。冷静そうに見えて、実は無駄に熱い人だから、お祖父ちゃん」
水無月が結婚したのは四十年近く前のことであり、そのときにはハザムは生まれてもいなかったが、様々な理由により反対する者が多かった。その中には『選ばれし者』を神聖化するあまり、純潔を失うと『選ばれし者』の資格を失うと思い込んでいる者もいた。
そのため猛烈な反対もあったのだが、純潔を失っても『選ばれし者』であり続ける力を失うことはないと、『選ばれし者』自身が証言した。一飯には知られていないだけで、彼らも人並みに恋愛をしていたのである。
サルフォンもその一人であった。
恋愛は謳歌する彼らでも、子供を作る『選ばれし者』はそれまではいなかった。
多くは『選ばれし者』の子供も『選ばれし者』だとか、実は準不老者は『選ばれし者』の子供だとか、様々な噂を気にしていたからである。
しかし、水無月の子供はごく普通の人間だった。水無月の行動は様々な推測を否定した。
「……四十も年下の人をお祖父ちゃん呼ばわりするのはどうかと思いますが、そのお祖父ちゃんはどうなさいました?」
「瑞希と直談判。睨み合ってるよ」
「まったく、困りましたね……」
「補助員候補は欲しいが、水無月が怖いか……お祖父ちゃんが許可するとは思えんしなぁ……」
二人は同時に重々しい溜息をついた。
「だから、僕の人生は、僕のものでしょ~。才能ないなら、諦めるけど、できるって太鼓判押してくれたんだもん、許してよ」
「だめ」
ホームの中庭にはカフェがある。休憩時間や、非番の教団員の憩いの場で、先ほどから瑞希と水無月の家族会議が続いていた。
まだ十六の瑞希は少年の顔をしているものの、水無月とよく似た顔立ちをしている。そこに浮かぶのは明るいちょっと甘えたキカン坊の表情だ。たいして水無月は、見た目には少し歳の離れた兄程度にしか見えない。その瑞希とよく似た顔に浮かぶのは、白刃のような張り詰めた厳しい表情だ。
一つ一つ単体で見る分には違和感はないが、よく似ているくせに性質が正反対というのは、目眩がする。
「僕はさ、お祖父ちゃんや、教団の人を尊敬しているんだ。バスタードから人々を守るって言う、すっごく大切な尊い仕事をしているってさ。だから、僕も、手伝いたいんだよ、お祖父ちゃん」
「だめ」
一言で斬って捨てる祖父に、瑞希は何とか食らいついていった。
「だから、なんで! その理由は?」
「危ないからだ」
「自分のしている仕事のでしょ」
「だからこそ、やらせたくないんだ!」
しばし無言でにらみ合う二人に、思わず注目していた教団員は視線をそらした。
「ど~しても、許可してくんないの?」
「許可しない」
水無月は溜息をついた。
「瑞希、おまえは選ばれし者でもないし、準不老者でもない。望めばごく普通の生活ができるのに、なぜ、こんな仕事をしたがる。普通の仕事について、ごく普通の幸せを掴んで欲しいんだ」
「お祖父ちゃん。僕はバスタードがなにをしているか知っているんだよ。それに、対抗できそうな力もあるみたいだ。なのに、ほっとけって? できないよ。僕だって平和を守りたい」
「だめだ」
「お祖父ちゃん!」
家族会議は延々続いた。
街は深い霧の中に沈んでいた。湖沼の多いこの辺りでは珍しくないのだという。
駅を出た水無月は補助員(情報員)の馬車に乗り込んだ。
「情報に変更または追加があるか?」
「追加があります。行方不明になった女性は七人。いずれも十代後半です。少女と言っていいですね。詳しい調査結果をお渡ししますが、いずれも美しい少女ばかりで、自分から姿を消す理由はみあたりません」
「そうか」
水無月は手渡された資料に眼を通し始めた。
「しかし、意外ですね」
「何がだ?」
「まだ、バスタードの仕業とは判明していません。犠牲者も死体が出たわけではないので、生死不明です。もしかしたら、人攫いかもしれないのに、選ばれし者が派遣されてくるとは」
「……」
水無月は顔をしかめた。
確かにバスタードの仕業と限ったわけではない。しかし、何故か熱心にハザムが勧めたのだ。何かあるとは思うのだが、実際にうら若い女性が何人も行方知れずになっているというのは、由々しきことだ。
たとえそれがバスタードの仕業ではなくとも。
「そうだな。バスタードの仕業かどうかはわからん。だが、レベルの低いものなら手当たり次第だが、レベルが高くなると、妙なこだわりをみせるときもあるからな」
バスタード。神の敵の僕。これらのことはよく分かってはいない。神の敵が人を創りかえるとも、虚無から作り出すともされるそれは、人の姿を模し、大量殺人を犯す。
人の姿をし、人間社会に溶け込みながらある日突然正体を現し、人々を抹殺する。
バスタードは多くの人を殺したものほど強くなり、思考も複雑になる。人を殺すことにより、その人間の持っていた力──可能性や才能、未来──を自分の力に変えるという。
歳経た者は巧妙に正体を隠し、選ばれし者にさえ判別が難しいときがある。それさえも、神器だけはごまかせないが。
水無月は資料にあらかた眼を通した。
「これではよく分からんな……この街に住んでいたということと、いずれも美少女だということくらいしか共通点はない。とりあえず足取りを追いかけてみるか……」
「はい。まずはどこに?」
「一人目の行方不明者は……花屋の娘か。ユリス・カーマイン」
オードリィ、農家の娘。
シリィ、カフェの店員。
クラリス、看護士見習い。
アニス、果樹園の娘。
モリス、雑貨屋の店員。
リリア、ロドウェン家の小間使い。
水無月は顔を上げた。
「気のせいか? はっきりと関係しているのは最初の娘と小間使いだけだが、品物を納めていたり出資者だったりと、ロドウェン家に関係している人間ばかりのような気がするが……」
「しかたありません。ロドウェン家はここいらの名家で、この街の人間の大半は何らかの形でロドウェン家に関係しています」
「そうか……」
水無月は窓から外を見たが、一面の霧で何も見えない。馬車の車輪が立てる音だけが響いていた。
ロドウェン家に花を配達した後ユリスは消えた。リリアは休暇で里帰りをする予定だったが、その日、街でリリアを見かけた者はいない。そのままリリアの姿は消えた。
その関係から水無月はロドウェン家を尋ねる途中であった。約束を取り付けると、ロドウェン家は迎えの馬車を送ってきた。
水無月と現地の調査員は迎えの馬車に揺られている。
馬車が突然揺れて止まった。そのまま何度も馬車は揺れるが、進まない。
「どうした?」
御者に尋ねると、中年の頼り無さそうな男はしきりと頭を下げた。
「すみません。どうやら、ぬかるみに入り込んじまったみてえで……」
男は何度も馬をけしかけるのだが、車輪はぬかるみの中で動かない。
「しかたない。押そう」
水無月と現地の調査員──クラウは馬車を下りて車輪の下に板をおいて押した。何度か押しているうちに、車輪はやっとぬかるみから抜けた。
その頃には水無月もクラウも泥まみれになっていた。
「……どうしたものかな?」
人を訪問するのにふさわしい姿ではない。ましてや、相手は御婦人なのだという。
「もうしわけありません。館の方が近いもんで、館までいきやしょう。事情を話して館の方で湯浴みしてから、お方様にお会いなさってくださいませ」
御者が何度も頭を下げるので、そういう事になった。
ロドウェン家に現在滞在しているのは夫人のマリリーだけだという。十も歳の離れた夫婦は冷え切って、互いに好き勝手しているというのは、街で小耳に挟んだ噂だ。
水無月とクラウはそれぞれ別の浴室に案内された。困ったことに、小間使いたちが沐浴の手伝いをするといって、出て行こうとしないのを、水無月は無理やり追い出した。
女性に手伝われて沐浴をする趣味はない。
貴族では普通なのかもしれないが──他人に見られたら困るものが水無月にはある。
泥を落として浴槽を出ると、扉があいた。
とっさに水無月はバスタオルで胸の辺りを隠した。入ってきたのは小姓らしき少年だった。
「お着替えを持ってまいりました。申し訳ありませんが、これをお召しください」
泥まみれの教団服を着るわけにはいかなかったので、ありがたく借りた。
「お借りしよう」
「お召し物はこちらで洗濯させていただきます。では、お召代えのお手伝いを──」
「けっこうだ。一人でやれる」
粘る小姓を追い出し、水無月はタオルを外した。
水無月の胸の中央──そこに浮かぶのは教団の聖印──選ばれし者の証しだ。
『聖餐事件』以来、教団は関係者以外には選ばれし者を隠すことにしている。
サルフォンの喉、クローリー・クラウドの右手のように普段露出しやすい所ではないが、水無月はなるべく人前で服を脱がないようにしている。サルフォンも常に喉にスカーフなどを巻いているし、クローリー・クラウドは手袋を手放さない。
まだ密かに、選ばれし者が他人を準不老者にできると信じている者がいるためである。
準不老者というのも謎が多い。
彼らは聖印を持たないが、ある時期、彼らの時間は止まる。多くは青年期で、続いて少年期、ごくまれに老人のまま時が止まり、その姿のまま何十年、時には百年のときを生きる。が、ある時期から再び彼らの時は流れ始め、それからは普通の人間と変わりなく歳をとる。
なぜ、聖印を持たない人間の老化が止まるのか、明確な答えは今のところない。
『選ばれし者』を生み出すためにばら撒かれた因子が突然面に出るのだとも、『選ばれし者』の手助けをするために神が選んだ人間の時が止まるのだとも言われているが、答えは──神のみぞ知るだ。
ただ、そういう人間がいるため老化を止める方法があるのだと、信じる人間がいる。
曰く、『選ばれし者』と愛し合えばなれる。
曰く、教団に不老の妙薬がある。
曰く、『選ばれし者』の血肉を口にすれば準不老者になれる。
まったくのでたらめだ。
そのため犠牲者がでるにいたって、教団は『選ばれし者』を秘匿するようになった。
ロドウェン家の婦人はブルネットの妙齢の美女だった。
「わたくしどもの使用人の不注意で災難に合われたとか。もうしわけありません」
「いえ、こちらこそ、よくしていただき恐縮です」
クラウが如才なく挨拶している横で、水無月は部屋のすみにいる男が気になっていた。背も高くがっしりとした体型をしている。護衛なのだろうが──
(手練だな)
刺すような視線が気になった。
「家の使用人が何か?」
マリリーが尋ねてきた。
「いや……護衛ですか。かなりの手練とお見受けする」
「まあ、分かりますの? 頼りになりますのよ」
夫人が涼やかに笑った。
「彼はノートンといいますの。こちらに移ってくるとき一緒に来ていただいたの」
「こちらに移られたのは二年前とか……」
「ええ。空気のいいところでのんびりしようと思いましてね。都会にいると、色々ありますのよ」
噂では何らかのスキャンダルに巻き込まれ、ほとぼりを冷ますためこちらに移ってきたといわれているが、噂などあてにはできない。
屋敷はたっぷりと金を使って、華美になり過ぎないぎりぎりの範囲を守った上品さを保っている。調度品も趣味も品もいいものばかりだ。古い名家であることは間違いない。
水無月は押し黙り、クラウが主な質問をしていた。
「ユリスさんはこちらに来られたとき、どのような様子でしたか?」
しかし、結果ははかばかしくなかった。
夫人は眉根を寄せた。
「ユリス? どなたのことかしら?」
執事がそっと耳打ちした。
「花屋の娘さん? ああ、配達に来た日に行方不明になったという? わたくし、顔もあわせていませんの。下働きのものが対応したはずですわ。後でお聞きになって」
万事この調子である。名家ではよくあることであった。
「こちらの家でも行方不明になった方がおりますが……」
「そうそう、リリアのことでしたわね。本当に行方知れずになって、わたくしも心配しておりますのよ」
「詳しく教えていただけますか」
夫人は優雅に扇を揺らせた。
「そうはもうしましても……あの子は行方知れずになる数ヶ月前にここにあがったばかりで……そうでしたわよね?」
執事が頷いた。
「はい、奥様。三ヶ月前に行儀見習いの名目で」
「そういうわけですし、わたくしは屋敷の者のことを一人一人よく知っているわけではありませんの。執事のマトルとメイド達の方に聞いてくださいませ。ごめんなさいね、お役に立てなくて」
「お屋敷の近くに不審者などいませんでしたか?」
「ノートン」
夫人は護衛の責任者を呼んだ。
護衛の男は一礼して告げた。
「そのような者がおりましたら、切り捨てております」
その後、二三の質問をしてから、執事やメイド達に話を聞いた。問題の小間使いの生家を聞いてから二人は屋敷を辞した。
その頃には教団服も乾いており、服を返却できた。
馬車に揺られ、宿に着いた。馬車を見送ってから、水無月はクラウに訊ねた。
「気がついたか?」
「は? 何にですか?」
「行きと帰りで道を変えたな……」
時間はそう変わらなかったのだろうが、帰りはぬかるみのない舗装された道だった。水無月は車輪の音と振動だけでそのことに気づいた。
「そうですか? 行きで懲りて道を変えたんでしょう」
「……だといいがな」
「なにか?」
「……いや、疑るのが癖になっているらしい」
なぜ行きにぬかるみのない道をいかなかったかが、問題なのだ。まさかとは思うが、わざと御者は、ぬかるみにはまらせたのではないだろうか。二人を泥だらけにして着替えなければならない状況を作り上げたのではないだろうか。聖印があるか調べるために。
水無月は胸を──聖印をおさえた。
(まさかな……いかんな、隠さなければならないものがあると、なんでも疑ってしまう)
「これからどうしましょう?」
「……住人を調べてみてくれるか?」
「住人を?」
「ここ数年で移り住んできた者だけでいい。古くからいるものはかまわない」
「なぜですか?」
「バスタードの特徴を知っているか?」
「……特徴といいますと?」
「バスタードは長年一つの土地に住めない。なぜならば、どれだけ溶け込もうと、彼らの見せ掛けの外見は歳をとらないため、数年で移り住まねば疑われるからだ」
それは奇しくも『選ばれし者』や準不老者と同じ特徴であった。
「分かりました。すぐに調べます」
男は女に尋ねた。
「いたか?」
「いたわ。髪の長い、奇麗な顔をした方。しっかりとは確かめられなかったけど、胸の中央にそれらしきものがあったの」
男は低く笑った。
「なるほど、化け物相手に長年戦ってきた成果か。強そうだったな」
「あんなに奇麗なのに?」
明かりをおさえているため表情は見えないが、女の声は疑う響きが混じっている。
「足運び、身のこなし、見るからに只者じゃあない」
男は嬉しそうだった。
女が呆れたように言う。
「どうでもいいわ。『選ばれし者』って、人間相手には能力って使えないんでしょう。それなら問題ないわ」
「どうかな? 俺が言うのは、武人としての力量だ。かなりの腕だ。人間相手に能力が使えないとしても、腕だけでもかなりのものだ、楽しそうだな」
「『選ばれし者』は人間とは戦えないのよ。だから聖餐事件で何人も殺されたって聞くわ」
「それじゃあ、つまらない」
男は拗ねたように言う。
「どちらでもいいわ。あなたの役目は分かっているわよね?」
「ああ、あの方のためだ」
街の住人の調べは比較的進んだ。田舎なので移り住む人も少なく、古い住人が多い。数少ない移住者も身元は簡単に分かるものが多かった。
例外はロドウェン家だ。夫人が移り住むとき何人もの新顔の使用人を連れてきている。特に、護衛は身元のしっかりしたものと、生まれも定かではないものにはっきり別れる。
どちらにしろ、都まで足を伸ばさなければ調べられない人間が多いらしく捜査は難航している──らしい。
その日も霧が出ていた。クラウは念のためリリアの生家の調査に出かけ、水無月はこの日来るはずの都からの報告書を待っていた。
報告書は午前中に届いた。
水無月はさっそく中を改めたが、一部の護衛をのぞいて身元のしっかりしたものばかりだった。補足で夫人に対する報告書もある。
夫人は十五のとき乞われて、十も年上のロドウェンに嫁いだ。ところが、このアドルフ・ロドウェンという男は、少女しか興味がないという男だった。
夫人が女性として成熟していくと興味をなくし、少女ばかりを追い回していたらしい。婚約者のいる若いメイドに手を出して、白昼、少女の婚約者に襲われた。
夫人は愛想を尽かし、夫の醜聞から逃げるようにこちらに移り住んだ。それが二年前。
もともと屋敷を管理していた召使に、護衛やら身の回りのことをするメイドに護衛を引き連れての別居である。
離婚したい所だろうが、貴族ともなると、中々それもできない。
(あの人も、苦労しているというわけだな)
水無月は夫人に少々同情した。
報告書を読む限りでは、夫人や執事、メイド達がバスタードの可能性は極めて低い。残りは護衛だが、違うだろうと水無月は思う。
バスタードの多くは無力を装う。ごく普通の人間や、美しくか弱い外見の持ち主が多い。逞しい外見は相手を警戒させてしまうからだ。
(バスタードではないのかもしれんな……)
扉がノックされた。
「もうしわけありません。いらっしゃいますか?」
宿の主人の声だった。水無月は報告書を置いて扉を開けた。
「何か?」
「お屋敷から、伝言です。お話したいことがあるので、時間のあるときにおいでくださいと」
水無月は置手紙と、念のため主人にクラウへの伝言を頼み、ロドウェン家に向かった。
深い霧と、不案内な街だが、ロドウェン家への道は分かっていた。街のはずれの広大な屋敷、途中の林からすでに敷地内なのだという。
林の中で、水無月の感覚に触れるものがあった。首筋に、チリッと針で刺されるような感覚──水無月は抜刀していた。
甲高い、金属と金属が打ち合う音──勘だけで水無月は切り付けられたところを、打ち払ったのだ。返す刀で人影に切りつけたが──かわされた。人影は後ろに飛びのいて距離をとる。
深い霧が間合いを取り辛くさせていた。
「邪魔だ」
水無月は舌打ちをして──その刹那、熱気が霧を払った。
相手はとっさに顔を隠して退いた。
まさか、霧が一瞬にしてなくなるなど思ってはいなかったのだろう。覆面さえしていなかった。
水無月は深追いしなかった。
「人間か……なんのつもりだ?」
相手は明らかに人間だった。
どういうつもりかは知らないが、辻斬りでもあるまいに、人にいきなり切り掛るとは。
熱気が消え、ゆっくりと霧が舞い戻ってきた。
「伝言を受け取ったものだ。話があるというのは、誰だ?」
門番にたずねると、話が通っていたのかすぐに奥に通された。
先日通された部屋よりは控えめな部屋だが、そこにロドウェン夫人がいれば、それだけで華やいだ雰囲気になる。
それだけ豪華な美女ではある。
「ようこそおいでくださいました。あれから思い出したことがあるのですが、数日前に不審な者が──」
「──作り事はいい。本当の用件を言ってもらおう」
夫人が扇を揺らす手を止めた。
「そんなものがいれば切り捨てていると、護衛が言っていた。ここへ来る途中襲われたが、あれはここの護衛──ノーマンとかいう男だった。今の話に真実味を与えるためか、奴が失敗したからここに招きいれたのかは知らんが、何が目的だ?」
「まあ、そんな襲われたなど、初耳ですわ。それに、この深い霧ですもの、見誤ったのでは?」
水無月は眉をしかめた。
「長年、バスタード相手に戦ってきた者の眼力を舐めないでいただきたいな。一瞬とはいえ、顔を見た。それに、顔だけでなく、体つきを見ればあきらかだ」
夫人が顔色を変えた。しかし、毅然とした態度は変えない。
「娘を浚ったのも、貴女か? 何をたくらんでいる?」
「それが分かっていて、敵地に飛び込むなんて、度胸のある方ね」
夫人は嫣然と微笑んだ。
「美しいわね。肌も張りがあって、髪に白髪もないわ。人が一番充実したときね──でも、長年戦ってきたと言ったわね。あなた──本当はおいくつなのかしら?」
「78だ」
夫人は溜息をついた。
「それで、その姿なの? 『選ばれし者』が不老だというのは、本当なのね」
「それが動機か? 事件を起こして、『選ばれし者』をおびき寄せようと?」
「結果としてはそうなったわね。でも、どちらでもよかったのよ。神でも、神の敵でも。わたくしの願いを叶えてくれれば……ある人が教えてくれたの。生贄を集めて儀式をすれば不老になれると」
夫人は物憂げに言った。
「わたくしは、美しいかしら?」
「ああ、そうだな」
水無月はそっけなく応えた。
室内にいるのは、メイドが一人と執事。護衛の姿はない。だが、油断は出来ない。貴族には隠し部屋に護衛を潜ませている者も多い。
洗いざらい白状しているからには、なにか、切り札があるはずだ。
「でも、今だけよ」
夫人の声に滲む無念に気づいて水無月は眉をひそめた。
「夫のことを言っているのか?」
少女趣味で若い女の子にしか興味がないという。
「違うわ。今がどんなに美しくても、容色は歳とともに衰えるの……あなたには分からないわ」
時を止め、永遠に若く美しいままの『選ばれし者』。
「今はまだいいわ。夫はもう見向きもしてくれないけれど、わたくしは綺麗だもの。皆が美しいと、褒め称え、よくしてくれるわ」
夫人は扇を閉じた。
「でも、歳をとるの。わたくしが美しいのは、あと何年かしら? 若さと美しさを失ったわたくしに何が残るの? わたくしは歳をとりたくない」
「無理を言う……人は歳をとるものだ」
きっ、と夫人が水無月を睨みつけた。
「例外が、あなた方だわ! あなた方は衰えることもなく行き続ける、どうしてあなた方だけが、そんな特別なの!」
「そんなことは知らん。神のみぞ知る、だな」
事実、『選ばれし者』が、なぜ歳をとらないのか、特殊な力を持っているのか、解明したものはいない。
「浚った娘はどこだ? どれだけの人間が加担している?」
「あの子達は地下牢よ。この事を知っているのは、そこのグリンダとカッツェ、ノーマンに……後はご自分で調べることね。苦労したのよ。女の子達の世話はグリンダ一人で見ているし、街の子は警戒して浚うのが難しくなって……儀式の生贄の数がたりなかったの。でも、あの子達は返してあげてもいいわ」
水無月は視線だけで先を促した。
「わたくしを準不老者にして欲しいの」
やはりそれか、と水無月は心の中で呟いた。
「それは出来ない」
「なぜ? 女の子達がどうなってもいいの? それとも教団の許しがいるのかしら?」
水無月は夫人に向かって歩き始めた。
夫人は水無月を見詰め身じろぎもしない。
「『選ばれし者』にそんな力はない。教団にもだ」
「嘘よ! じゃあ、なぜ準不老者がいるの? あなた方が不老者にしているんでしょう!」
水無月は足を止めた──足音が軽い──とっさに飛びのこうとした水無月を、グリンダと呼ばれたメイドが走ってきて突き飛ばした。
床の一部が口を開き、水無月は落ちた。
執事が紐を再び引くと、からくりが動いて床の落とし穴の口が閉じた。
「よくやったわ、カッツェ。それに、グリンダ。あなたがいなければ、捕まえられなかったわ」
「勿体のうございます。奥様」
執事が恭しく頭を下げた。
グリンダが跪いたまま、濡れた眼で夫人を見上げた。
「奥様、これくらい、当然ですわ。奥様のためならば、わたし、何でもいたします」
「まあ、グリンダ。気にしなくてもいいのよ。あなたが悪いのではないわ。全てはあの男のせいよ」
「いいえ、奥様、お暇を取らされても文句も言えないわたしを、仕えさせてくださって感謝しております。奥様のためなら、どんなことでもいたします」
グリンダは夫人の夫が手篭めにしたメイドの姉だった。理由はともかく、解雇されても不思議ではないグリンダを夫人は解雇せず連れてきたのだ。グリンダは罪悪感から夫人の悪事に加担した。
「ありがとう、グリンダ」
夫人は嫣然と微笑んだ。
遠くで鳥が飛び立つ音がした。霧が深く、姿は見えないものの、林の中に生きているもの達がいる。
その人影はひと時止めていた歩みを進めた。
背は高く、腰までも届く黒髪をしている。細身に見えるが貧弱な感じではない。引き締まった俊敏さを想像させる体格だ。目じりの上がった黒瞳がきつい印象をあたえているが、ごく端正な顔をしている。背に一振りの白い鞘の剣。
身に纏うのは見間違いようのない教団服。
男は足を止め──抜刀していた──霧にまぎれて振り下ろされた刃を打ち払う──返す刀で切りかかったが──襲撃者はそれをかわしていた。襲撃者は後ろへ飛んで距離をとる。
深い霧が間合いを掴みにくくしていた。
「邪魔だなあ」
男は舌打ちして──刃から発した光が霧を払った。
果たして対峙していたのは、背が高くがっしりとした男──ノーマンだった。
その表情には驚愕が張り付いている。
「貴様、何者だ……」
襲われた青年は、苦笑した。
「それを聞くのは、僕の方だと思うんだけどな。あんた、何者?」
水無月と名乗る『選ばれし者』と同じ顔をした男は無邪気に笑った。
顔も姿も同じだが、それは水無月ではなかった。数手の手合わせだが、ノーマンには分かった。太刀筋もよく似ていたが、違う。
たとえるなら、研磨されつくした極上のカットのダイヤと、掘り出されたばかりの原石の違いだ。しかしそれは、これから研磨されれば極上のダイヤになる可能性を秘めたもの。
強い、とノーマンは直感した。
水無月の姿をしたものは、切っ先をノーマンに向けた。しばし、そのままにして、対峙していた。
「氷樹が反応しないってことは、人間? でもまあ、僕は向かってくるもんには容赦しないから。かかってくるなら、覚悟してよ」
青年は構えた。
ノーマンは鋭く踏み込み、切りつけた。青年はそれを払い、返す刃で切りつける。ノーマンは後ろへ飛んでかわし──青年が追撃する。鋭い突きをかわせたのは僥倖だった。
(強い! 何者だ、こいつ)
舞うような体捌き、無駄のない足運び、水無月でないとしても、恐ろしいまでの天賦の才だ。
急報を受けて、夫人は慌てて落とし穴を検めるべく、カッツェに仕掛けを動かせようとした。
「あけて、早く!」
(そんなバカな……出てこれるわけがないのに)
落とし穴に他に出入り口はない。『選ばれし者』である水無月は強情で、どうしても出来ないの一点張りだった。どうにも言うことを聞かない水無月に、夫人は最後の手段──『選ばれし者』の血肉を食う──を実行しようかと考えていた矢先だった。
仕掛けが稼動してわずかに入り口が口をあけ始めた──その刹那、火柱がふたを弾き飛ばした。
「ひっ!」
夫人は思わず悲鳴を飲み込んだ。
炎は他へ燃え移らず、すぐに消えた。
しかし、新たな炎が落とし穴の口から飛び出した──一対の翼のような奇妙な形の炎──その中心に水無月がいる。
髪一つ損なわず炎の中にいるその姿は、まるで──炎でできた翼を持つ天使のようだった。
炎をまとう水無月はゆっくりと床に足を下ろした。炎はすぐさま消えうせる。
夫人は歯の根もあわず震えた。
「あ……あなたは……何なの……」
「水無月……『選ばれし者』だ」
火を操る奇跡の力を、神から与えられた不老者はそう言った。
『選ばれし者』生まれつきその身に聖なる印を刻まれ、神に与えられた特別な能力を持つ、不老の存在。
その能力を目の当たりにして、夫人の中に畏怖が生まれた。
グリンダが恐怖を振り払うように叫んだ。
「そんな! 『選ばれし者』は人間相手に力が使えるはずがないのに!」
水無月の一瞥にグリンダは息を飲んだ。
「誤解があるようだが、『選ばれし者』は人間相手に能力が使えないわけではない。ただ……人間相手に使うことを躊躇う者がいただけだ」
『選ばれし者』は特別な能力を持つ。もし、彼らが邪悪な企みを持ったとしたら、普通の人間にはどうすることも出来ない。
それを制するのは、各人の心だけだ。『選ばれし者』の能力が刃としたら、その鞘はおのれを律する精神。
それだけに、『選ばれし者』は人間相手に能力を使うことを躊躇う者が多かった。その結果が『聖餐事件』だ。
水無月が『聖餐事件』を生き残ったのは、ひとえに敵と認識したものに容赦しない性格であったためだ。
生き残った『選ばれし者』は、多かれ少なかれ──クローリーはどうだか知らないが、クラウドの方が──そうした傾向がある。
「助けて! 誰か!」
カッツェが仕掛けを操作して、隠し部屋にいた護衛がなだれ込んできた。
その数は十人。
水無月は抜刀した。
「それに」
護衛が水無月に殺到した。水無月は──刃をよけて護衛の間をすり抜けた──ようにしか夫人には見えなかった。
「その必要もない」
護衛達が倒れた。
すれ違いざま、神速の一撃を繰り出していたとは、誰が信じるだろう。
水無月は夫人に向かって歩き出した。
グリンダが夫人を背にかばい、水無月の前に立ちふさがった。
「近寄らないで! 化け物!」
水無月は足を止める。その背に、カッツェが椅子を振り下ろした。
水無月は滑るような足取りで懐に飛び込み、椅子を握るカッツェの腕を掴んで止めると同時に、顎を柄で殴りつけた。背を向けられたグリンダは、テーブルの上のペーパーナイフを掴み、水無月に突きかかった。
「逃げてください、奥様!」
水無月はそれをやすやすとかわし、首筋に手刀を落とした。
「グリンダ!」
夫人はその場にへたり込んだ。
神から力を与えられた断罪者が、やってくる。夫人は目が離せなくなっていた。
「ここに、バスタードはいなかった。いるのは、醜い欲望にまみれた人間だけだ」
水無月の剣術の腕は『選ばれし者』の能力ではない。しかし、人間の体がもっとも充実した青年期のまま、何十年も修行と実戦を繰り返してきた成果でもある。
水無月は夫人に複雑な思いを込めた目を向けた。
「私……僕には妻がいた。妻は普通の人間で、いつか置いていかれることは分かっていたが、愛していた……もし、彼女がいつまでも僕のそばにいてくれるようになるのなら、僕はそうしただろう……だが……できない……そんな力はないんだ」
もし、本当に血肉を口にすることで不老になるのなら、水無月はわが身を削ってでも──妻を騙してでも、食べさせていただろう。
「僕は……アリサとともに歳をとりたかった……」
地下牢に囚われていた娘達は解放され、親元に帰った。夫人を唆したのは、怪しげな宗教団体であり、バスタードとはまったく関係がなかった。ロドウェン家と、その親類は、なんとか事件を穏便にすまそうと、財力と権力を駆使することになるのだが、それはまた後日の話である。
鏡を見ているような錯覚さえ覚えるほど瓜二つの姿を水無月は見ていた。
青年が破顔し、水無月は眼を剥いた。
「サルフォン! いるんだろう、出て来いサルフォン!」
水無月が怒鳴ると、サルフォンは木の影から出てきた。
「や、無事で何より」
軽く手を上げて挨拶するサルフォンに、水無月は怒鳴った。
「なんのつもりだ!」
「だから、かく乱。クラウから帰ってこないって聞いたもんで、影武者を使えば犯人が出てくるかと」
「違う! なんで、ここに瑞希がいるんだ!」
「あ、分かった?」
ここでサルフォンは術を解いた。
青年の背が低くなり、腰まで届いていた髪が、肩の辺りまでになる。顔が若返り、少年の顔になる──瑞希だった。幻影を作り出し操る能力を持つサルフォンが、瑞希に幻影をかぶせていたのだ。
「臨時雇い。顔や姿はどうにでもなるけどさ、太刀筋まで似てるのは、瑞希だけだもんな。俺の幻影じゃあ、あんたの剣術って再現できんのよ」
「臨時雇い? 聞いたことないぞ、そんなもの!」
「前例がないということは、不可能ってことじゃない。あんたの出張中は、ハザムが保護者代理だもんね」
水無月は唸った。
最初からそのつもりだったに違いない。「ホーム」からここまで、何日もかかるのだ。
瑞希が口を挟んだ。
「祖父ちゃん。相手はバスタードじゃなかったけど、僕、できるだろう。祖父ちゃん、お願いだから、許してよ」
「瑞希……」
水無月は震えた。きっと顔を上げ、怒鳴る。
「祖父ちゃんは許さんぞ!」
「それで、玉砕ですか」
「お祖父ちゃん、頑固だから」
ハザムの執務室でハザムとサルフォンは並んで紫煙をくゆらせていた。
「できるってところを見せれば少しは変るっての、甘いよ。感情で嫌なんだからさ」
「まあ、しばらくは時々臨時雇いっと言うことで、十八になったら加入していただきましょう」
「まあ、そうなるかな」
異例のことではあるが、瑞希も口が堅いので問題はない。
「なんの手紙だ?」
ハザムが読んでいる手紙が、教団内部で使われているものではないことに気づいて、サルフォンは聞いてみた。
「クローリー・クラウドさんから、転居のおしらせですよ」
「あっそ、あいつもよくやるわ」
クローリー・クラウドは唯一教団の「ホーム」で生活していない『選ばれし者』である。外見が変らないため、こまめに引越しをしている。数年おきにこうして転居の知らせを送ってくる。
人と向き合うことが苦手なクローリー・クラウドは、準不老者の少女を友とし、逃げるように生活している。
しばし沈黙が辺りを制した。
そして、サルフォンが口を開いた。
「で……あのことはもう言ったのか?」
ハザムは引きつった笑みで応えた。
「……言えますか? あなた……」
「言えねえよな……」
「言えません。瑞希君に準不老者の可能性があるなんて……」
二人は重い溜息をついた。
「でもさ、発現するとはかぎらないし……」
「そうですね、可能性はあっても、その因子が眠ったままの人もいますし」
時がとまるまで、知らなかったふりをしよう。
二人の狸は硬く決意した。
まやかしの貴婦人 牧原のどか @nodoka-2017
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