第10話 幸せだった頃/Beautiful Thorns
リーゼロッテ・ファルケンマイヤーは寝不足だった。
それというのも、
「リュクレーヌ様ぁ、好きですぅ、好きですぅ!」
大きな枕を抱いて、ベッドの上でゴロゴロと転がっているからだ。
シャワーのあと、シャツだけ着て下には何も穿かないまま、ずっとこんなことを続けている。
しかも毎晩。
リーゼロッテは自分の気持ちを伝えないと決めた。そして、ただリュカを守ろうと決めたのだ。
しかし、それで感情が消えるわけではない。
10年間想い続けた愛情が消えるはずがない。それどころか、日に日に大きく膨らんでいく。特に自分の気持ちを理解してからは幾何級数的に広がった。
だから、部屋の鍵はキッチリと閉めて、毎晩こうやって発散していた。そうでもしないとうっかりリュカに気持ちを打ち明けたくなってしまうから。
そして、リーゼロッテが下着を穿いていない理由は、
「あ……リュクレーヌ様……」
自分の指をリュカの指に見立てて1人で耽けるため。
そうしないと眠れないのだ。
正確には、そのまま寝てしまうと淫夢を見てまたシャワーを浴びなくてはいけなくなってしまうから。
夢の中のリュカはかなり意地悪で、リーゼロッテはいつも攻められる。でもそれが自然だと感じているし、正しい形なのだと思う。
だから妄想の中でも、やっぱりリーゼロッテはリュカに虐げられていて、でもそれが酷く心地良かった。
絶頂を迎え、しばらくその余韻に浸り、そしてやっと現実に返って考える。
7年前のあの日がなければ、リュカが生きていると知っていたら、魔王になんてならなかったのに。
「……私はただ、あなたの騎士になりたかった……」
パスティアの王族は、生涯で1人だけ守護騎士を持つ。そのことを知った時にリーゼロッテは思ったのだ。心底思ったのだ。
私がリュクレーヌ様の騎士になる、と。
それは誓いだった。自分以外の誰にも、その立場を譲るつもりはなかった。
だから軍人になったし、マスカレードに乗った。強くなりたかったから。
でも全ては7年前に泡と消えた。
簡単に弾けて、簡単に失った。
あの時の憎しみも、あの時の怒りも、全て本物だったし、本気で国際連合も神聖ラール帝国も潰すつもりだった。
でも、
けれど、
涙が溢れる。
「……魔王でさえなければ……」
あるいは一緒に暮らすという選択肢もあったかもしれないのに。
堂々と「私を騎士にしてください」と頭を垂れることもできたかもしれないのに。
恋人ではないけれど、永遠に側にいることも叶ったというのに。
誰の目も気にすることなく、堂々とリュカのためだけに生きていけたのに。
全部自分で捨ててしまった。
「……なんて愚かで浅はかなのだ、私は」
すでにこの手は血で汚れ、立場を捨てれば誰かに殺される。
皇帝代行になるために最初に殺したのは父だった。
ファルケンマイヤー家は代々皇帝の後見人を務めていたから、父が死ねばその役はリーゼロッテにまわってくる。
父を殺した時、辛いとも悲しいとも思わなかった。元々愛されていなかったし、愛してもいなかった。
ただ、もっと苦しめてやれば良かったと思ったことはある。なぜなら、皇帝にパスティア王国を見捨てるよう意見具申したのが父だったから。
リーゼロッテの父は裏で国際連合と繋がっていた。7年前のあの日、金のためにパスティア王国を見捨てた張本人だった。
次は皇位継承権を持つ皇族を全て抹殺した。後見人として、次の皇帝が決まるまで皇帝代行ができるように。
だから、神聖ラール帝国に皇族は1人しか残っていない。まだ10歳の少女で、その子がリーゼロッテを代行人として認めた形になっている。形式上は。
復讐に生きた。それだけがリーゼロッテの支えだった。
血みどろの道を這ってでも復讐を遂行するはずだったのに。
「……今はこんなに、後悔している……」
ゴシゴシと涙を乱暴に拭う。
魔王リーゼロッテは引き返せない。分水領なんてとっくに過ぎている。
眠って、目が覚めればまた魔王に戻ってしまう。まるで魔法が解けるみたいに。
でも、今、この時だけは、
リュカを想っている今だけは、
まだ少女のままで。
11歳から14歳までの、幸せだった少女のままで。
ただ愛しい友人を想い、ただ愛して、それだけで幸せだったあの頃。
せめてそのぐらいは、
「許してください、リュクレーヌ様……」
他の誰もリーゼロッテを許さなくていい。
全人類がリーゼロッテを憎んでもいい。
だからどうか、
あなただけは私を受け入れてください。
◇
「ねぇリュカ、恋バナでもしましょうよ」
隣のベッドに入ったクリスタが言った。
「もう電気も消したのに?」
すでに室内は暗い。安くてボロいホテルの一室。ベッドはツイン。
「いいじゃない別に。この5日、リュカって何か思い詰めてる気がするし、気分転換だと思って」
クリスタは最初の印象と違って、とっても優しくて気配りのできる人だった。
まぁ、ちょっと変態ではあるけれど。
「あたしの恋は、ただ重いだけかもしれないよ?」
自分が恋をしていると気付いたのは、《ヴォルクの柩》にリーゼロッテが殺されそうになった時。
たぶん10年前から、ずっと。
まったく自分で自分がバカに思える。10年間もずっとずっと好きだったと、つい最近まで気付かなかったのだから。
しかも、相手は同性で、皇帝代行という立場の人間。
「相手はリーゼロッテ様?」
「え?」
「元から友達だったんでしょう?」
「……うん。内緒にしててごめん」
リュカはリーゼロッテにスマートデバイスを渡されている。何かあったらすぐ連絡できるようにと。
そのスマートデバイスにメールが入ったのだ。リュカと友達であることをみんなに話した、と。だからたぶん、親衛隊の誰かからクリスタにもメールが行ったのだろう。
「別にいいわよ。なんか特別なんだろうな、ってみんな思ってたし。それで? 相手はリーゼロッテ様なの?」
「なんでそう思うの? 女同士なのに……」
「じゃあ違うの?」
違わない、と胸を張って言えたらいいのにな、と思った。
リュカは良くてもリーゼを困らせたくはない。立場もあるし、変な噂はリーゼを追い詰めることになるかもしれない。
リーゼは神聖ラール帝国では人気がある。けれど、同時に嫌われ者でもある。リーゼロッテ政権を切り崩そうと考えている人間だっているだろう。
だから、この恋を打ち明けることはない。
でも、でも、
あのキスは何だったのリーゼ?
未だに聞けないまま。
嫌じゃなかった。全然嫌じゃなかった。あるいはあの時、リーゼを抱き締めていたら、受け入れてくれたのだろうか?
やはり怖い。聞きたいのに、聞くのが怖い。
妹みたいに思ってるのって、そう言われたら?
リュカだって、寝ているマリーに時々キスをしていた。そういう感覚だったら?
「まぁ答えたくないならいいわよ。わたしの話を聞いてくれる?」
「うん」
リュカはすぐに頷いた。
「わたしね、昔からお姫様やお嬢様にとっても憧れていたの」
「うん」
「だいたい女の子ならみんな憧れると思うけど、ちょっと違っててね。みんなは自分がお姫様やお嬢様になりたいのだけど、わたしはそうじゃなくて、お姫様やお嬢様に支配されたいって思ってるの。身も心も、って意味で。キモい?」
「キモくないよ」
本心だ。リュカだって同性であるリーゼに恋をしている。
リーゼは素直じゃなくて意地っ張りだけど本当はとっても優しい人。
「それに、理不尽に嬲られたりしたいの。わたしから人権を剥奪して、奴隷として扱って欲しいの。そういう願望。これでもキモくない?」
「キモくないよ。あたしは、クリスタの性癖がどうでも、クリスタのことを嫌ったり避けたりしないよ」
リュカがそう言うと、クリスタはホッと息を吐いた。
「あんたはそう言ってくれる気がしてた。なんでだろう? あんたといると、心が安らぐのよね。だからつい、自分の歪んだ欲望とかをぶちまけたくなるのかな? あ、捌け口にしたいって意味じゃなくて、ちゃんと聞いて、理解してくれる気がするから……」
「聞いてるよ」
子供の頃は、こういうことはよくあった。心に何か溜めている人の話を引き出して、ちゃんと聞いてあげて、その人が楽になれるように祈っていた。
みんなが幸せになれればいいな、って本気で思っていたから。
そして今も。
だからこそ、リュカはクリスタを否定しない。
「友達だと思ってた子にさ、この話したら引かれちゃって、それからずっと冗談にしてたんだけど、わたしは本気だったの……」
リュカはベッドを出て、そっとクリスタのベッドに入った。
「ちょっと、何?」
クリスタが驚いた風に言った。
リュカは優しくクリスタの頭を撫でる。
リュカはこの5日、シックスセンスを広範囲に使って反政府軍的な思想を持った人間を探していた。その時に、近くにいたクリスタの心にも触れている。
触れるつもりはなかったけれど、広範囲に使用していたのでクリスタだけ避けることができなかった。
だから、リュカはクリスタが心に仕舞っている「誰かに理解されたい」という想いを知っていた。
「リュカは優しいわね。友達には普通に優しくされるのがいいわね、やっぱり。でもリュカがお姫様かお嬢様だったら、わたしを支配して嬲って欲しいけれど……」
クリスタは目を瞑ってそう言った。
そういえば、昔はお姫様だったなぁ、なんてリュカは思った。
今はもう遠い、幼くて純粋で、そして幸せだった頃の話。
◇
翌日。
「オーディンに動きはありません」
「そうですか」
反政府軍の地下基地で、マリーはクロードの報告に頷いた。
この基地には20機以上のマスカレードと、たくさんの武器と弾薬が備蓄されている。いつの日か訪れるパスティア王国再建のために。
「国際連合駐留軍はこれ以上増えないとの報告ですが、少し数が多いですね。日程を変更しますか?」
「クロード、臆しましたか?」
「まさか! 僕に恐れなどありません!」
「ええ。知っています。国際連合軍が増えたのはむしろ有り難いです。全世界に向けたデモンストレーションになるでしょう。パスティアに手を出すとどうなるか、というデモンストレーションに」
マリーはふふっ、と笑ってから両手を後ろに回してギュッと握った。
少しだけ震えているのを、周囲に悟られないように。
「では予定通り決行しますか? マルティーヌ様」
「はい。そのつもりです。みなを集めてください」
マリーはもう薄汚れた服は着ていない。スカイブルーのシックなドレスを着て、髪の毛も綺麗に結っている。左右の編み込みを後頭部でまとめて、赤い髪留めを付ける結い方。
「マルティーヌ様……」クロードの父がマリーに跪く。「わたくしが至らないばかりに、あなた様を戦場に駆り立てることになってしまうとは……」
「問題ありません。我が父の騎士よ。あなたはよくやってくれました。仕えるべき王も、護るべき国もなかったというのに」
「わたくしは、どうしても国際連合を許すことができなかったのです。故に、ずっと戦い続け、あなた様が生きているなど考えもせず……。まさか姫様たちがドブネズミに身を落としていたなどと……」
クロードの父――《威風の騎士》は拳を握り、涙を堪えていた。
「あたくしは平気です。それに、クロードが見つけてくれましたから」
チラリとクロードに目をやると、反政府軍の仲間に集合をかけていた。
「我が愚息を姫様の騎士として頂いたこと、心から嬉しく思います」
「はい。その話は4回目ですよ? 老いるには早すぎます。あなたにはまだ、やるべきことがあるでしょう? さぁ、立ってください」
「はっ!」
《威風の騎士》は立ち上がり、マリーの左側に立った。
そしてマリーの騎士であるクロードがマリーの右側に立った。
マリーの正面には、整列した反政府軍の仲間たち。
いや、違う。
彼らは反政府軍でもテロリストでもない。
「パスティア王国軍のみなさん!」マリーが言う。「今日、あたくしたちは予定通りにパスティア王国を取り戻します!」
その言葉に、王国兵たちが雄叫びを上げる。
「大統領府を含む主要施設を押さえなさい! パスティア共和国軍は《威風の騎士》の部隊が叩きます! 国際連合駐留軍はあたくしと、《白夜の騎士》が殲滅する!」
再び雄叫びが上がる。
「政権を簒奪した逆賊どもに鉄槌を! 屈辱と侮蔑の中で育んだ、激烈な鉄槌を!」
更に雄叫び。
士気は十分。
彼らに欠けていた最後のピースがハマったから。
パスティア王家の正統な後継者であるマルティーヌ・モニカ・パスティアがそこにいるから。
「あの日を想え!」
7年前を思い出せ。
絶望に駆られたあの日を。
「「あの日を想え!」」
それはあたくしたちの糧となる。
「全軍!」マリーが右手を上げて、そして振り下ろす。「――出撃!」
◇
その日のテレビ放送に、全世界が釘付けとなった。
「あたくしはマルティーヌ・モニカ・パスティア。7年前に国際連合に奪われたものを取り戻すために、冥府から舞い戻りました」
ドレスを着て、髪を整え、化粧をして。
その少女は酷く美しく、可憐で、そして鋭い棘のようだった。
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