第4話 姉妹の征く道/First Kiss


 自室で食事を終えたリーゼが、ナプキンで口元を拭った。

 んー、なんとも優雅だなぁ、とリュカは思った。同じように口元を拭うとしても、リュカなら服の袖でゴシゴシとやってしまうに違いない。


「ん? ソースが付いているか?」


 リュカの視線に気付いたリーゼが言った。


「違う違う。綺麗だなぁと思って見てただけ」


 リュカが笑うと、リーゼは目を伏せた。

 リーゼの頰が少しだけ熱を帯びたように朱色に染まっている。

 リュカがジッと見ていたので照れたのかもしれない。

 リュカは食器をお盆の上に移動させる。これを食堂に戻して洗ってもらえば、とりあえず今日の仕事は終わりだ。


「さて。具体的な話をしよう」とリーゼが言った。


「具体的な話? お給料のこと?」


「……おい」リーゼは呆れたように苦笑いを浮かべた。「今後のことだ。私たちの目的について」


「あ、それなら、ラール帝国の法律書をちょうだい」

「法律書?」

「うん。あたしの目指す世界は、一気に辿り着けるようなものじゃないからさ。法をちょっとずつ変えていこうと思ってるの。ちょっとずつじゃないとみんな混乱しちゃうしね」

「なるほど。法を変えるのは別に構わん。どうせ皇帝の独裁……今は私の独裁だ。それほど難しくはない。だがどう変えるつもりなんだ?」

「法の中心に愛を置く」

「愛?」


 リーゼが首を傾げた。


「そ。愛を基盤にした法を作るの。今まで誰もそういう法を作らなかった方がどうかしてる」


 一部の人間が利益を享受するための法しか、今の世界には存在していない。自由や平等を謳っている法はあるが、どれも機能していない。


「私にはよく分からん」

「草案を作るよ。ラールの法を見ながらね。あとは、不足のない世界にすること。生活に必要な物が全員に絶対に行き渡るようにするの」

「そうか。リュカならできるだろう」


 リーゼが少し笑った。

 んー、なんとも綺麗だ。あたしが笑ってもこうはならないなぁ、とリュカは思った。


「それで世界征服の方なんだが、私はこれまで滅ぼすための、滅びるための、戦争をしてきた。故に、かなり多面的で戦力も分散している」

「じゃあ1番弱いところを落としてしまった方がいいね」

「ああ。そうだ。だからオーディンはポトン共和国に向かう。そこがもう一歩で落とせそうな国だ」

「海に面した西の国だね」


 そして国際連合の一員でもある。


「ポトンは連合の支援と傭兵のおかげでなんとか保っている、というところか。その傭兵がかなり厄介だから、私が直接向かう」

「うん。いいと思う」


 リーゼが行けば士気が上がる。その上で、1番厄介な敵をリーゼが倒せば、更に士気が上がる。

 リーゼがいれば、ヴァイスリーリエがいれば誰にも負けない、というイメージを味方の兵に植えることも。


「で、ポトンを落としたあとはラール帝国の領土として総督を置いて管理したのでいいか?」

「うん。世界の全部をラール帝国にして。世界は同じ法、たった1つの法によって統治されるべきだから」


 それはリュカの確信。世界は1つであるべきなのだ。

 そして、最後には皇帝という制度を廃止する。今はまだ必要だが、リュカの目指す世界に権力の集中は不要だ。


「なるほど。考えたこともないが、1つにするのは悪くないと思う。戦争のしようもないしな」

「そういうこと」

「ふむ。まぁ、世界はリュカのものだ。いいと思うようにしてくれ。私は世界を統一することだけを考える。明日にはポトン攻略部隊と合流し、戦闘になるだろう。今日はもう休め」

「うん。ありがとうリーゼ」

「いいさ。お前のためなら、世界の1つや2つはくれてやるさ」


 ふふっとリーゼが笑った。

 リュカも同じように笑った。

 胸がドキドキするのは、新しい世界の形を夢見ているからだろうか?


       ◇


「なんて可愛いんだ……」


 リーゼロッテは本日2度目のシャワーを浴びながら、両手と額を壁に押し当てた。


「笑うとまるで天使だな……」


 リュカの笑顔を思い出して、頰が緩む。


「それにメイド服……本当に心から似合いすぎて……あぁ、メイドにしてよかった……」


 10年前から可愛い子だと思っていたが、年頃になって正気を失いそうなぐらい可愛くなっている。少なくとも、リーゼロッテにはそう見えた。

 つまり、正気を失いそうなのはリーゼロッテだ。


「しかし、やはり痩せすぎているのが気になるな」


 リュカの健康が心配だ、という意味。変な意味ではない。

 だがオーディンにいる限り、食事に困ることはないはず。時間の経過で自然に適正な体重に戻るだろう。


「ああ、でも、胸はもう少し成長してくれた方が……」


 やっぱり少しだけ変な意味も混じっていた。


       ◇


 リーゼロッテがシャワーから出ると、リュカが寝ていた。


「私のベッドで……堂々と……だと?」


 かなり驚いた。

 リュカには食器を片付けたら休むように言ったが、まさかリーゼロッテのベッドで休んでいるとは予想外。

 チラリとテーブルに視線を送ると、食器を載せたお盆がそのまま置かれている。


「疲れていたのか」


 リーゼロッテはリュカを起こさないよう、ゆっくりとベッドに腰掛ける。

 そしてその寝顔を見て、胸がドキドキと高鳴った。


「可愛い……」


 ギュッと抱き締めたくなって、そっと手を伸ばす。

 けれどその手はリュカに触れる前に空中で止まる。

 触れていいのかどうか分からない。リュカはリーゼロッテを受け入れてくれたし、これからは同じ道を歩んでくれる。

 それはリーゼロッテにとって、死ぬほど嬉しいことだった。

 世界を与えれば側にいてくれるというのなら、いくらでも与えてやれる。本気でそう思っている。


「だが……」


 私の手は血塗られている――これまでに、すでに。そして、これからも。

 リュカは純粋さを失ってはいない。表に出さないようにしているだけだ。そうでなければ、みんなが幸せに暮らせる澄んだ世界を創りたいなんて思わないはずだ。

 綺麗なリュカと、汚れた自分。

 やっぱり触れない。

 リーゼロッテは手を引っ込めて、しばらくリュカの寝顔を眺めた。

 見るだけなら、問題ない。

 そう、思っていたのだけれど。

 閉じられた瞳、寝息、上下する胸、少し乱れた髪。

 そして、柔らかそうな唇。

 リーゼロッテは無意識に、自分の顔をリュカに寄せた。

 本当に無意識だった。

 軽く、自分の唇をリュカの唇に重ねる。

 目を瞑って、感触に溺れるように。


「――!?」


 リーゼロッテは自分のやったことに気付いて飛び跳ねるようにベッドを離れた。

 その時に足がもつれて尻餅を突く。

 私は……一体……。

 ……何をしたんだ?

 分からない。自分がしたことの意味が分からない。

 だが、それが最悪のことだというのは理解できた。

 やってはいけないことだ。絶対にやってはいけなかったことだ。

 こんなことは普通じゃない。

 綺麗だとか汚れているとか以前の問題だ。2人が完全に対等な存在だったとしても、やるべきではないことなのだ。


「ごめんリーゼ……」


 リュカが目を擦りながら身体を起こした。


「わ、私の方こそ、ごめんなさい……」


 咄嗟にそんな言葉が口から出た。

 皇帝代行の威厳も、魔王の威光もない、ただの人間としての言葉。


「え?」リュカが首を傾げた。「起こしたことなら、全然いいよ。あたしの方こそ勝手に寝ちゃってて……どうして床に座ってるの?」


「いや、このカーペット」リーゼロッテはカーペットを撫でた。「高価なもので、手触りがいいんだ」


「そうなんだ。やっぱり高い物は違うんだね」


 リュカが背伸びをする。


「ああ、やはり立場的に、それなりの物を、な」


 リーゼはリュカの顔を見ないように立ち上がる。

 まともにリュカを見られない。それは罪悪感なのか、それとも違う感情のせいなのか、リーゼロッテには分からない。


「ふぅん。じゃあ、あたし食器持って戻るね」

「ああ、そうしてくれ、また明日」


 リーゼロッテはずっとカーペットを見ていた。

 音と気配でリュカがベッドを降りたのが分かった。それからリーゼロッテの隣を通り過ぎて、食器を持ったのも分かった。


「あ」リュカが思い出したように言う。「リーゼのベッド、リーゼの匂いがしてすっごく気持ち良かったよ」


 その言葉で、リーゼの顔が極端に熱くなって、頭が混乱した。

 だから、


「そうか。それは良かった」


 そんな妙なことしか言えなかった。


       ◇


 リュカはリーゼの部屋を出て、ホッと息を吐く。

 お盆を左手だけで持って、

 それから、

 右手の人差し指でそっと自分の唇に触れた。


       ◇


 リュカに与えられた部屋は2人部屋だった。

 二段ベッドと小さなテーブルとクローゼットがあるだけの簡素な部屋。士官用ではないので、シャワーもない。

 けれど、それで十分だった。空中戦艦アリアンロッドの時は4人部屋だったし。


「ただいまマリー」


 二段ベッドの上で横になっているマリーに声を掛けるが、返事はない。

 まだ怒っているのだろうか。

 リュカは食堂で貰ったプリンをテーブルに置いて、それからメイド服を脱いで、クローゼットのハンガーに引っ掛ける。

 再びプリンを手にして、下着姿のまま二段ベッドの梯子を登る。


「マリー。ただいまー」

「ふん」


 マリーは壁の方に寝返りを打った。


「そんなに怒らないでよぉ」


 リュカが猫撫で声を出すが、マリーは返事をしない。


「あ、マスカレードはちゃんと買い取ってくれるんだって。支払いはラール帝国の通貨でいいよね?」


「お姉ちゃんは」マリーが言う。「ずっとオーディンにいるつもり?」


「うん。そのつもりだよ。仕事も貰ったし、世界征服したいし」


 リュカは冗談っぽく言った。


「世界征服なんてバカみたい」

「でもさ、それで世界が統一されて、良くなるかもしれないでしょ?」

「だから魔王のメイドになるの?」


 マリーが寝返りを打ってリュカの方を向いた。


「そうだよ」


「マリーは嫌」マリーはリュカを睨むように言う。「国際連合が世界で1番嫌いだけど、ラール帝国は2番目に嫌い」


 パスティアの国民はみんなそうだ。パスティア王国を潰した国際連合と、パスティア王国を見捨てた神聖ラール帝国。嫌いにならない方がどうかしている。

 リュカだって好きじゃない。でも、今の神聖ラール帝国は7年前とは違う。

 リーゼロッテ・ファルケンマイヤーが皇帝代行となったのだから、同じであるはずがない。


「ねぇお姉ちゃん、マリーは世界なんて欲しくないよ」

「あたしは欲しいな、世界」


 世界を統一して、そして変える。リュカはそう決めたのだ。

 マリーが幸せに暮らせるような、そんな澄んだ世界に変えるのだ。


「手に入れるのは魔王であって、お姉ちゃんじゃない」

「まぁ、そういう小難しいことは置いておいて、プリンだよ」


 リュカは左手に隠し持っていたプリンをマリーに見せる。


「プリン!?」


 マリーが目を輝かせて起き上がった。


「欲しいならおいで」

「行く」


 リュカが梯子を下りて、マリーもそれに続いた。

 リュカはプリンの蓋を剥がして、スプーンでプリンを掬う。


「はい、あーんして」

「……マリーは子供じゃない」

「いらないの?」


 リュカがそう言うと、マリーが口を開けた。

 その中にプリンを滑り込ませると、マリーが幸せそうに笑った。

 そうやって半分ぐらいまでマリーにプリンを食べさせた時、マリーがリュカからスプーンを奪った。


「お姉ちゃんもあーんして」

「はーい」


 リュカが素直に口を開けると、マリーがプリンを食べさせてくれる。


「美味しいぃ」


 リュカは目を瞑ってその味を堪能した。

 幼い頃、まだドブネズミじゃなかった頃は毎日食べていた。

 リュカの分があって、マリーの分があって、それから、幼馴染みのクロードの分もあった。

 ああ、なんだか泣けてくる。


「お姉ちゃん?」

「ごめんねマリー、あたし、なんで2個貰ってこなかったんだろう……」


 もう食べ物を分け合わなくてもいいのに。リーゼのメイドであるリュカは、食堂で好きなだけご飯が食べられるし、デザートだって欲しいだけ貰えるのに。

 アリアンロッドの賄いだってちゃんと2人分あって、それで分けないことに慣れたと思っていたのに。


「1個でいいよ」マリーが首を傾げる。「マリーは、お姉ちゃんと半分こするの好きだよ。嬉しいことも、悲しいことも、美味しい物も、美味しくない物も、全部お姉ちゃんと分けたいな」


「マリー」


 妹の言葉が嬉しくて、リュカはマリーを抱き締めた。


「ねぇお姉ちゃん、マリーはパスティアに帰りたいよ」

「……パスティアに戻っても居場所なんてないよ、あたしたち」


 リュカはマリーから離れて言った。


「創ればいい。マリーはお姉ちゃんと2人なら、それでいい。ちょっとぐらい苦しくても、お姉ちゃんと一緒なら耐えられるよ?」

「そうじゃないんだよマリー。耐える、って時点でおかしいんだよ。なんであたしたちが耐えなくちゃいけないの? なんでいつも笑顔で暮らしちゃいけないの? なんで? 世界が歪んでるからでしょ? リーゼなら、リーゼロッテ・ファルケンマイヤーならそんな世界を変えられる」

「それでもマリーはお姉ちゃんとパスティアに帰りたい」


 マリーは真っ直ぐにリュカを見ていた。

 その瞳があんまりにも澄んでいたから、リュカは一瞬だけど自分が間違っているのではないかと思ってしまった。

 小さく首を振る。

 間違ってない。間違ってるのは世界の方。


「マリー、あたしたちのパスティアはもうないんだよ?」


 7年前に滅びた。


「でも、取り戻そうと戦ってる人たちがいる」


 その声は凛としていて、その表情は決意に満ちていて、まるで王女のよう。

 だから酷く嫌な予感がした。


「待って、待ってマリー」


 リュカは右手で自分の額を押さえた。

 マリーはリュカに隠し事をしている。それは知っていた。でも、いつか話してくれると思っていたし、それほど大変な秘密ではないだろうと思っていた。


「ねぇマリー、まさか、反政府軍に参加したり、してないよね? あの人たちは、対外的にはテロリストだよ? あたしたちが参加したら、担ぎ出されて、いつか国際連合に殺されちゃうよ?」


 パスティア王国の敗残兵たちは、今でも昔を懐かしみ、夢に見て、現政府打倒を謳い、時々テロを行なっている。


「大丈夫」マリーは少しだけ微笑みながら言った。「参加してないよ」

「それ、信じていいよね? あたしに嘘吐かないよね?」

「うん。お姉ちゃんに嘘吐いたことないよ。今までも、これからも」


 その言葉に、リュカはホッと胸を撫で下ろした。


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